ピラティス 5
やっている最中は奇声すら発していた陽和美だが、じつはその日の晩からさっそく、教わったピラティスを部屋で繰り返すようになった。ついにささやかなダイエット計画をスタートさせたのである。
――これから頑張ればいいだけの話じゃない。ね?
軽やかに励ましてくれたアンの声が、脳内で甦る。
「上からピンク」(「上から目線のうさんくさいピンクイケメン」を略したら、自然とこうなった)な徹はさておき、憧れの女優からのひとことは精神的にも物理的にも重い腰を上げるには、じゅうぶんすぎるきっかけだった。当初はウォーキングを予定していたものの、ピラティスの真似事なら自宅でもできるし、ますますちょうどいい。
かくして自称「ピラティスもどき」を、陽和美は週に二~三度のペースで続けていった。
基本のスターティングポジションから、へそを覗き込むようにして腹筋を使い、身体の左右で両手を上下させる『ハンドレッド』。
仰向けから片脚を垂直に持ち上げ、天井に向けた爪先ごと円を描く『シングルレッグ・サークル』と、その両脚バージョン『コークスクリュー』。
うつぶせになって真っ直ぐ持ち上げた両手両脚を、名前の通り泳ぐように左右交互で上下させる『スウィミング』。
そしてもっとも苦手な、けれども成功すると嬉しい、基本姿勢から起き上がるとともに両脚を斜めに伸ばしてキープする『ティーザー』。
ただ、当然と言えば当然だがこれらのいずれもが、「コア」と呼ばれるお腹まわり、背骨のライン、腕や脚のコントロールといったものを意識しないと、正しくできないようになっている。だからこそ、自身の幼児体型や身体の重さを嫌でも痛感させられるし、正直なかなかきつい。
というわけで、苦手な動作は楽なバリエーションに変更するなどしつつ、一回あたりの時間もほんの十五~二十分程度というマイペースで、陽和美はピラティスの真似事を重ねているのだった。まさに「もどき」である。
それでも。半月ほど経った頃、想定外の変化が現われた。
「陽和美ちゃん、痩せた?」
「ダイエットしてるの?」
などと役場の職員はもちろん、町民たちからもしばしば言われるようになったのだ。そういった話には興味のなさそうな竹山まで、
「たしかに最近、すっきりした感じがしますね」
とコメントしてくれたので、どうやら本当に何かしらの成果が出ているらしい。
とはいえ、自分でも予想できなかったのは仕方がない。何せ、体重はまるで変わっていないのだから。
ピラティスもどきこそ始めたものの、陽和美の体重は相変わらず「まずは五十キロ台が目標」という悲しい状態をキープしているのだった。BMIだって、標準値の22をあっさりオーバーする「通常営業」でなんら変化なし。
にもかかわらず「痩せた」だの「すっきりした」だの、挙げ句の果てには近所のおばあさんから、「あらまあ! 陽和美ちゃん、ちょっとだけ綺麗になったわねえ!」という、ひとこと余計ながらもとりあえずは似た褒め言葉まで頂戴するのは、一体なぜなのだろう。
理由が判明したのは、ゴールデンウィークに入ったばかりの土曜日だった。
この日も陽和美は、JKフェネックの《フェネック磯遊び ~海の生き物に会ってみた~》という動画に触発されて、徹とアンに出逢った琵琶ヶ浜遊歩道を歩いていた。
じつはそうでなくとも、またアンにばったり会えないかと、休日には以前より高い頻度で外を出歩くようになっている。しかし残念ながら先週も、先々週も遭遇することはできなかった。
「ていうか町民でもない芸能人に、ほいほい出くわす方があり得ないよね」
自分勝手な願望に肩をすくめ、テトラポットの脇を通り過ぎた数秒後。
「陽和美さーん!」
あのときと同じ、よく通る耳に優しい声で名前を呼ばれた。
「あっ!!」
反応すると同時に顔がほころんでくる。満面の笑みを浮かべた陽和美は、いつしかぱたぱたと走り出していた。
半月前のデジャヴよろしく、他に誰もいない半円形の広場でアンと徹が手を振っている。かたわらにはそれぞれのマットがあるので、今日も二人してピラティスだかストレッチだかをしていたようだ。服装はアンが長袖Tシャツにスポーツタイプのクロップドパンツ、そして徹の方は案の定と言うべきか、Tシャツと短パンの両方ともがマゼンタピンクという、目にまぶしいセットアイテムを身に纏っている。
「こんにちは!」
「よかった! また会えて!」
近くまで来ると、素早く両手を取ってきたアンが、まるで親友に再会できたかのように飛び跳ねながら喜んでくれる。砕けた口調も変わっていないし、相変わらずの距離の近さだ。
「お散歩?」
「あ、はい」
あなたに会えないかと思ってうろうろしてました、などとはさすがに言えず、陽和美が曖昧に頷くと、アンは「そうだ!」と掴んだ手を離し、驚くべき頼みごとをしてきた。
「迷惑じゃなければ、連絡先を交換させてもらってもいい? かわせみで同世代の知り合いって全然いなくて。徹さんはこの通りのおじさんだし、よかったらお友達になって欲しいの!」
「誰がおじさんだ、誰が」という徹のつっこみはさらりと無視して、アンは両手まで合わせてじっと見つめてくる。綺麗に描かれた眉を下げ、軽く唇も噛んでの上目遣いに、陽和美は前回以上にどきりとさせられてしまった。
「い、威力抜群……」
「え?」
「いえ、なんでもないです! こちらこそ喜んで!」
首を横に振ったり縦に振ったりと忙しいリアクションで答えると、「ありがとう!」とアンは手を叩き、抱きついてきそうなほどの勢いではしゃいでくれている。ようやく陽和美も理解し始めたが、山ノ内アンという人はやはり結構な天然、かつ無邪気な性格らしい。
ともあれ「ついでだから、徹さんも一緒にいい?」、「俺はついでかよ」という流れで、徹も含めて陽和美は連絡先を交換させてもらった。さらには問われるがままに、同い年という事実も伝えると、
「本当!? 陽和美ちゃん、同級生なんだ! 嬉しい! あ、陽和美ちゃんでいい? 私のこともアンでいいから」
と、アンはまたもや物理的にも心理的にも距離を詰め、一層顔をほころばせてくれる。もちろん陽和美の側に否やがあるはずもない。
「は、はい! ありがとうございます!」
首から上のあたりがやたらと熱いようにも感じつつ、ふたたび首を縦に振った途端。
「はひ!?」
なんとアンがするりと腕を絡めてきた。手を取られる以上の、わかりやすすぎるスキンシップ。
「や、山……じゃなかった、アンさん!?」
「ね、徹さん。陽和美ちゃんとのツーショット写真、撮ってもらっていい?」
どうやらこのためのようだ。徹も徹で、
「はいはい。撮った写真は、ちゃんと天川さんにも共有してあげなよ」
と例によって慣れた様子で請け負い、「こういう人だけど、仲良くしてやってください」とばかりに苦笑気味のアイコンタクトをよこしてくる。もはや陽和美は、一気に上がった心拍数とともに、「よ、よろしくお願いしまっしゅ……」と奇妙な日本語を漏らすことしかできなかった。
かくしてプロの映像ディレクターによる二人のツーショット写真が、アンのスマートフォンを使い何枚か撮影されて――。
「オッケー。我ながら綺麗に撮れたと思うよ。けどSNSに載せたりするのは、やめといた方がいいんじゃないかな。天川さんは一般人なんだし」
「そんなことしませんよーだ。私と陽和美ちゃんの、大事な友情の証だもん。ね?」
軽やかに返したアンが、「はい、陽和美ちゃん」と無線通信ですぐさま陽和美にも画像を送ってくれる。
その一枚目を見た時点で、陽和美は感動の声を上げていた。
「わあ!」
さすがと言うべきか、徹の手による写真はいずれも素晴らしいものだった。特に二人の表情や仕草を切り取るタイミングが、見事としか言いようがない。
どこまでも自然体できらきらした笑顔のアンと、彼女と腕を絡めたり肩を寄せ合ったりするなか、少女みたいにはにかむ自分。「友情の証」だけでなく、恋人や仲良し姉妹と言っても通用しそうな、微笑ましくて温かみのある写真ばかりだ。
「さっすが徹さん。伊達に、うさんくさいピンクイケメンじゃないわね」
「なんだよそれ。撮影代請求するぞ」
相変わらずの会話を聞きながら、アンとともにスマートフォンを眺め続けていた陽和美だが、ふと妙な事実に気づいた。違和感、という言葉こそが正確だろうか。
「あれ?」
「どうしたの、陽和美ちゃん」
声に反応したアンが、ぐいっと頬がくっつきそうなほどに顔を寄せ、一緒になって画面を覗き込んでくる。しかし違和感に捕らわれている陽和美は、今回ばかりはどきどきすることもなかった。
かわりに、おかしな質問をしてしまう。
「私、こんなに姿勢よかったですか?」
縦にしたスマートフォンのスクリーンには、向かって右側にアン、左側に陽和美が並んで映っている。この写真は腕を組んでいないので、身長一六三センチ(と事務所のウェブサイトにあった)のアンに比べて、自分が頭半分低いのは当然だ。しかしながら、モデル出身らしくたたずまいも美しい彼女の脇で、そこまでいかないにせよ陽和美もまた、「すっと」と表現してもいいくらいの姿勢で真っ直ぐに立てているのだった。
自慢ではないが、寸胴な幼児体型の陽和美は姿勢もよろしくない。いや、よろしくなかったはずなのに。スタイルに自信がないのもあって、特にカメラや鏡の前に立つ際は堂々と胸を張るというよりは、むしろ丸みを帯びた肩や背中のラインが、目立つような格好になってしまいがちだった。運動するときだって同じで、綺麗なフォームで動けていないことくらい自分でもわかる。だからこそ猿に追いかけられる様も、「斬新すぎる」だの「お腹から走ってる」だのと失礼な評され方をしたのだ。
それがなぜか、プロの女優と隣り合っても悪目立ちしない程度の立ち姿で、写真に収まれている。
「これ、私……ですよね」
瞬きを繰り返しながら重ねる問いを、けれどもアンは戸惑い一つ見せず、にこにこと受け止めてくれる。かたわらでは徹も「ああ、そのことですか」といった感じで余裕の笑みを浮かべている。どうやら二人には答えがわかっているらしい。
疑問に答えてくれたのは、アンの方だった。
「ピラティス、頑張ってるんだね」
「え? あ、いえ、頑張るっていうか、お二人に教わったのをたまに真似してるだけですけど」
「でもなんだかんだで、週に二、三回はやってるんじゃない? 基本のハンドレッドとか、逆に背中も意識しやすいスウィミングとか」
「は、はい」
本当に陽和美の生活を覗き見しているかのごとく、アンはどこか楽しそうに言い当ててくる。徹もまた、
「知らないまま、なんとなく取り組んでたんですか」
と笑みを苦笑に変えて、なんだかおかしそうだ。どうでもいいが、全身ピンクのうさんくさい格好で笑われると余計に腹立たしい。
「知らないまま、って何がです?」
頬をふくらませて陽和美が尋ねると、「ああ、すみません」という彼の素直な謝罪に続いて、アンが見事な発音で説明してくれた。
「ピラティスはね、陽和美ちゃん。『Art of Contrology』とも呼ばれるエクササイズなの」
「アート・オブ・コントロロジー?」
リスニングは合っているだろうかと不安を覚えつつ、こちらは典型的な片仮名読みで陽和美は繰り返した。同時に頭の片隅で、そういえばアンさん、香港だか台湾だかの映画にも出てたっけ、と一年ほど前に見たネット記事が思い出される。流暢な発音から察するに、台詞として喋るだけでなく、通常の会話も大丈夫なレベルの英語力なのだろう。
「うん。直訳すると『コントロール学の芸術』。要するに、身体のコントロールが上手になるエクササイズってわけ」
「へえ。あ、たしかもとはリハビリなんですよね。推しのVtuberさんが、動画で言ってました」
「イエス!」
嬉しそうに頷いたアンは、「だからね」と解説を続けた。
「かわりにジョギングとかバイクとかの有酸素運動ほどは、消費カロリーは多くないの。まあ当然だよね。その場で丁寧にやる、しかも自重での種目ばっかりだし」
「なるほど」
すっかり生徒と化した陽和美は、運動にもいろいろあるんだな、と感心するばかりだった。徹の言葉ではないが、たしかにそんな背景など何も知らないまま行っていた。
「消費カロリーよりも身体のコントロール、かあ」
もう一度つぶやいた瞬間。
「あっ! じゃあ……!」
頭のなかで何かが閃いた。
「ええ」
今度は徹も、苦笑ではなく純粋な笑顔を返してくれる。
「身体のコントロールが上手くなるわけですから、もちろん立ち姿とか歩く姿勢とかも変わります。モデルさんや女優さんに人気なのも、ピラティスにはそういう長所があるからでしょうね。ついでに言えば、この間三人でやりながら覚えてもらったエクササイズは身体の表と裏、上半身と下半身ていうように、全身をバランスよく意識しやすい組み合わせになってます」
「つまり体重は減ってないのに、痩せたとか綺麗になったって声をかけられるのは――」
正直に告白してしまっていることにも気づかず、ぽかんと口を開けたまま、陽和美は二人へ交互に視線を送った。
「うん。それはきっと、陽和美ちゃんの姿勢が明らかによくなったからだと思うよ。写真を見て、自分でもわかったくらいじゃない」
「姿勢だけでも受ける印象はかなり違いますから。今じゃビジネスパーソンを相手にした、専門の姿勢講座とかも開かれてるほどです」
「そっか。そうだったんだ……」
納得するとともに、アンにスキンシップされるときとは別のどきどきが胸の内側で湧き上がってくる。嬉しさとか、喜びとか、ちょっとした誇りみたいなどきどきが。
厳密な意味でのダイエットじゃないかもしれない。けど、私でもできるんだ、ささやかな変化ぐらいは起こせたんだ、と。
「ありがとうございます!」
その変化のきっかけをくれたコンビに、陽和美は素直に頭を下げた。「上からピンク」なところは玉に瑕だけど、正しい運動を教えてくれる元トレーナー。そして、自分などと友達になりたいと言ってくれる、無邪気で美しい人気女優。
彼らに整えてもらった姿勢のように、心のなかも真っ直ぐに、凜として過ごしてみようと思えてくる。勇気とかやる気みたいなものまで授かった気がする。
顔を上げた陽和美は、よしっ、と我知らず頷いていた。
問題だらけの毎日だけど。昭和に取り残されたような田舎町だけど。
私だって、胸を張っていいんだ。