ピラティス 2
「えっ!?」
呼びかけに応じて平、杉下とともに席を立った陽和美は、竹山のパソコンに表示されているものが目に入った途端、絶句した。
「こいつは……」
「やだ、誰かが撮ってたの?」
他の二人も驚きを隠せないでいる。
「ええ。アカウントのプロフィールも確認しましたが、たまたま現場にいた観光客みたいです。天川さんの顔こそはっきり映っていませんけど、なんにせよ立派な盗撮行為です」
竹山が見せてくれたのは、言葉通りの動画だった。世界中で愛用される短文投稿サイトにアップされた、ごく短いもの。そのなかで、小動物らしき影に追いかけられながら不格好に走るパーカー姿は、まぎれもなく三十分ほど前の陽和美ではないか。
《森林浴がてら遊びにきたら、猿と運動会してるお姉さんいたwww》
という失礼なキャプションつきの動画は、遊歩道の出入り口を望む、少し離れた場所から撮影したと思われる。画質は粗いし、真横から斜め後ろにかけてのアングルなので、陽和美の顔もはっきりとはわからない。とはいえ、これは盗撮以外の何ものでもない。
幸運にもほとんど拡散はされていないようだが、動画には同じく失礼なリプライが早くも寄せられていた。
《こんなこと言ったらあれだけど、なんか楽しそう》
《お姉さん? 子どもじゃない? 幼児体型だよ、どう見ても》
さらには、
《走り方が斬新すぎる 笑》
《いや、むしろクラスに一人はいたよね。このドタドタ感》
《お腹から先行してるっていうか、お腹が走ってるっていうか……う~ん》
という、ランニングフォームへの容赦ないつっこみまで。
「よ、余計なお世話よ!」
すぐ隣に平がいるのも忘れて、陽和美は小さく叫んでしまった。「楽しそう」や「幼児体型」だけでもじゅうぶん腹立たしいのに、どうして走り方にまで駄目出しされなければならないのだ。当たり前だが自分はアスリートでもなんでもないし、何より身の危険が迫っていた状況なのである。
ぐぬぬ……とばかりにパソコンのモニターを睨みつけるも、自動で繰り返される動画を見れば見るほど、むしろ怒りが増幅される。
悔しいことに「クラスに一人はいた」だの「お腹が走ってる」だのという言い草が、たしかに的を射ているからでもあった。
前へ前へと気持ちが焦るあまりか反り腰気味で、へそのあたりだけが突き出た不格好な姿勢。加えて脚も上がっておらず、まさに「ドタドタ感」がストレートに伝わってくる。いらない力が入っているのであろう両肩は逆に、すくめたみたいにせり上がっており、それもまたダサいこと極まりない。実際問題として画面に映る自分からは、格好よさとか美しさといったものが欠片も感じられないのだ。
ぴくぴくと頬まで引き攣りかけた陽和美だが、一方で脳裏に、ちょうど昨日乗ったばかりのデジタル体重計の数値も甦ってくる。
一五五センチという小柄な身長なのに、一瞬でも五十キロ台に入っただけで喜んでしまえる体重。それを身長の二乗で割るBMIも当然、標準値の22を余裕で上回る。自慢にもならないが、いつだったか杉下と竹山に、
「片足どころか両足、ぽっちゃりにつっこんでます……」
と白状した覚えだってある。つまりは自他ともに認める、メリハリの乏しい幼児体型。失礼なリプライもむべなるかな。
ただ、仕方ないじゃない、という思いもあった。中学~高校とアニメ研究会、大学でも児童文化サークル所属だった自分は、ほぼ完全なインドア派として生きてきたのだから。食べること自体好きだし、最近は仕事のストレスも重なって、摂取カロリーがますますオーバーしている感がある。むしろこんな生活で美しいスタイルを保てている人がいたら、絶対に裏で何かやっているに違いない。
あれやこれや言い訳めいた考えが浮かんできたところで、もういいでしょう、とばかりに竹山が画面をスクロールしてくれた。我に返って目の焦点を合わせると、動画が上方へと消え、これまでとは反対に少数ながら自分を擁護するリプライが表示される。
《これ、思いっきり盗撮じゃん》
《すぐに削除すべきだと思います》
ありがたいフォローだ。しかしネットの海においては、遙かに上回る量の悪意によってすぐさま押し流されてしまうだろう。そうでなくとも、己の姿が恥ずかしいキャプションつきで、全世界へ晒されている事態に変わりはない。
投稿者への怒りがあらためて膨らむなか、それでも陽和美は、くっそー、という下品な言葉だけはかろうじて飲み込んだ。
かわりに出てきたのは、まったく別のつぶやきだった。
「そんなに言うならしてやろうじゃない、ダイエット。なーにが〝お腹が走ってる〟よ。ざけんじゃないわよ」
「は?」
怪訝そうに振り返る竹山の姿に、ハッとなる。
「あ、いえ! とにかくこれ、なんとかしましょう! 私だけじゃなくて町の恥になっちゃいます! ただでさえ最近は、別の意味で全国区ですし」
「そうね」
「町はあとまわしでもいいけど、陽和美ちゃんの人権は絶対に守らなきゃ」
頷く竹山と杉下に続いて具体的な解決策を示してくれたのは、やはり平だった。
「竹ちゃん。これって、町の公式アカウントから見てるんだよね」
「ええ、もちろん。例によって運用はうちに丸投げですから」
「じゃあDMで、正式な抗議と削除要請を送ってもらえるかな。遠目からの映像でぶれ気味ではあるけど、ほら、パーカーに町のロゴも映っちゃってるし」
「本当だ。ちょっと調べれば場所がかわせみで、パーカーも職員用のものだってすぐにわかっちゃいますね」
重ねて頷いた竹山が、さっそくDM=ダイレクトメッセージ欄を開き、指示に沿った内容で抗議文を作成していく。
《――自治体としての公式ステートメントにもありますように、こうしたハラスメントや人権侵害行為に対して、かわせみ町は法的措置も辞さない姿勢で対処しております》
という強い文言も入れたものを、平だけでなく「こんな感じでいい?」とわざわざ陽和美の確認も取ってくれてから、彼女は相手のアカウントに向けて送信した。
「でも、聞き入れてもらえるかしら」
それでも心配してくれるのは杉下だ。すかさず竹山が「多分、大丈夫です」と安心させるように答える。
「アカウント名とか他の投稿を見るに大学生っぽいですし、慌てて謝ってくると思いますよ。犯罪行為として公表されたら、デジタルタトゥーとして人生終わっちゃうのは向こうの方ですから」
言い終えた彼女が画面をリロードする。すると言葉を受けたかのように、投稿自体が消失していた。
ほぼ同時に届いたDMの返信によれば投稿者はやはり大学生で、偶然撮れた動画が面白かったため、「軽率な気持ちで」アップしてしまったのだという。必死に謝罪するかたわらで、拡散したり《いいね》をした人たちへもすぐさま削除を呼びかけたとのことで、実際その後の検索でも動画は一切表示されなかった。
こうして、とにもかくにも陽和美の人権は守られたのだが――。
「――大体、さあ」
同日の夜。役場からもほど近い自宅アパートで、陽和美はふたたび一連の出来事について考えてしまっていた。
入浴も食事も済ませてのリラックスタイム。登録してある動画チャンネルを観ようとしたタイミングで、動画と言えば……と、つい思い出されたのだ。
「広報課があんなこと、やらせるからじゃん」
最近増えてきたと自覚もしているひとりごとが、つらつらと唇からこぼれ落ちる。
辛くも解決したとはいえ、自分がネットでおもちゃにされかかったのも、その前段階として猿に追いかけられたのも、最初に広報課が自分たちでこなすべき仕事を押しつけてきたからではないか。
「どこも人手不足なのは、わかってるけど」
考えれば考えるほど愚痴が止まらなくなってくる。といってもお酒を飲んでいるわけではなく、両手で抱えるのは甘くて冷たいココアの入ったマグカップだが。幼い見た目の通り、陽和美は下戸なのである。
「ていうか、もとをたどれば全部町長のせいじゃない。きちんと責任取れっつーの」
ルックスとは裏腹の居酒屋でくだを巻くような台詞は、けれどもまごうかたなき事実でもあった。役場の人手不足とその根本原因が町長に帰するというのは、職員はもちろん、かわせみ町民の多くが認めるところなのだ。
リーダーシップや責任感といったものが欠如しているうえ、昨年にはとある不祥事まで起こしたかわせみ町長、住谷喜久夫。彼の人望のなさによって町役場はじつに全体の四分の一にも迫る、それも有能な職員たちが次々と退職してしまい、残った面々でなんとか町政を回している状態なのだった。
「……なのに、なんかみんな慣れてきちゃってる雰囲気だし」
ココアをすすった陽和美は、またもや声に出してつぶやいた。
言葉の通り、人手不足の現状に役場全体が慣れてきてしまっている空気を、最近は一層強く感じる。諦め、と言ってもいいかもしれない。
急ぎで求人はしているし、年度替わりから新職員も多数採用される予定らしいが、即戦力の行政職員などそうそう簡単にいるわけがない。逆に新人教育が多くのリソースを奪い取り、結果、町民支援課を今まで以上に頼ってくるであろう展開が目に見えている。
「しかも、セクハラとかマリハラつきで。ああ、やだやだ」
愚痴るうちに本気で腹が立ってきた。田舎のさがではあるが、町民たちはもとより役場内でも、特に中高年の世代は各種ハラスメントへの意識が薄い。陽和美もしばしば他部署のおじさんたちに、
「お、天川ちゃん、ちょうどよかった。お茶入れてくれ」
「陽和美ちゃんのケツは、元気な子を三人は生めそうだなあ。少子化をちょっとでも防いでくれよ。はっはっは」
「陽和美ちゃん、彼氏はいんのか? 行かず後家にだけはならねえようにな」
などといった、即刻通報してやろうかと思うような言葉を何度もかけられてきた。
抗議するだけでもエネルギーを使うし、そもそもこの手の人たちは注意しても理解できないだろうから、適当に流す場合がほとんどではある。だが突き詰めれば、そういう思考や慣習がまかり通っているからこそ、町長みずからが問題を起こすような自治体に成り下がってしまったのではないだろうか。「ずっとこうしてきたから」「別に何も言われないから」とばかりに。
……私、こんなとこにいて大丈夫かな。
嫌な経験が思い出されたからか、もやもやしたものが身体の内側で広がりそうになる。部屋着にしているトレーナーの胸元をぎゅっと掴んだ陽和美は、一瞬だけ本気で考えてしまった。
辞めちゃおうかな、と。
直後に「あ」と我に返る。仮に今の職を辞めたとしても、一体自分に何ができるというのか。これといった資格もないアラサー女子。言語だって日本語しか操れない。四大こそ出させてもらったものの、学士なんて世間には腐るほどいる。しかも陽和美は、もっとも潰しが効かないとされる文学部の出だ。
せめて自分磨きぐらいしないと、か。
大きく息を吐いたところで、昼間にみずから発した言葉がふと甦った。あのときは正直、怒りにまかせて口が動いただけだった。でも、ささやかな自分磨きとしてはちょうどいいかもしれない。
アラサー女子だけど。資格だの特殊技能だのなんて、何もないけれど。
大人の女性らしいスマートなルックス。「クラスにいる」としても、幼児体型の冴えないタイプとかじゃなく、自分をしっかり持って凜としている格好いい女の子。うん、どう考えてもそっちの方がいい。
合わせて好きな女優の姿も浮かんでくる。あそこまでは無理だとしても、似た感じをひそかに目指すくらいなら罰は当たらないのでは。
「ダイエット、頑張ってみるかな」
あらためて言葉にしたことで、一層決意も固まった気がする。
よしっ、と頷いた陽和美は明るさを取り戻した表情で、お気に入りの動画チャンネルをもう一度画面に呼び出した。