表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/25

ピラティス 3

 半月後。

 結論づけた通り、退職などすることもなく陽和美は新年度を迎えた。ただし決意したはずのダイエットは、持ち前の意志薄弱っぷりに相変わらずの忙しさも加わって、いまだ実行できていない。何せ役場では、計十名もの新職員が採用されたにもかかわらず、支援課への配属が一人もなかったのである。

 といっても想定内ではあり、懸念していたようにむしろ普段の仕事が滞る怖れもあったので、これについては平以下、四人全員がさほど気にはしていなかった。

 そうして、なんら変わらぬ数日間を経た最初の金曜日。


 うわ! なんかイケメン来た!


 午前中、役場のカウンター内にいた陽和美は、思わず目を見開く事態に遭遇した。

 たまたまだが、この日は午後まで外回りの仕事が入っておらず、福祉課からの要望に応えて、窓口での各種受付業務をヘルプしていたところである。そんななか、十一時のチャイム(が田舎らしく流れるのだ)とともに一人の男性、それもかなりのイケメンが眼前に現われたのだった。

 高齢者だらけのかわせみ町で、二十~三十代の見栄えがする男性というのは希少な存在だ。にもかかわらず、町のなんでも屋たる自分が知らない顔。ということは――。


「すみません、転入の手続きをお願いします」


 落ち着いた声とともに、すでに記入済みの用紙が差し出される。案の定、町への移住者だった。


「かしこまりました。どうぞ、おかけになってお待ちください」


 精一杯の愛想笑いを返して、陽和美はイケメンの顔をさり気なく見直した。

 年の頃は三十代前半から、なかばくらいだろうか。真っ直ぐに通った鼻筋とシャープな顎のライン。濃い眉の下にある一重の目は少しだけ垂れ気味だが、逆にそれが精悍な印象のなかでよいアクセントになっており、親しみやすさも感じさせる。短めに整えた黒髪も、清潔感があってポイントが高い。

 ふむふむと感心しつつ、転入届に書かれた内容を素早く確認する。


 (かば)(しま)(てつ)さん。三十五歳の自営業で(おお)(いわ)地区の転入者、と。


 自営業というのが具体的に何をやっているのかも気になったが、さすがにこの場で詳しく尋ねるわけにもいかない。これまた清潔そうなポロシャツとジャケット姿から察するに、リモートワークがメインのIT関連とか、もしくはずばりモデルとか俳優とかだろうか。ちなみに『大岩地区』というのは、かわせみ半島の主に東側のエリアで、西側の『かわせみ地区』と二つの区域に町は分かれている。

 事件が起きたのは陽和美が、


「転入届、たしかに承りました。あとマイナンバーカードもお持ちでしたら、データを書き換えますので、お預かりしてよろしいですか。こちらで四桁の暗証番号を――」


 とにこやかに続け、番号入力用の小さな端末を差し出したタイミングでだった。


「は?」


 樺島なるイケメンは、なぜか急に眉をひそめた。さらには端末を二度見してから、「信じられない」といった視線も向けてくる。


「マイナンバーカードの暗証番号をここで入力、ですか?」

「え? あ、はい」


 突然の変化にわけがわからない陽和美としては、とりあえず頷くしかない。すると樺島は、「この場で? この状況で?」と表情をさらに険しくしている。半瞬後、声のトーンを上げ、気分を害したらしい理由をようやく教えてくれた。


「いや、おかしいでしょう。一番大切な個人情報であるマイナンバーカードの暗証番号を、まったく隠されてない、誰からも見られちゃうこんなところで入力しろって言うんですか? 普通は鍵のかかる個別ブースとか、最低でもパーテーションで囲まれた場所とかの、絶対人目につかない環境で取り扱うべきものですよね。ただでさえ問題が続出してるものなのに」


 それこそ俳優よろしく両手を広げた樺島は、呆れたとばかりに首も振ってみせる。だがたしかに、彼の指摘はもっともだ。ド正論と言ってもいい。逆に反論しようのない陽和美は、ハッとすると同時にみずからの――というか、役場としての認識の甘さを恥じるしかなかった。

 じつは今までも、役場におけるマイナンバーカードの扱いはずっとこんな感じだった。けれども高齢者ばかりが住む町なのでカード自体普及していないし、たまに持っている人が現われても、同様の対応で何か言われた試しなどなかったのである。結果、いつしか自分自身も感覚が麻痺してしまっていた。


「し、失礼しました!」


 慌てて頭こそ下げたものの、ではどうしようかと困ってしまう。この古い役場内に樺島が言うような、「鍵のかかる個別ブース」だの「パーテーションで囲まれた場所」だのといった気の利いた設備があるわけもない。


「ええっと――」


 おたおたと左右を見回したとき。


「仰る通りです。大変申し訳ございませんでした。では狭くて恐縮ですが、あちらの別室でご入力いただいてもよろしいでしょうか」


 さっと隣に現われたのは、同じく役場内に残っていた平だった。


「天川ちゃん。相談部屋の端末って、タッチパネルのモニターが独立してたよね」

「あっ! はい! そういえば、マイナンバーのソフトも入ってました! ネットも繋がってます!」

「うん。というわけで、あちらでやっていただくから」


 陽和美だけでなく樺島へも柔らかい笑みを向けた平は、そのままカウンターから出て、「どうぞこちらへ」と一階フロアの片隅にある扉へ彼を案内していった。

《住民相談》というプレートがかかったそこは、職員たちの間では「相談部屋」と呼ばれる小部屋である。本来は倉庫だったそうで、現在は何かに不満を抱いて怒鳴り込んできた町民の愚痴を聞いたり、あとは職員同士の個別面談を行うときのみ、たまに利用されている。

 だがたしかに、やろうと思えば相談部屋でもマイナンバーカードの内容変更は可能だ。ちらりと見れば樺島の方も、平の笑顔に毒気を抜かれたのか、もとの涼しげな表情に戻り素直に従ってくれている。


 ありがとうございます!


 二人に向けて陽和美は今一度、大きく頭を下げた。とにもかくにもイケメン移住者からのクレームは、最小限に留めることができたようだった。




「へえ。せっかくイケメンさんが来たのに、アピールできなかったんだ」

「別にアピールしようなんて思ってませんけど、ド正論でつっこまれちゃいました。あーあ」


 昼休みを挟んだ午後。公用車のハンドルを握りながら、陽和美は助手席の杉下に愚痴っていた。今度はいつもながらの外回りである。なんでも、JRかわせみ駅からもほど近い『かわせみ城址公園』で、花壇の土を勝手に掘り返す不審者が現われたのだとか。

 残念ながら犯人には逃げられてしまったそうだが、今後の対応を考えるためにも、警察と併せて通報してくれた管理人への聞き取りや、現場の再確認をすべく二人は車で向かっているのだった。


「大岩のイケメン、樺島さんね。私も覚えちゃった。あはは」


 丸い頬をさらにふくらませる陽和美のぼやきを、杉下はふわりと受け止めてくれる。笑われたのにイラッとしないどころか、逆に心が落ち着くのは、大らかで母親然としたところのある彼女ならではだ。午後はこの人とコンビの仕事でよかったと、陽和美は胸の内で感謝した。というか平の指示だから、そこまで考えてくれてのことかもしれない。


「でもたしかに、外から見れば当たり前のあれこれが、うちの町は全然できてないものねえ。今回はすぐに対応策が決まったからよかったけど」


 むっちりした腕を組んで、杉下はうんうんと頷いてもいる。

 午前中にあった樺島との一件は、平を通じて町長以下、役場全体ですぐに共有された。結論として今後、同様の手続きを行う際は平がしたように相談部屋を使うか、もしくは折りたたみ式のパーテーションを近くに用意しておいて、三方を囲いつつカウンター内の職員もはっきりと申請者に背を向ける、という対応方法が決定したのである。


「ですよね。イケメンどころか普通の人だって、そのうち移住してくれなくなっちゃうかも」


 やれやれ、とばかりに陽和美も同調したところで、公用車は園内の駐車場に無事到着した。二人して車を降り、さっそく管理事務所へと向かう。

 杉下が声を発したのは、歩き始めて一分と経たないうちだった。


「あら、今度は美人さん」

「はい?」


 まさに「あらまあ」といった感じの反応に、なんのことかと陽和美も視線を追う。するとたしかに、少し先の広場に「美人さん」がいた。隅のベンチに腰かけて上半身をストレッチしている、自分と同世代くらいの女性だ。

 二十メートルほど先だし、真っ黒いキャップに同じ色をしたフレームの眼鏡も着けているので正直、顔の造作はよくわからない。にもかかわらず間違いなく綺麗な人だと思えるのは、その顔のサイズが自分より明らかに小さいことや、すらりとしなやかな手足の感じが、遠目にもはっきりしているからだった。杉下に言われなくとも、きっと自然に目を引かれていただろう。


「どっかの芸能人さんとかかしら」

「まさか。昭和の時代ならともかく、今どきかわせみになんて誰も来ませんよ。あ、けど樺島さんもそうかもしれないのか」


 町の職員としてあるまじき台詞も交えつつ、陽和美は杉下に返した。そのまま女性の姿をさり気なく観察する。

 肩まわりのストレッチを終えた彼女は、今度は長い脚を組み、身体を捻るような動作をしているところだった。自分たちと似たおそらくは薄手のパーカーに、スキニーなシルエットのパンツルック。加えて気持ちよさげに繰り返すストレッチ。ということは散歩だかウォーキングだかの途中で、休憩しているところなのかもしれない。それにしても、一つ一つの動作がいちいち絵になっている。


 と、女性が何かに気づいた様子で立ち上がった。かたわらに置いていたサコッシュバッグをたすきがけにして、ベンチから少し離れた場所に近づいていく。

 そこは大人の膝下程度までしかない柵で仕切られた、小さな花壇だった。今はもう散ってしまったツバキの根元で、ツツジやパンジーがつつましく咲いているのが見える。


「え」


 何をするのだろうと様子を眺めていた陽和美は、次の瞬間、ぽかんと口を開けてしまった。なんと女性は、そろりと柵の向こうに手を伸ばし、地面に触れようとしているではないか。 

 すわ噂の不審者かと思い、大きな声が出る。


「こらっ!」


 はっと振り向く女性。眼鏡の向こうで、やはり形よさげな目が見開かれたのがわかる。


「何を――」


 してるんですか! と続ける前に、だが陽和美は「待って、陽和美ちゃん」と杉下に肩を叩かれてしまった。「はい?」と振り返る視界の隅で、身を翻した女性が花壇から離れていく。


「あ! ちょっと!」


 引き留める声も空しく、すらりとした後ろ姿はたった数秒で、広場の奥に位置する竹林のなかへと消えていった。どうでもいい話だが、ランニングフォームまで綺麗に見えたのは単なるこちらのひがみだろうか。

 ともあれ。


「あーあ、逃げられちゃいました」


 なんで止めたんですか、という若干の非難も滲ませつつ、陽和美は杉下に視線を戻した。すると「う~ん、あの美人さんはむしろ、味方だと思うのよね」と、なぜか苦笑が返ってくる。


「味方?」

「ええ。とりあえず、彼女が触ろうとしてた花壇を見てみましょ」


 誘われるままに陽和美は、杉下と連れ立って広場を横切り花壇を覗いてみた。そして遅ればせながら理解したのである。


「あっ!」

「ね?」


 杉下がひょいと眉を上げてみせる通り、眼鏡美人が触れようとしていた場所には、すでに穴が空いていたのだった。


「てことはあの人、逆に穴をならそうとして?」

「多分ね。通報があったのは別の花壇だから、ここも掘り返されてるってことは管理人さんもまだ知らないのかも。そうしたら、たまたまあの美人さんが気づいてくれた」

「で、わざわざ穴を塞いでならそうとしてくれた、ってことか……」


 あちゃあ、とばかりに陽和美は頭を抱える羽目になった。不審者どころか善意の行動を取ってくれた人に、町の職員たる自分がかけた言葉が「こらっ!」である。それも大声で。反射的に逃げ出すのも無理はない。


「悪いことしちゃった……。まだどっかにいないかなあ。きちんと謝らなきゃ」


 きょろきょろと周囲を見渡す陽和美の姿に、杉下は「仕方ないわよ」と、今回も大らかに笑ってくれている。


「こう言っちゃ失礼だけど、とっても逃げ足が速かったし。しかも綺麗な走り方で、竹藪のなかにさーっと消えて。幻の美女って感じね」

「たしかに」


 幻の美女、という表現には陽和美も大いに納得だった。見たことのない人だったし、観光客などだったら本当にもう二度と会えないかもしれない。


「竹藪にまぎれる、しなやかな美人さん。うふふ、なんだか虎みたい。虎美人」


 勝手な二つ名までつけて、杉下はまだにこにこしている。その隣で陽和美は、


「虎美人さん、ほんっっっとにごめんなさい!」


 と彼女が消えていった方向へ、拝むように両手を合わせるしかなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ