ダイエット 3
同じ日の晩。
シャワーを浴びた陽和美は、魂が抜けたような顔でパソコンのモニターを見つめていた。悪意はないのかもしれないが、高齢者たちにかけられた言葉が、ずっと頭にこびりついて離れない。
――ぶっちゃけ、つまんねえだろ。
――うちらのことは気にしなくていいからさ。
――湯ノ根で幸せになんな。
完全な誤解であるこの状況について、だが陽和美は、支援課の仲間も含めてまだ誰にも相談していない。小松屋との面会を知っており、なんの話かも察していそうな平になら、とも考えたが結局それも自重したままだ。
「じつはヘッドハンティングされて……」などと、みずから言い出すのが恥ずかしかったのもある。けれども何より、町民たちからの信頼があの程度――ちょっとどこかから誘われれば、簡単に町を去る人間だと見られていた――という現実が予想以上にショックだったからだ。そんな情けない相談事で、ただでさえ忙しい仲間たちの手を、余計に煩わすような真似はしたくない。
「そりゃあたしかに、問題だらけのド田舎だとは思ってるけどさ……」
くすんと鼻をすすったことで、知らず知らずのうちにその奥がツンとなっていたのだと気づいた。あれ? と首を捻ってしまう。どうして自分は泣きそうになっているのだろう。何が悲しいのだろう。悔しいのだろう。
そんなにかわせみが好きだったの、私?
あらためて首を傾げつつ、町に来てからの日々を回想する。
生まれて初めて暮らす港町の風景に、心を躍らせていた新卒の頃。
こちらの姿を見ただけで、「天川さん」と呼んでくれる人が増えてきた三年目あたり。
「天川さん」が「陽和美ちゃん」になり、訪問先でおやつを振る舞われたり、旅行のお土産をもらったりするのがめずらしくなくなってきたのは、四~五年目くらいだろうか。すっかり仕事に慣れ、支援課が役場内でいいようにこき使われる現状への疑問が強くなってきたのも、同じ時期からだったと記憶している。
そして一年前。住谷が役場を離れて選挙に立候補、有権者名簿の不正利用というルール違反までして(もちろんそれは知らなかったが)町長の座につく様子も、自分は役場職員として、同時に町民として見守ってきた。たくさんの人々とともに。
いくらでも顔と名前が出てくる町のおじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん、若者、子ども、さらには犬や猫、果ては猿とともに。
「なんだかんだで私も、〝かわせみっ子〟みたいなもんか」
今や貴重な町の子どもたちへの呼称を拝借して、陽和美は目の前にあるマグカップを手に取った。淹れておいたブラックコーヒーのいい香りが鼻腔に広がる。
「あ」
コーヒーの香りにもっと大切なもの、いや、人の姿が甦る。
ココアやミルクティーをこのブラックコーヒーやお茶にするだけでも、カロリーを減らせると教えてくれた人。一緒にピラティスをしてくれて、ピクニックに誘ってくれて、姪っ子まで紹介してくれた誰よりも美しい友人。
「……と、上からピンクな元トレーナーさんもね」
アンと徹の笑顔を脳裏に浮かべた陽和美は、自然とみずからも微笑んでいた。
「体重はあんまり変わってなくて、申し訳ないけど――」
お得意のひとりごとを漏らし続けながら、でも、と頭のなかで強調する。
でも今年度に入ってから、自分がこれまで以上に楽しい日々を過ごせているのは間違いない。アンと徹に出逢って、狙ったものもそうでないものも含めて、いろいろなダイエットにトライして。驚いたり、喜んだり、わくわくしたり、どきどきしたりして。
湯ノ根町に転職しても、こんな毎日を続けられるだろうか。アンと会って幸せな時間を過ごしたり、徹のおかしなファッションに内心でつっこんだり、愛からのメッセージにはしゃいだりできるだろうか。
彼女たちなら別に陽和美がどこにいても、どんな仕事をしても、絶対に態度を変えるようなことはないだろう。しかし転職したら、今ほど簡単には会えなくなってしまうはずだ。かわせみに住んだまま湯ノ根町役場に通うという方法もあるが、さすがにそれは自分自身がいたたまれない。
離れたくないな……。
誰となのか。何となのか。対象が省略された状態で、言葉だけがふわりと浮かぶ。
目に見えないどこかがきゅっと締めつけられたように感じた陽和美は、痛みをまぎらわすようにしてパソコンのマウスをクリックした。
今夜も開いていた動画チャンネルで、新作映像がスタートする。
タイトルは、
《フェネックスライドショー ~麗しい場所に来てみた~》
「え?」
いつもの動画と違い、タイトル通りスライドショーらしき形式で表示される静止画像。その一枚目を見た時点で、陽和美は声を上げていた。
「これって……!!」
画像内では見慣れた制服姿のJKフェネックが、実写の風景に違和感なく合成され、古い木のベンチに座っている。
一目でどこだかわかる公園のベンチに。しかも上半身をストレッチしながら。
次の画像もまた、陽和美を驚かせるものだった。今度の風景は海岸の遊歩道で、JKフェネックはなんと、マットを敷きピラティスと思しき動作をしているではないか。
陽和美の目が、ますます見開かれていく。当然だ。かわせみ城址公園に琵琶ヶ浜。JKフェネックがいたのは自分に、自分たちにとってお馴染みの、何より思い出深い場所だったのだから。
アンを初めて見かけた場所。アンと徹に、初めて運動を教わった場所。
以降も次々に、スライドショーは思い出の場所を映し続ける。七ツ岩にトオイ商店。魚厨房。ヤミー。さらには愛と写真を撮った線路沿いの土手まで。
どの場所でもJKフェネックは笑っている。どこかで見たようなポーズとともに。よく知っている笑顔とともに。
そう。顔も格好も違うのに、人間と動物という違いすらあるのに、陽和美はよく知っている。ずっと知っていた。この無邪気な笑顔を。油断するとすぐさまスキンシップを図ってきそうな、いたずらっぽくてチャーミングなにこにこ顔を。
ああ、と両手を口に当てる。じわじわと瞳が潤んでくる。さっき以上に鼻の奥がツンとなる。嬉しさと心強さが胸を満たす。
「フェネック、〝麗しい場所〟が好きなのだ。麗しい場所で、素敵なお友達と過ごす時間がとってもとっても好きなのだ。えへへ、あらためて言うとなんか照れるなあ」
「私もだよ。大好きだよ」
誰がなのか。何がなのか。今度も対象がはっきりとしないまま、けれども自信を持って、敬語なんて抜きで画面に答える。この気持ちだけは間違いないから。いつもそう感じているから。
本当はなんとなく気づいてもいた。ひょっとして……という程度に思いつつ、どこかで確信を抱いてもいた。なぜならアンは女優だから。俳優だから。
ふれんど~るを集めたり、乙女ゲームにはまったりするオタクゆえ、陽和美は聞いたことがあった。優れた声優は優れた俳優でもあると。もとは同じ職業だったのだと。
ましてや当代きっての人気女優なら、「制服姿が似合う、チャーミングな女子高生のフェネックギツネ」というキャラクターを声だけで演じるのもお手のものだろう。声質だって、加工すればいくらでも変えられる。
そして動画制作者は、まさに女子高生の頃から彼女を知っている、元パーソナルトレーナーのはず。これもまた、陽和美は心のどこかで察していた。
更新頻度の高い動画チャンネルらしく、二人の間で頻繁に繰り返される打ち合わせ。運動や散歩が好きなJKフェネックのキャラクター。ときに自分の行動とリンクしたり、ほんの少しだけ背中を押すようなタイミングで選ばれる動画のお題。じゅうぶんすぎるほど揃っている状況証拠。
移住者同士の情報網か、はたまた高齢者たちから直接かはわからないが、きっと彼――徹は陽和美のピンチを聞きつけて、急遽この動画を制作しアップしてくれたのだ。もちろんアンにも連絡を取って。比較的つくりやすいスライドショー形式なのも、とにかくスピードを優先したが故だろう。
「そういえば私、ファンだって言ったっけ」
うれし涙を滲ませながら、泣き笑いの表情で陽和美は記憶を探った。よく考えたらアンにも、徹にも、自分がJKフェネックの大ファンで新作動画を毎回楽しみにしているなどと、伝えたことはなかった気がする。その〝推し〟から、こんなふうに励ましてもらえるなんて。おたがいに明言しないまま、ずっと親しくしていたなんて。
なんか本当に、ゲームとかアニメみたい。
ベタな恋愛ストーリーみたいで面映ゆくもあるが、陽和美の喜びはふくらむ一方だった。同時に決意する。けどこれからも、野暮な真似はしないでおこうと。チャンネルの「中の人」でしょう、などと二人に尋ねるようなことはやめようと。そもそもVtuberの「前世」こと声優について推測する行為は、ファンの間ではタブーとされているのだ。素敵な友人たちがつくる素敵な動画を、この先も愛し、応援していけるだけで自分はじゅうぶん楽しい。嬉しい。誇らしい。
ぐすん、とさらに大きく鼻をすすったタイミングで、画面内にテロップが表示された。背景はこれまた陽和美がよく知っている、あの町営駐車場である。
《ちなみに今日の撮影も、ディレクター氏がみずから行っているぞ》
直後にフェネックと同じ二頭身の、別キャラクターが現われる。ハンディカメラを携えた男性のようだが、後ろ姿のイラストなので顔はまったく描かれていない。それでも陽和美は思わず吹き出してしまった。
案の定と言っては変だが、その《ディレクター氏》の服装デザインは、ショッキングピンクのポロシャツに赤い短パンという、すっかり見慣れたカラーリングだったからである。
「むしろ、わざとやってるでしょ」
苦笑とともに、画面に向かってつっこんでやる。正体がわかっているだけに、本来は可愛らしいはずの二頭身キャラが、どうにもうさんくさく見えてしまうのも実物通りだ。残念すぎるイケメンの元パーソナルトレーナー、ここにあり。
するとテロップが切り替わった。
《↑ こんなだけど、じつは元トレーナー》
《無茶なダイエットで摂食障害になりかけたフェネックを救ってくれた、恩人だったりもする》
「そっか……」
そういうことだったのか、と重ねて陽和美は納得させられた。だから徹だけでなく、アン自身も様々なダイエット方法について詳しかったのだ。徹に教わったと語っている部分もあったが、ピラティスの効果も、ウォーキングや体脂肪にまつわるあれこれも、レコーディングダイエットも、オートミールの意外な背景も、アンはきちんと理解していて、どこか楽しそうに教えてくれた。まるで、みずからも通ってきた道をたどる、妹や後輩に向けるような眼差しとともに。優しく。温かく。
やっぱり、と陽和美は小さく唇を噛む。
やっぱり、この人たちと離れたくない。ド田舎だけど、昭和に取り残されているようなところもあるけれど、自分を「陽和美ちゃん」と呼んでくれる町民たちの役に立って、何よりアンと徹のそばにいて笑って過ごせる日々を、やっぱり失いたくない。
陽和美の心を汲み取ったかのごとく、スライドショーの切り替わる速度が上がる。誇らしげに画像を紹介するJKフェネックの横で、彼女とは別の笑顔が次々と表示されていく。
「わあ!」
ふたたび陽和美は、両手を口に当てることとなった。ここまで登場した場所で、今度は意外な人々が笑っている。
城址公園のベンチで平が、杉下が、竹山がストレッチしている。こういう行為は苦手そうな竹山の、ちょっぴり引き攣った笑顔が微笑ましい。
琵琶ヶ浜の遊歩道は、マッスル遠井がピラティスのエクササイズにトライする写真だ。さすがはプロの芸人らしく、笑顔のなかに「む、難しい!」と叫ぶ感じの顔芸まで混ぜてくれながら。隣では奥さんが、彼に自慢するかのような表情で同じポーズを決めている。
七ツ岩のキャンプ場ではにかみながらウォーキングの真似をするのは、いつもカレーの店主、中林いつも。彼女を挟んで麦の穂みたいなものを掲げてみせるのは、ヤミーの小日向夫妻である。多分オートミールのもととなるオーツ麦だろう。
さらにはいつの間に撮っていたのか、魚厨房でアジのたたき定食をカメラに収めようとする、ボガプロでの愛の写真まで出てくる。
みんなが顔をほころばせている。おそらく徹が声をかけてくれたのだろうが、「やらされてる感」など欠片も伝わってこない。支援課の仲間も、マッスル夫妻も、いつもも、小日向夫妻も、そして愛も、自然に湧き出た意志や興味から各自でポーズを、動きを、食べ物を選んでいるのがわかる。
物やお金に釣られるのではなく。外からの見返りを求めるのではなく。
まるでそのストレッチを、そのピラティスを、そのウォーキングを、その食事を通じて、もっと楽しいことを見つけようとするかのように。身体だけでなく心の奥まで健やかそうな表情で。目を細めて、頬を緩めて、口角を上げて、スクリーンの向こうから本当に笑い声が聞こえてきそうな、どこまでも素敵な姿で。
ありがとうございます、皆さん!
溢れ続ける想いとともに、《いいね!》のサムアップマークを陽和美はクリックした。百回でも千回でも《いいね!》したいのに、一度しか押せないのがうらめしい。
自分は間違っていなかった。この人たちから教わったダイエットへの向き合い方、町への向き合い方は、きっと伝わるって信じられる。もう少し頑張ってみよう。誤解を解いて、みんなに健康でいてもらおう。
だって私は、〝町のなんでも屋〟だから。
輪郭がぼやけて見えるままに、陽和美はくしゃくしゃの笑顔で動画をリピート再生し続けた。




