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重厚な執務机に腰を据えるレナート・ブラッツは、入室するシルヴィオを見るなり、にやにやと笑みを浮かべた。
「やあ、新婚生活はどうだ? あの氷の騎士が、新妻の前では溶け切っているとのうわさだが?」
「……からかわないでください」
シルヴィオはあきれながらため息をつき、陽の差し込む執務机の前へと進み出た。
王都の中心に構えるブラッツ公爵邸は、光が降り注ぐように明るく、洗練された雰囲気がある。どこか陰惨としたヴァルディエ公爵邸とは対照的だ。
若き公爵であるレナートは華やかな男だが、その口調は気安く、平民育ちの自分にも友好的な男だった。
しかし、シルヴィオは知っている。この男が油断にならないほどの辣腕ぶりで、国王陛下の信頼を得ていることを。
だからこそ、リーゼの話題を出したのには必ず意味があると、警戒するほどに身を引き締めた。
「……それで、私をお呼びになった理由は?」
「そうも急くな」
レナートはうっすらと笑みを浮かべたが、机の上で指を組み合わせると、鋭い眼光でじっとシルヴィオを見上げた。
「リーゼ嬢の方はどうだ?」
「……と言いますと?」
「おまえに言うのも酷な話だとは思うが……、リーゼ嬢が何かを企んでいるのは間違いないとの情報がある」
シルヴィオは眉間にかすかなしわを寄せたが、すぐさま否定する。
「あり得ません。リーゼは遠征中も屋敷におりましたし、ヴァルディエ公爵との接触はありません。閣下がこの結婚に反対だったのは知っていますが、彼女は……」
話を遮るように、レナートは手を挙げた。
「そう目くじらを立てるな。今から話すことは、あくまでもうわさだ。だが、いつかおまえの耳に入れておかねばと思っていた」
レナートは立ち上がるとシルヴィオに歩み寄り、真横に立つと声を低めた。
「公爵令嬢がすり替わっているという話がある」
「……なんと?」
「あるときを境に、元気に歩き回るようになったそうだ」
「あるとき……とは?」
レナートの鋭い金の目がのぞき込んでくる。
「本物のリーゼ・ヴァルディエが死んだときだ」
「まさか」
ハッと短い息が漏れる。
いくらうわさ話だと前置きしたとて、あまりにも荒唐無稽な話だ。だが、レナートの目は真剣そのものだった。
「ヴァルディエ公爵もまた、リーゼ嬢が表に顔を出すようになってから、様子がおかしいとの証言がある。最愛の妻を亡くしたばかりで、様変わりは当然だと言われていたが……、不治の病に伏していたはずの娘を、突然厳しく教育し始めたのにも疑問が残る」
「しかし、それは憶測にすぎません」
「公爵が次期宰相の座を狙っているのは、その言動から明白だ。古くから公爵を知る者たちによれば、やつは元々そのような野心家ではなく、体の弱い妻子を心配する、優しい男であったそうだ」
「優しい……」
シルヴィオはグッとこぶしを握った。
リーゼから、父を慕う話は聞いたことがない。しかし、その逆もない。無論、結婚早々、遠征に出発した夫に対して、胸のうちを正直に話す機会もなかっただろう。
しかし、気にかかることはあった。
それは、アルブレヒトがシルヴィオとの結婚を望んだにもかかわらず、結納金を出し渋った挙げ句、乳母やメイドを従えさせずに、リーゼを屋敷へ寄越したことだ。
あのときは、はるかに格下の伯爵家に愛娘を嫁がせることに対する嫌悪感だとばかり思っていたが……。
シルヴィオは一つ、頭を振る。
「それだけでは、証拠にはなりません」
「それだけじゃない。使用人がすべて入れ替えられたといううわさは、本当のようだ」
「すべて、ですか?」
わが耳を疑うが、レナートの言葉は残酷だった。
「リーゼ・ヴァルディエの顔を知る者はすべてだ。……そう言ったらわかりやすいか?」
「それは、どういう……」
「ヴァルディエ公爵夫人が亡くなる少し前、リーゼ嬢の身の回りの世話をしていた使用人が大量に入れ替わったとうわさになったそうだ。その後、解雇された使用人たちは皆、行方不明だ」
背筋がひやりとした。
それはつまり、本物のリーゼ・ヴァルディエを知る者たちが、口封じのために消された可能性が高いというのか。
「いや、しかし……」
まだそうと決まったわけではない。
リーゼの柔らかな笑顔が、閉じたまぶたの裏にちらちらと浮かぶ。
彼女が、偽物のリーゼ・ヴァルディエだなんて信じたくなかった。
「調べれば調べるほど、おかしなことばかりだ」
「ほかにも、何か?」
すでに絶望が浮かんでいるだろうか。レナートはわずかに同情の色を浮かべて、こちらを見つめている。
「たびたび、おまえの屋敷から灰色の鳥が出入りしているとの報告がある」
灰色の鳥だって……?
すぐにフィンが浮かんだ。リーゼが大切にしている──彼女が唯一の親友だと語った鳥の姿が。
「少々珍しい鳥のようだが、思い当たることでも?」
「……いえ」
シルヴィオは表情を押し殺し、首を横に振った。
レナートは覚えていないはずだ。フィンが……異国から連れてこられたヨウムであることを。
「その鳥が……何か?」
「追跡したところ、ヴァルディエ公爵邸に飛んでいくようだ。足にはいつも紙をつけて。まるで、伝書鳩のようにな」
「リーゼが、公爵と密書を送り合っているとでも?」
「そう考えるのが、自然だ」
シルヴィオは高ぶる怒りに似た何かを押し込めて、声を絞り出す。
「リーゼは……妻は、ヴァルディエ公爵夫人の葬儀に参列しています。あのときにはすでに入れ替わっていたとでも言うんですか」
悲しみに暮れたリーゼの表情は忘れない。
あれが、母を失った絶望でなければ、いったいなんだったというのか。
「私は……リーゼを信じます」
シルヴィオは自身に言い聞かせるように、はっきりと告げた。
彼女の細い身体が与えてくれるぬくもりも、恥じらいも、すべてが嘘だとは思いたくない。
何がなんでも、彼女を信じたい。
夫である自分が信じなければ、誰が彼女を守れるというのか。
レナートはふっと息を吐くと、シルヴィオの肩をがっしりとつかんだ。
「……まあ、あくまでもうわさだ。あまりのめり込むなとだけ忠告しておく」




