ウォーキング 1
ゴールデンウィークからしばらく経った五月の終わり。最近数日は特に、暖かさというより、むしろ暑さを感じる時間帯も増えてきた。
大抵の市町村同様、かわせみ町役場も制服などはないので、これくらいの時期から職員たちはより軽装になっていく。外回りの多い陽和美たち町民支援課などは最たるもので、薄手のアウターを引っかけて町の方々へ出かけて行きながらも、帰ってきたときはそれを片手にポロシャツや半袖シャツ姿、というパターンが早くも定番化しつつあった。
ただし。
「でもやっぱ、このたぷたぷが気になっちゃうのよねえ」
「ですよねえ」
昨日の役場内。たまたま揃ってポロシャツを着ていた杉下とともに、陽和美は自身の二の腕を触って嘆いたものである。杉下の方は、逆にエアコンの効いた室内では上着を羽織る場合も多い、痩せ型の竹山に、
「竹ちゃんに半分わけてあげたいくらい」
などと伝え、「結構です」とすげなくあしらわれてもいた。
先輩たちの〝らしい〟やり取りに思わず吹き出してしまった陽和美だが、じつは心の片隅では、笑っている場合ではないぞという黄色信号も点滅中だった。これからますます薄着の季節。二の腕も含め絶賛溜め込んでいる体脂肪を、いい加減どうにかしなければ。
ピラティスもどきの神通力も、もう切れちゃってるしなあ。
徹とアンから教わったマットピラティスは、相変わらずちょくちょく続けてはいる。けれどもアンが語っていた通り、あくまでも身体のコントロールや姿勢の改善がメインターゲットとなるため、直接的な減量効果は期待できない。実際、あれ以降も陽和美の体重はなんら変わっていないし、お腹や二の腕も緩い形のままだ。
ついでに言えば、痩せたと誤解してくれた人たちにも「ピラティスの真似事したら、ちょっと姿勢がよくなっただけです」と種明かしをしてしまったし、周囲が見慣れてきたことも重なってか、今ではすっかり何もコメントされなくなっている。
今年こそ、水着とか着てみたいけど……。
恥ずかしながらかわせみ町に来て以来、陽和美は一度も地元の海で泳いだ経験がない。それどころか、最後の水着姿も学生時代にまで遡る。
まずは本当の意味で痩せないと、か。
なんとか脳内でだけひとりごとを完結させ、陽和美は自分のデスクでさり気なく溜め息を吐いたのだった。
シンクロニシティよろしく、同じ日の午後、まさに水着絡みの話を陽和美は聞かされることとなった。場所は役場から徒歩圏内の『かわせみ町立図書館』。
『かわせみ情報センター』なる公民館の最上階、三階部分に当たるここは、図書館と名乗ってはいるものの、むしろ「図書室」と呼ぶ方がしっくりくる規模の施設だ。広さは学校の教室二つぶん程度だし、設備もコンパクトな書架に数台だけの閲覧・学習共用の机、あとは受付とキッズスペースのみ。といっても人口七千人弱、学生などはむしろ少数の田舎町なので、町民たちから大きな不満は出ていないようだが。
なんにせよ、その小型図書館で陽和美は見知った顔――いや、顔よりも先に見知った色を発見したのだった。
「あれ? 徹さんじゃないですか」
「ああ、陽和美さん。こんにちは」
他に利用者がいない状況もあるが、そうでなくともどこで売っているんだとつっこみたくなるような、派手派手しいローズピンクのTシャツですぐにわかった。机にノートパソコンを載せ、こちらに背を向ける格好で何やら作業しているのは、誰がどう見ても徹である。
先月、教わったピラティスで心身ともにちょっぴり変われたお礼のメッセージを、陽和美は徹にも送っていた。以来アンほど頻繁ではないが彼からも、主に町内の店や人物についての情報を求める、どちらかと言えば業務連絡的なメッセージが時折届くようになった。そんな経緯もあり、敬語こそ残ったままだが、少なくとも下の名前で呼び合える程度には二人との距離は縮まっている。
「あ、すみません。パソコン、大丈夫ですか? キーボードの音とか」
「今は誰もいないから大丈夫ですよ。他に勉強とか調べ物をしてる方がいれば、一階とか二階に移ってもらったりしますけど」
軽く手を振りながら、陽和美は吹き出すのをなんとか堪えていた。律儀に立ち上がって会釈してくれたことで、徹のTシャツに書いてある言葉が読み取れたからだ。
ハッスル・マッスルって……。
Tシャツの胸部分には《Hustle! Muscle!》という文字が、綺麗にプリントされているのだった。しかもフォントが明朝体なので、どうにも怪しいバッタものっぽい。
「いいでしょう、これ。興味があればお店を紹介しますよ」
「い、いえ、大丈夫です」
マジで売り物だったんだ、と陽和美としては逆に感心してしまうしかない。お得意のうさんくさい笑顔とともに、相変わらず残念すぎるイケメンである。
「陽和美さんもお仕事ですか? ていうか、図書館のヘルプとかもするんですね。ご苦労様です」
訊かれた陽和美は「月に一度だけですけどね」と、自分がここにいる理由を説明した。
陽和美が図書館を訪れたのは、例によって他部署――施設を本来管轄する、教育課の助っ人としてだった。
教育課と言えば先日、なんでもかんでも支援課に丸投げするのはやめろと、平たちの助けも借りて抗議したばかりの相手だ。ただ今回に関しては、以前から納得済みで手伝っている業務のため抵抗感はほとんどない。具体的には、子どもへの読み聞かせ教室の講師と、合間を縫っての受付補助や返却本の整理といったものである。
かわせみ町立図書館では月に一回、小学校低学年までの子どもを対象とした読み聞かせ教室を開いている。昨年、それまで担当してくれていた町民の女性が高齢を理由に引退したのを受けて、大学時代は児童文化サークルだった陽和美に、白羽の矢が立ったのだった。
隣の湯ノ根町で教員をしていたというその人は、
「陽和美ちゃんみたいな人がいてくれて本当によかったわ。でも無理はしないでね。役場の皆さん、いろいろとお忙しいでしょうし」
と却ってこちらを気遣いながら、陽和美にバトンを渡してくれた。
経歴通り陽和美自身、子どもがまったく苦手ではないし、彼女の教室も楽しく見学させてもらったことがあるので、この仕事に関してはむしろ前向きな気持ちで引き継ぎ、現在にいたっている。自分が一番役に立てる、それも子どもたちのためになる仕事を、無理なく手伝えるのなら何よりだ。
「こういう仕事なら、頼られても全然嬉しいんだけどなあ」
頬を緩めてつぶやきつつ、今日も軽やかな足取りで図書館に到着したのが十分ほど前。今は午後一時半過ぎなので、読み聞かせ教室まではあと一時間以上あるし、いつもコンビで仕事をするパートの女性司書は休憩に入っている。
どこかのんびりした、ちょうどエアポケットのような時間帯に、ふと見れば徹が来ていたというわけだった。
「なるほど。まさに町のなんでも屋さんですね。いつもありがとうございます」
「いえいえ。でも徹さんだってお仕事なんですよね。私も、って言ってたし」
なんの気なしに陽和美は尋ね返してみた。徹が開いているパソコンのモニター部分が自然と目に映ったのもある。モニターには、一次停止中の動画らしきものが全画面表示されていた。彼の仕事は映像ディレクターなので、何か作品を制作中だったのだろうか。
隠すこともなく、徹もにっこりと答えてくれた。
「ええ。といってもウェブで公開されてる、納品済みの商品をチェックしてただけですけど。どんなブラウザでも問題なく観られるかとか、アスペクト比が狂って表示されたりしないかとか。事前にきちんと確認はしますが、万が一アップロード後に不具合が出てたら、それがこちらの責任じゃなくても、クライアントさんには報告させてもらってます」
「へえ」
要は、納品後のアフターサービスといったところのようだ。
「今のところ問題なさそうだし、よかったら陽和美さんも観てみますか。自画自賛みたいになっちゃいますけど、ロケの段階からかなり頑張ったPVなんですよ」
「え? いいんですか?」
「もちろん。今言った通り先方のウェブサイトで、もうすでに公開されてますから」
頷いた徹が最初から再生してくれたのは、陽和美もよく知っている有名テーマパークのサマープロモーション用ビデオだった。
《Hey! Are you ready?》
元気一杯のナレーションに合わせ、古い洋城を背景に、王様、魔法使い、ドラゴンといったファンタジックなキャラクターが登場して動画は始まった。彼らの手招きに応じて、騎士や妖精に扮したダンサーに導かれた、わくわく顔のゲストたちもフレームインしてくる。
皆が揃ったと見るや「では、いきますぞ」とばかりに、カメラ目線で笑う王様。そうして彼が、魔法使いから渡された杖を一振りした瞬間。画面全体にハレーションぽいエフェクトがかかり、石畳の広場だった舞台は一気にビーチへと切り替わった。
《王国の夏は、今年も熱い! お馴染みウォータースプラッシュにミストグリーティング、そしてキングたちもお待ちかねの新イベント、『クール・フール・パレード』で身体はクールに、心はホットに盛り上がろう!》
出演者たちの様子も一変し、いつの間にかゲストを含む全員が、水着姿もしくは軽装になっている。しかも手には水鉄砲や大型の霧吹き、人工雪と思われる白い粉の入ったバケツを持ち、そこかしこで大はしゃぎしながら。
息の合ったリフトで頭上から雪を降らせて回る、男性騎士と妖精の笑顔がまぶしい。ポロシャツを着た運営スタッフらしき女性コンビまで、同じく満面の笑みでちびっこと水をかけ合うなどして本当に楽しそうだ。
《ユーロ・パラダイスのスペシャルサマーイベント各種は、六月一日より一斉スタート! 詳しくはウェブサイトで! C'mon & Join us!!》
最後のひとことに呼応する形で、日程や公式ウェブサイトのURLが挿入され、プロモーションビデオは一分半程度で綺麗に終了した。
「わあ! ユーパラじゃないですか!」
自分と徹しかいないのもあって、陽和美はつい大声を出してしまった。中世ヨーロッパの世界を模した『ユーロ・パラダイス』は、美しい建物や街並みとこうした多彩なイベント、何より素晴らしいホスピタリティによって、地方という立地ながらも国内外から多くのリピーターを集める大人気テーマパークである。陽和美自身、家族旅行や卒業旅行で何度か行ったことがあるし、そのいずれもが忘れられない思い出だ。
「凄いですね、徹さん。ユーパラのPVとかもつくってるなんて」
「いえ、年がら年中いろんなプロモーションを打たなきゃいけない施設さんなので、僕みたいな零細業者にも、お声がけくださるだけですよ」
謙遜しているが、海外でも知られるテーマパークの公式PVを任されるくらいだから、映像ディレクターとしての徹は、かなり高い評価を受けているのだろう。やはりというかなんというか、ただのうさんくさい残念イケメンではないのだと、陽和美はあらためて感心させられた。
「ちなみに今回のサマーイベント、エリア限定ですけど本当に水着を着てもOKだそうですよ。撮影は三月中だったんで、モデルさんたちは寒そうで申し訳なかったですけど」
「へえ」
全画面表示されていた動画の枠を戻して、徹はその説明ページもわざわざ見せてくれた。なるほどたしかに、《※サマーイベント開催期間中は、シチズン・ゾーン及びマジカル・ゾーンは水着での行動も可能です。各エリアに設置されている更衣スペースでお着替えのうえ、ルールを守ってお楽しみください》と、みずから水着姿になったキャラクターたちのイラストとともに、わかりやすく注意書きがなされている。
「水着かあ」
無意識のままに腕を組んで、陽和美はしみじみとつぶやいてしまった。PVに出演していた同年代くらいの女性たちの姿が、はっきりと脳裏に甦る。徹いわくモデルという話なので、言わずもがな水着も全員が似合っていた。華やかな柄のパレオつきビキニや、シックで大人っぽいワンピース。そこまで露出の多くないラッシュガード姿だって、スポーティな印象でとても素敵だった。
「やっぱ、夏は水着だよね」
徹が目の前にいるのも忘れて、唇がいつものひとりごとを発し続ける。昨日もちらりと考えたが、海であれテーマパークであれ、お洒落な水着姿で堂々と闊歩できたらどれほど気持ちいいことか。
「頑張ってみようかなあ……」
目標とすべき姿を実際に映像で見られたことで、いつしか陽和美のなかで前向きな思いが芽生えていた。
さすがに身の程はわきまえているので、自分がモデルみたいになれないのは承知済みだ。けれどもこっそり準備して、こっそりトライする程度なら許されるのではないか。例えばかわせみ半島の先端、七つの大岩が綺麗に並ぶ『七ツ岩海岸』あたりでなら、誰もいない時間帯もあるし、さり気なく上着を脱いでの水着時間を楽しめるかもしれない。我ながらメリハリの乏しい幼児体型だけど、目撃されるにしてもきっと野良猫くらいのはず。
それに今はまだ五月。夏休み期間まで二ヶ月近くもあるし、ピラティスもどきの成功体験(?)を踏まえれば、意外とこの身体の〝伸びしろ〟も、捨てたものじゃないのでは――。
「陽和美さん?」
突然一人の世界に入ってしまった陽和美を前に、徹の方は怪訝な顔になっている。
呼びかけられてようやく我に返った陽和美は、だが勢いのままに両手を腰に当て、意味不明の宣言をしていた。
「ありがとうございます、徹さん。私、水着を目指します!」