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覚えていることが一つだけある。それは、フードを目深にかぶった少年のことだ。
公爵邸に連れてこられて、一年ほど経ったころだった。庭に茂る樹々の根もとで倒れる鳥を見つけた。その灰色の鳥を服の中に抱きかかえ、幼いリーゼは部屋へと運んだ。
メイドたちに見つからないよう、毛布に包んで、自分の食事からパンを分け与えた。そうするうちに、飛べるほど元気になった。
窓の外へ放してみたが、鳥はすぐに舞い戻ってきてリーゼの肩に乗った。
何日かして、こっそり鳥の世話をしていることをアルブレヒトに知られたが、なぜか、飼うことを許された。
今思えば、スパイに役立つと見込んでいたからだろう。
弟が生まれる前から飼っていた犬の名前と同じ、フィンと名付けた。
それからリーゼは時折、フィンを連れて中庭で遊ぶようになった。
あの少年に出会ったのは、すっかりフィンがリーゼになついたころだった。
少年は異国から連れてきた鳥を探していると言っていた。なんでもその鳥は、貴族の屋敷へ運ばれる荷から逃げ出したらしい。そして、ヴァルディエ公爵邸の方へ飛んでいくのを見たものがいると。
リーゼはフィンを手放したくなかった。しかし、貴族の所有する鳥だとわかった以上、返さなければならないことも理解していた。
ぶるぶると震えながら、フィンを両手のひらに乗せて差し出した。
少年の手に渡ると、フィンはふしぎそうに首をかしげていた。
もう二度と会えなくなる。やっとできたお友だちなのに。
そう思ったら、ぽろぽろと涙があふれた。
両手で顔を覆い、足もとに座り込んだ。すると、立ち去ったはずの少年が戻ってきた。
彼は涙をぬぐうリーゼにフィンを差し出し、こう言った。
『俺はここには来なかった。鳥も見つからなかった。……いいな、誰にも言うなよ』
リーゼはコクンとうなずいた。
そのとき、二人だけの内緒の約束が生まれた。
たとえ、夫であるシルヴィオにでも、少年との約束を破って話すわけにはいかなかった。
「いいえ、誰にも」
リーゼは努めて自然に首を横に振った。
「……そうか。……いや、変なことを聞いてすまない。忘れてくれ」
シルヴィオの声はどこか低く、そのまま黙り込む。
(もしかして、フィンを異国から取り寄せたのは、シルヴィオ様……? それじゃあ、あのときの少年は、その使い……)
リーゼは不安になったが、気まずい沈黙を終わらせたくて、あわてて視線を巡らせた。
ふと、シルヴィオの視線が、テーブルの上で止まっていることに気づいた。
そこには、読みかけの本と一緒に、広げられたままの大陸の地図があった。
リーゼは話をそらすために、あわてて口を開く。
「あ、あの……! シルヴィオ様はラグローリアを広く旅なされていたとエルナから聞きました」
「え? ああ、そうだな」
突然何を? と驚いた様子だったが、シルヴィオは一つうなずいた。
「ちょうど今、読んでいる本が辺境伯の……恋物語なのです」
「恋物語……だと?」
シルヴィオは拍子抜けした後、テーブルの上の本をつかんで突き出すリーゼが愛しくてたまらないというように目を細めた。
「は、はい。その……辺境伯の暮らす土地というのは、いったい……どういうところなのだろうと、……実は、地図を見ていたのです」
リーゼはつっかえながらそう話した。
自分が支離滅裂な話をしているのはわかっていた。しかし、シルヴィオに笑われようが、情報を引き出すチャンスは今しかない。
「それで、地図を」
強引な話にもかかわらず、シルヴィオは何気なく地図を手に取った。
「シルヴィオ様はご存知ですか? 王都エリーシュより東の大地、ノマール地方には辺境伯の治める領地があるのだとか」
「……まあ、知らぬことはない」
「さぞかし、自然豊かな領土なのでしょうね? 本に出てくる辺境伯は、それはそれはとても美しい貴公子で……」
「リーゼ」
ペラペラとよくしゃべるリーゼをあきれたように見て、シルヴィオはソファに腰掛けると、神妙な顔つきで地図を眺めた。
「地図に、何か……?」
ここぞとばかりに、リーゼはシルヴィオの隣に座って身を寄せた。
「残念だが、俺はノマールに行ったことはない」
「……そう、なんですか」
あからさまにがっかりすると、シルヴィオはちょっと笑って、リーゼの頬を親指でこする。
「しかし、この土地がリーゼの想像するような美しい場所でないことは知っている。……本の中の貴公子とやらも、いないだろうな」
「え……、どういうことですか?」
リーゼはごくりと唾を飲み込んだ。
知りたい。知らなきゃいけない。
込み上げてくる思いを押さえ込み、何も知らない無垢な娘のような目で、彼を見上げる。
「リーゼが知らぬ世界だ。これから先も知らなくていい世界が、ここには広がっている」
穏やかな農村も、辺境伯が恋するような土地も、そこにはない。
リーゼはそれを、痛いほど知っている。
「何かある領地なのですか?」
「あなたの父上は何も話していないのだな。知りたいか?」
「……はい」
じっと見つめ合う。
シルヴィオの目は、愛おしい妻を見つめる目ではなく、騎士の目になっていた。
おそらく、彼もまた、リーゼの真剣なまなざしを、公爵令嬢としての責務に満ちたものだと思ったようだった。
「……では、話そう。ノマール地方のエルラントは、カスパル・トゥクル辺境伯が治めていた」
「エルラント……」
無意識に、リーゼは手を握りしめていた。
こんなにもあっさりと、生まれ故郷の名をシルヴィオの口から聞けるとは思っていなかった。
「ああ。エルラントには、トゥクルのやり方に反発する反乱軍がいた。今から13年前のことだ。反乱軍の首領がトゥクルの暗殺を図り、ノマールは焦土と化した」
「長く……争いは続いたのですか?」
「いや……、前国王陛下の命で、ヴァルディエ公爵率いる軍が派遣され、反乱軍を制圧したんだ」
「では、今は……」
「トゥクルは死に、そのとき、反乱軍もすべて処刑されたと聞いた」
「すべて……反乱軍の首領もですか?」
シルヴィオは痛ましげに目を伏せたが、すぐに顔つきを引き締めた。
「当然だ。いくら、トゥクルに悪政を強いられた農民であったとしても、辺境伯殺害の罪は重い。首領である『ヨハン・ノイエル』の名は歴史に語り継がれてはならないと言われるほどだ」
「……なぜ、シルヴィオ様がそんな話をご存知なのですか?」
焦りを覚えるように、胸の鼓動が激しくなる。
ヨハン・ノイエル。
その名をリーゼは知っている。忘れるはずがない。父の名だからだ。反乱軍の首領に仕立て上げられ、殺された、父の──。




