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重々しい角笛の音が、静かな昼下がりをざわつかせた。
「シルヴィオ、キカン。シルヴィオ、キカン……ッ」
窓際に置かれた鳥籠の中のヨウムが、けたたましい声をあげる。
(帰還ですって?)
リーゼの手から滑り落ちた銀のかぎ針が、カタン、と床で硬質な音を立てた。
(まさか……あの人が?)
編みかけのレースがひざから落ちるのも構わず、リーゼは窓辺へと駆け寄った。
窓ガラス越しに見下ろせる通りには、雪を巻き上げて進む一団の姿がある。
風に揺れる、威風堂々たる第一王国騎士団の青旗。整然と列を成す大勢の兵士たち。
その先頭を行く漆黒のマントの人物は──ここにいるはずのない男。
しかし、その姿を見間違えるはずもなくて、リーゼの胸は激しく拍動した。
(嘘……どうして? 早すぎるわ!)
夫であるシルヴィオが、予定よりも早く帰還するなんて聞いてない。
「フィン!」
リーゼは震える声でヨウムの名を呼んだ。
鳥籠から飛び出してきたフィンの足に、羽根ペンで走り書きした紙切れをくくり付ける。
夫が屋敷に到着するまで、あと数分もない。
それまでにこの手紙を飛ばさなければ──弟が殺される。
凍りついた鍵をこじ開けるようにして、勢いよく窓を開く。
「……行ってっ」
震える指先から放たれたヨウムが、雪を降らせる重い雲へと吸い込まれていく。
「お願い、間に合って!」
雪まじりの風が室内に吹き込む。
凍えるような冷たさがリーゼのほおを差し、窓枠をつかむ手は、感覚がなくなるほど冷え切っていた。
フィンが運んだのは、夫の帰還を知らせる密書。
あれが父の手に渡れば、また一つ裏切りに加担したことになる。けれど、飛ばさなければ、囚われた弟リヒトが殺される。
(許して、シルヴィオ様……。私には、あなたよりも弟の命が──)
リーゼは窓を閉め、乱れた呼吸を整えた。
窓ガラスに映る自分は、公爵令嬢にふさわしい、穏やかで美しい顔立ちをしている。
この容姿を持って生まれたことは不幸であり、幸運でもあった。誰も気づかないだろう。病弱な令嬢が覚悟を決めたスパイだということに。
(大丈夫。心配いらない。笑顔になるのよ、リーゼ)
軍人である夫に、この動揺を気取られてはいけない。
自身を奮い立たせたそのとき、階下から重々しい靴の音が響いてきた。
せわしなく鋼がぶつかり合う歪な音。
まっすぐこちらに向かってくる足音は、リーゼに現実を突き付ける。
半年前、新婚早々に戦地へ向かった夫、騎士団長のシルヴィオ・ヴァイスが、本当に帰ってきたのだ。
(どうしたらいいだろう……)
夫婦らしい時間を過ごすことなく戦地へ赴いた夫を、リーゼはどう迎え入れたらいいのかわからなかった。
とにかく、ここにいてはいけない。
死地から帰還した夫を自室でじっと待つ妻はいないだろう。
リーゼが急いで部屋を出たとき、長い廊下の途中に男の姿があった。
戦場の冷気をそのまままとったような男。マントがひるがえるたびに揺れる銀髪は、雪を被ったように輝いている。
その、久しぶりに会う夫の姿に、リーゼは圧倒されて声が出なかった。
彼の身に、大きな傷は見つけられない。それどころか、長旅の疲労さえ見えない。むしろ、出立前よりも、誇りに満ちているように見えた。
「リーゼ」
低い声で彼女の名を呼んだ彼は、足早に近づいてくる。
氷のような青い瞳に射すくめられたリーゼは、うわべを繕う言葉を忘れてしまった。
シルヴィオと結婚するよう父に命令されてから、彼が国王の命で戦地へ赴くまでの期間はほんの数日で、無口な彼とはほとんど言葉を交わしたことがなかった。
夫婦とはいえ、出会ったばかりの男に等しい。その上、氷の騎士と恐れられる彼は、大陸中に名を轟かせる有数の騎士。そんな彼に気安く話しかける言葉さえも、リーゼはまだ知らなかった。
黙っていると、意外にも、シルヴィオの瞳に柔らかな色が宿った。
「今、帰った。……変わりはなかったか?」
リーゼはすっかり戸惑った。
(こんな風に笑う方だったかしら……)
しかし、取り繕うことを忘れたわけではなかった。彼の前では、リーゼは公爵令嬢としての振る舞いをこなさなければならない。
だからこそ、唇の端が震えるのを噛み締めて、完璧な微笑みを浮かべてみせた。
今し方、じわじわと夫を死に追い詰めるための情報を飛ばしたばかりだとは、決して悟られないように。
「おかえりなさい、シルヴィオ様」
「ああ、ただいま」
シルヴィオはそうつぶやくように言うと、またしてもじろじろとリーゼを眺めた。
どうにも落ち着かなくなる。何かを見破られたのではないか。だから、早々に帰還したのではないか。
怒り狂う父、成長した弟を想像し、頬が強張った次の瞬間、視界が黒いマントに覆われた。
ガシャン、と硬質な金属音が耳元で鳴り響く。
逃げ場のない強さで、シルヴィオの腕がリーゼを抱きすくめていた。
冷え切った胸当ての感触。鼻孔をくすぐるのは、冷たい冬の匂いと、かすかな革と鉄の匂い。けれど、首筋に押し当てられた彼の顔からは、火傷しそうなほどの熱気が伝わってくる。
「……会いたかった」
耳元で囁かれたその声はかすれていた。




