ピラティス 4
翌日の土曜日。
午前中から暖かい陽気のもと、陽和美はめずらしくかわせみ港近くの海岸、地元では『琵琶ヶ浜』と呼ばれるエリアを散歩していた。自他ともに認めるインドア派なので、休日は部屋にこもって録り溜めておいたアニメを観たり、嬉々としてフィギュアのコレクションを愛でたりして過ごす場合も多いのだが、今回は前夜からこうしようと決めての行動である。
というのも、デビュー当初から応援しているVtuber『JKフェネック』が、最新動画として《フェネック散歩 ~湘南の海へ行ってみた~》なるものをアップしていたからだ。
ついでに、半月以上前に決意したささやかなダイエット活動を、今日こそスタートさせたいという目論見もあった。「ささやかな」という注釈通り、まずは散歩がてら歩くことから始めるくらいなら、ちょうどいいのではないだろうか。
《フェネック、今日はデートスポットとしても知られる湘南海岸、鎌倉のあたりにお邪魔してみたのだ。平日だけど、やっぱり人がたくさんだなあ》
昨晩観たばかりの、JKフェネックの可愛らしい姿が脳裏に甦る。
Vtuber、正式名称Virtual YouTuberとは文字通りヴァーチャルな、つまりは二次元の動画配信キャラクターを指す。大人気のキャラになるとチャンネル登録者数は数百万人にも上り、専門のマネジメント事務所まで存在するそうなので、もはやれっきとした芸能人と言っていい。
そのVtuberの一人、名前のままに、キュートな制服を着た女子高生のフェネックギツネ、というキャラクターのJKフェネックがアップする動画を、陽和美はいつも楽しみに視聴しているのだった。
「かわせみだって、ナンバープレートだけなら〝湘南〟だしね」
いつもながらのひとりごとをつぶやきながら、コンクリートで固められた道を陽和美の足はさらに進んでいく。猿に襲われたあの緑の遊歩道とは違い、こちらの琵琶ヶ浜遊歩道はしっかりと整備されている。服装もジャージにスニーカーという動きやすい格好だし、何より適度な陽光と海風がとても気持ちいい。土曜日ながら人も少なく、ぶらぶらと歩くにはまさにうってつけの雰囲気だ。
ふと視線が動いたのは遊歩道全域の真ん中あたり、半円型の小さな広場が見えてきたところでだった。
「……ヨガ?」
二、三十メートルほど先にあるそこではたしかに、蛍光ピンクのTシャツに赤いハーフパンツという派手な出で立ちの男性が、ヨガマットらしき物の上で何かのポーズを取っている。
さらに近づいていく途中で、ああ、と理解した。
ピラティスね。
以前、JKフェネックがずばり《フェネック体育 ~マットピラティスにトライしてみた~》なる回の動画で、インストラクターのお姉さんに教わりながら、似た運動にチャレンジするのを観た覚えがある。
もちろん(?)一緒にやってみたりはしなかったが、CGで描かれたキャラクターなのに、様々なエクササイズのモーションが違和感なく再現されており感心したものだ。合わせての解説ではたしか、ピラティスはもともと戦傷兵のリハビリとして生まれたのだとも言っていた。
ただし前方の男性はリハビリというより、明らかに健常者が普通のトレーニングとして行っている様子だった。今も、仰向けの状態で斜めに伸ばした脚が、爪先までぴしっと伸びている。
いつしか陽和美は近くで立ち止まり、彼の美しい動作をぼーっと眺めてしまっていた。こんな田舎の海岸で大人の男性がピラティス、という風景がレアすぎたのもある。
すると。
驚いたことに、動きを止めた男性が立ち上がるなり頭を下げてきた。しかもなぜか、
「こんにちは、天川さん。昨日は失礼しました」
という謝罪つきで。
「え? ……あ! あーっ!!」
男性が顔を上げたタイミングで、陽和美は失礼にも、指まで差しながら大声を上げてしまった。
「マイナンバーイケメン! ……じゃなかった、樺島さん!」
これまた失礼な呼び名を口走ってしまい、慌てて言い直す。なんとピラティスをしていた男性は、マイナンバーカードの一件で抗議されたばかりのイケメン移住者、樺島徹だった。
「あのときはすみませんでした。天川さんに、すべての責任があるかのような言い方をしてしまって」
「あ、いえ。こちらこそ、いたらない対応で申し訳ございませんでした」
殊勝な態度に陽和美も冷静さを取り戻し、二人して頭を下げ合う形になる。
「あれ? でも、どうして私の名前――」
遅れて気づいた陽和美が訪ねると、樺島は「名札にも書いてありましたし、別室で対応してくださった平課長からも伺いましたから」と明かしてくれた。
「ああ、なるほど」
彼が言う通り職員はネームカードを首から下げているし、相談部屋へ案内する前にも平は、「天川ちゃん」と陽和美の名字を呼んでいた。だから自然と覚えられたのだろう。
「年配の方が多い町みたいですし、アバウトというか、ちょっと緩い対応こそが正解の部分もあるんでしょうね。失礼しました」
「とんでもないです。ご指摘くださって、こちらこそありがたかったです。応急処置みたいなものですが、すぐにオペレーションも改善させていただきましたので」
初対面のときとは打って変わって和やかな会話が続く。ただ一方で、陽和美はひそかな違和感も覚えていた。
……なーんか嘘くさいのよね。
口調こそ丁寧なものの、樺島の台詞には、どこか心がこもっていない印象を抱かされるのだ。「けど、あの対応はやっぱりないですよ」とでも言いたげな。勘ぐりすぎかもしれないが、妙に余裕のある表情からも「ま、田舎だし仕方ないか」という、割り切りみたいなものが見え隠れしている気がする。
ううむ、と真意を探るかのごとく、陽和美はさり気なく彼の全身を見つめ直した。そして結論づける。
……やっぱ嘘くさい。ついでにうさんくさい。
そもそも服装からして蛍光ピンクのシャツに真っ赤なハーフパンツという、顔がイケメンでなければ、どこの漫才師よ、とつっこみたくなるようなカラーリングなのだ。そんな格好で、涼しげな微笑をたたえての「こんにちは、天川さん」である。これをうさんくさいと言わずしてなんと言うのか。
本当に何者なのかしら、と胸の内で考えていると、背後から別の声が飛び込んできた。
「あ、いた! 徹さん!」
よく通る、耳に心地よい女性の声。
「あれ? 来るの早くない?」
名前で呼ばれた樺島――徹も、気さくな調子で返している。はて、どこかで……と記憶を刺激されたように感じた陽和美もそちらを振り返る。
刹那、またしても失礼な呼び名が口から飛び出てしまった。
「うわ! 虎美人まで!」
「はい?」
怪訝そうに小首を傾げる声の主はまさに、「虎美人」と杉下が命名していた、城址公園で見かけたあの眼鏡美人ではないか。
「あ、ごめんなさい。お話し中に割り込んじゃいましたか?」
きょとんとしながらも、虎美人はこちらに気を遣ってくれる。高すぎず、低すぎず、鼓膜を上品にくすぐるような声色は、やはりどこかで聞いた覚えがある。
ぼけっと頭のなかを探っていた陽和美は、二秒ほど経ってからようやく理解した。
「ああああっ!! あの、ひょっとして、やや、や……」
よもや本当にそんなことが、と唇をぱくぱくさせながら目を凝らす。フレームが太めのボストン型眼鏡に注意を引かれてしまうが、よく見れば間違いない。
声だけでなく、自分はこの人を知っている。ただし一方的に。
「ありがとうございます。私のこと、知ってくださってるんですね」
陽和美の反応が面白いのか、チャーミングな笑顔を浮かべた虎美人が、あらためての美しい会釈をよこしてくる。
今日はキャップを被っていないので、頭を下げた拍子に艶やかな黒髪が肩から流れ落ちる。陽光が反射し、頭頂部付近にはいわゆる「天使の輪」も確認できるので、彼女の周囲だけ、実際にスポットライトが当たっているようにすら錯覚する。
「はい、山ノ内アンです。いきなり割り込んじゃってごめんなさい。こちらの樺島徹さんを探していたので」
にっこりと笑みを深くして、虎美人は軽やかに自己紹介してくれた。
山ノ内アン。「隣のお姉さん」的な親しみやすい美貌と高い演技力で、映画を中心に活躍中の若手女優。自分と同じ二十八歳という年齢もあり、じつは陽和美もファンだったりする。
その人気女優がなぜか今、目の前に立っているのだった。眼鏡の奥で黒目がちの瞳をきらきらさせ、愛想よく挨拶までしてくれながら。
「あ、あの、やまにょ……山ノ内さん、えっと、その」
「はい?」
陽和美の動揺は止まらない。何せ、山ノ内アンが突然現われただけでなく、彼女こそが城址公園の虎美人だったのだ。要するに――。
「昨日はすみませんでした! 不審者と間違えて、いきなり大声出しちゃったりして!」
ようやく回るようになってきた口を動かして、陽和美は心から謝罪した。もちろん大きく頭も下げて。アンも気づいたようで、「あっ! あなた、昨日の?」と口元に手をやり、眼鏡の向こう側で目を見開いている。
「はい! 町役場町民支援課の天川陽和美と申します! あのときは同僚と一緒に城址公園を見回り中でありまして、大変失礼いたしました!」
役場職員ではなくお巡りさんのような口調になっているが、陽和美自身はそれどころではない。どういう理由かは知らないがせっかく町を訪れてくれた、それも自身も応援する人気女優に粗相を働いてしまったのだ。とにかく誠意を見せなければ。
けれどもアンの方は、大して気にしていなかったらしい。それどころか焦りまくる陽和美の様子がおかしいようで、逆に顔をほころばせてくれている。
「こちらこそごめんなさい。たしかに私、挙動不審者でしたよね。しかもすぐに逃げ出して。私なんかのとこにまでパパラッチ!? ってびっくりしちゃったんです」
首を振ってみせたアンが、恥ずかしげに眉をハの字にする。というかこの人気女優は、意外と天然なところがあるのだろうか。「私なんか」と謙遜するには、あまりにも有名な立場だというのに。
「でもよく考えたら、パパラッチは『こらっ!』なんて言いませんもんね。ほんと、私こそ失礼しました。天川さん」
「と、とんでもないです! 今後は気をつけて業務に当たらせていただきますです!」
名前まで呼んでもらえて、陽和美の方こそますます挙動不審になってしまった。アンはと言えば、そんなリアクションがもはや堪え切れなかったようで、ふたたびの「ごめんなさい」とともに手で口を覆っている。
数秒経ってようやく落ち着いたのか、アンは下ろしたその手で、黙ってやり取りを見守っている徹をふわりと示した。
「このあと徹さん――樺島さんと会う予定が入ってるんで、昨日からかわせみに前乗りしてたんです」
そういえば、と陽和美も思い出した。たしかにアンは徹を探していたと言っていた。ならば二人はどんな関係なのだろうと、勝手な推理も働かせてしまう。
アンは今日も、タウンユース風のお洒落なジャージにストレッチパンツという、動きやすそうな格好をしている。背中にはグリーンと白のツートンカラーが可愛らしいデイパック。そして徹は言わずもがな、Tシャツに短パンだ。服装から察するに、美男美女が仕事前にウォーキングがてらのデート、というシチュエーションもなくはない。
下世話な想像は、だが徹の発言であっさりと否定された。
「僕、フリーの映像ディレクターなんです。アンちゃんとは彼女がモデルでデビューした頃から仕事させてもらってるので、もう十年以上になるかな」
「彼は当時から、しょっちゅうピンク色ばっかり着てましたけどね」
「あ、なるほど」
アンからの豆情報はさておき、陽和美もすぐさま理解した。つまりアンと徹は、長年のビジネスパートナーらしい。徹の転入届には《自営業》とあったが、なるほどたしかに、フリーの映像ディレクターというのも立派な自営業である。
「ちなみに、プライベートでもおつき合いしてるとかはないですよ。私、うさんくさいピンクイケメンはタイプじゃないので」
「俺だって〝綺麗なお姉さん詐欺〟は対象外だっつーの。ていうか女子高生の頃から知ってるから、親戚の娘みたいなもんですよ。冬になるとモデルのくせに、おばちゃん臭い毛糸のパンツ穿いてたのだって知ってますし」
「いいでしょ、別に。あったかいんだから」
ひそかに感心する陽和美を間に挟んで、二人は軽口を叩き合い始めている。
「はいはい。ああ、それとね天川さん。彼女、こう見えて普段は――」
「シャラップ、徹さん! それ以上余計なこと言うなら、あなたの秘密だってバラすわよ。めずらしく真っ白いシャツ着てると思ったら、乳首が浮きまくっててセクハラまがいになってた事件とか」
「あれはたまたまだろう。ていうか、どこ見てトレーニングしてんだって話だ。真面目にやってくれよな」
「いつだって真面目にやってたでしょ。か弱いJKなのに、こんなドSトレーナーにもめげないで」
「面白がってベンチプレスまでやりたがる女子高生の、どこがか弱いんだか」
たしかに徹の台詞通り、恋人というよりは仲のいいおじさんと姪っ子とか、もしくは少し歳の離れた従兄妹といった態の会話である。十年来のつき合いというのは、伊達ではないようだ。
なんだか微笑ましく思っていた陽和美だが、聞き取った情報から一つの推測も浮かんできた。
「あの、樺島さんて――」
おずおずと右手を挙げたところで、「あ、ごめんなさい! そうなんです」と今度もまずアンが反応してくれる。
「徹さん、ディレクターになる前はパーソナルトレーナーさんだったんです。それで私も、身体づくりを指導してもらってて。彼、ピラティスのインストラクター資格とかも持ってるんですよ」
「まあ、あんなヤクザな業界はもうとっくに引退して、今はしがない零細映像制作者ですけどね」
「へえ」
徹の意外な経歴に、陽和美は素直に感心させられた。
パーソナルトレーナーから映像ディレクターというのは、まったくの畑違いのはずだ。にもかかわらず、アンほどの女優が変わらず仕事上の関係を続けるということは、人間性自体が深く信頼されていればこそだろう。そのアンにまで「うさんくさいピンクイケメン」などとからかわれてもいたが、本来の彼は真摯で誠実な人なのかもしれない。
「で、今はリモートでもほとんどの仕事が成立するし、いい加減都会に疲れてきたのもあって、かわせみに移住させてもらったってわけです。もともとアンちゃんとの仕事で、町には何度もお邪魔してたし」
「え?」
続いた台詞に陽和美がぽかんとしていると、アンが詳しく教えてくれた。
「じつは私、かわせみにセカンドハウスを持ってるんです。住民票はこっちじゃなくて申し訳ないんですが」
「ええっ! そうだったんですか!?」
少なくとも陽和美は、まったく知らなかった。自分も含めてマイナンバーカードの扱いは杜撰だったが、町としてそのあたりの情報管理は、存外しっかりしているみたいである。
「古民家を安く譲ってもらって、リフォームついでに部屋の一つを小っちゃいスタジオにもしたんですよ。徹さんとの打ち合わせとかも、そこでよくしてて。まさか彼もこの町が気に入って、しかも引っ越して来ちゃうなんて思いもしませんでしたけど」
「へえ」
「仕事のミーティングのはずなのに、全然関係ない筋トレとかストレッチのことばっかり訊かれるパターンも多いですけどね」
「何よ。自分だってプロテイン飲みながら、私の台本読み聞いたりするくせに」
徹が割り込んできて、またしても微笑ましい口喧嘩が始まる。やはりロマンティックな関係というよりは、仲のいい兄妹とか従兄妹といった雰囲気だ。
陽和美が勝手に頬を緩めていると、アンが何かを思い出した表情になった。
「ていうか徹さん、天川さんとレッスン中だったの? 私、予定より全然早く来ちゃったし」
「はい?」
思わず陽和美の方が先に反応してしまった。どうやら、ちょっとした勘違いをされているらしい。けれどもアンは、「いや、違――」という徹の声など耳に入らない様子で、ぐいぐいと話を進めていく。
「じゃあ、私も交ぜてもらおうかな。久しぶりにピラティスしたいし」
「だから違うって。それに天川さんが困ってるだろう」
「そんなことないわよ。ね?」
親しげにアンが顔を覗き込んでくるので、陽和美はどきりとさせられた。なんだかいい香りがするし、何より距離が近い。近すぎる。
「ええっと……」
ぱくぱくとかろうじて口を動かすも、否定の言葉が出てこない。というか、山ノ内アンにこのチャーミングな笑顔で「ね?」と問われて、拒絶できる人間がどれだけいるというのか。
気づけば、首が勝手に頷いていた。
「は、はい」
数分後。アンの勢いに押される形で、陽和美は本当に人生初のピラティスを体験していた。……のだが。
「ぐう」
またしても、妙なうめき声が口から漏れる。右隣からすかさず、
「はい、内股の筋肉も緩めない! お腹を意識!」
という厳しい指示。そして左隣からは、
「でもポーズは取れてますよ。頑張って、陽和美さん!」
と、正反対の優しい励ましが連続して届く。
な、なんなの、この飴と鞭……。
目だけをきょろきょろと左右に動かし、陽和美は内心でさりげなくつっこんだ。するとそれすらお見通しのように、右側の徹がまたもびしっと指摘してくる。
「集中して! 姿勢をキープ!」
「はひ……」
おかしな声のまま、なんとか返すのが精一杯である。
先ほど勝手な勘違いから、徹にピラティスのレッスンをしてもらおうと言い出したアンは、直後にはもうヘアゴムで髪をまとめ、さらにデイパックから折りたたみ式のヨガマットまで取り出していた。
「えへへ。かわせみに来るときは、いつも持ってきてるんです。じつは昨日もサコッシュに入れてたんですよ」
などと胸を張って明かしながら。そうしてさっさとマットを広げた彼女は、
「天川さんは、私と半分ずつ使えば大丈夫ですよね。格好もちょうど動きやすそうだし。というわけで徹さん、久しぶりによろしくね」
と瞬く間にその場を仕切り、本当に徹のピラティスレッスンをセッティングしてしまった。徹も徹で「こうなったら彼女、止まらないんです」と、肩をすくめつつも素直に従うので、二人の間ではこうした展開も慣れたものなのかもしれない。
しかもアンは「天川さん、だと呼びにくいなあ。下のお名前で呼んじゃってもいいですか?」とこれまたぐいっと距離を詰めてきて、実際すぐあとから、
「陽和美さん、頑張りましょうね!」
といったふうに明るく励まし続けてくれている。徹がぼそっと語ったところによれば、
「天川さん、完全にロックオンされちゃいましたね」
という状況らしい。
とにもかくにもこうして、三人が横並びになっての「樺島トレーナーのマットピラティス、ショートクラス!」(と、アンが元気に命名していた)が、あっという間に始まったのだった。
しかし。
人生初となるピラティスによって、陽和美は自身の運動不足をあらためて痛感させられることとなった。徹のお手本に倣い、アンと並んで動きを真似してみるも、自分だけ明らかに違うのだ。
今やっている、仰向けになって股関節と膝を直角に曲げるだけの『スターティングポジション』――基本の姿勢も、綺麗なポーズで静止できる二人に対し、陽和美だけはみずからの脚の重みに耐えられず、腹筋を中心に全身がぷるぷると震えてしまう。続けて教わった他のエクササイズも同様で、「うぐ」だの「ぐえ」だの、さらなる奇声とともについていくのが精一杯。
結局、たった十五分程度のミニレッスンに参加しただけで、まるで持久走を走ったあとのようにぐったりとなってしまった。本来はリハビリだったという運動なのに、我ながら情けない限りである。
「す、すみません、下手くそで……」
心身ともに凹んだ状態で謝ると、この短時間ですっかり馴染んでしまった〝飴と鞭〟がまたもや返ってくる。
「上手い下手ですべてが決まるもんじゃないですけど、体力年齢は間違いなく中高齢者って感じですね」
「失礼なこと言わないの。春なんだし、これから頑張ればいいだけの話じゃない。ね?」
「……ありがとうございます」
文字通り微妙に失礼な徹はともかく、少なくともアンに対しては、陽和美は素直に礼を述べた。ただし軽くのけぞりながら。
というのも、こちらの肩に手を添えた彼女が、またしても至近距離から顔を覗き込むような仕草をしてきたからだ。
こ、この人、撮影現場とかでもこんななのかな。
ひとりごとが声になるのは防いだが、つい勝手な想像が膨らんでしまう。これでは共演者やスタッフに、勘違いする人が出るのではないだろうか。それともまさか自分のような女子が好みとか? 事実、見た目だけながらイケメンの徹を、タイプではないとばっさり切り捨てていたし……。
……って、何考えてんのよ!
上半身を引いたままさり気なく首を振ったところで、港の方にあるスピーカーから十一時のチャイムが聞こえてきた。
「あら、もうこんな時間?」
「そろそろ戻ろうか。午後からだけど、そっちも一度帰ってシャワーとか昼飯とか済ませる必要があるだろ」
仕事のことを思い出したらしいアンと徹が、ぱっと顔を見合わせる。陽和美も空気を読んで、「あの、ありがとうございました。お忙しいのに」とふたたび頭を下げた。
「ううん、すごく楽しかった! また一緒にやろうね」
「むしろ役場の皆さんの方がお忙しいでしょうし、そうじゃなくても身体に気を遣った方がいいと思いますよ。今日やった動きを家で繰り返すだけでも、違うはずです」
名残惜しそうに手を離しながら笑顔で返すアンと、またしてもやや上から目線でしれっとアドバイスしてくる徹。
飴と鞭な二人は各自のマットをしまうと、揃って背筋の伸びた美しい姿勢で、颯爽と去っていった。