ダイエット 2
陽和美にとって晴天の霹靂とも言える事件が起きたのは、そんな矢先だった。
午前中に訪れた鮮魚店で、店主夫妻をはじめとする知り合いの高齢者たちに、
「でもこれ、もとは皆さんの税金ですよね」
「私もいろいろダイエットしてますけど、自分自身できっかけを見つけたり巡り会ったりできたものの方が、結局上手くいってますよ」
と住谷のマニフェストを見直すよう、それとなく伝えた十数分後。
ふたたび公用車に乗り込んだところで、スマートフォンが振動しているのに陽和美は気づいた。発信者を見ると意外な人物である。
「もしもし、天川です」
「お久しぶりです、天川さん。湯ノ根町の小松屋です」
「ご無沙汰しております、小松屋副町長」
電話の主は、隣町ということで何かと交流する機会もある湯ノ根町の女性副町長、小松屋幸子だった。
正確な年齢は知らないが、平と同世代と思しき小松屋もまた、民間企業からの中途採用組だと陽和美は聞いている。民間出身だからこその知見を活かして町民のための様々な改革を主導、結果こうした古い町ではめずらしく、女性ながら副町長にまで出世したという逸話も。
さっぱりした性格の小松屋は、一度名刺交換をさせてもらっただけで自分のような下っ端職員の顔も即座に覚え、「天川さん、頑張ってね。〝平組〟の皆さんのご活躍、お隣から本当に応援してるから」などと折に触れて励ましてもくれる、やり手で格好いい行政ウーマンだ。
竹山などは彼女が来庁するたび、
「次の異動がかかったら私、湯ノ根に引っ越してあっちに売り込もうかしら。移籍金ゼロですよって」
などと、どこまで冗談だかわからない台詞も口にしている。
そんな隣町の副町長が記憶する限りでは初めて、直接の電話をかけてきたのだった。
「平課長に伺ったんだけど、天川さん、今日は半島にある『源』さんに行ってらっしゃるのよね」
「はい。さっき終わって、源さんの駐車場にいるところです」
「ちょうどよかった。今私、半島の町営駐車場にお邪魔してるの。申し訳ないんだけど、ちょっとだけお時間をもらって会えないかしら」
「え? ああ、はい。別に大丈夫ですけど」
仕事が一つ終了したタイミングだし、平も知っているのなら何も問題はないだろう。なんの用だろうかと少々首を捻りつつも、陽和美も素直に了承した。
すると心を読んだかのように、さらりとつけ加えられる。
「電話で話す内容じゃないけど、先に用件だけお伝えしちゃうわね」
「あ、はい。ありがとうございます」
「天川さん、よかったらうちの役場に転職しない? お給料も確実に上がると思うし」
「え? は? 竹山さんじゃなくて、ですか?」
反射的に意味のわからないリアクションになってしまったが、小松屋は「あはは」と彼女らしい、はきはきした笑い声を上げるばかりだった。
「本音を言えばたしかに、平組を丸ごと引っこ抜いちゃいたいくらいなの」
五分後。かわせみ半島の先端をぐるりと回っただけの距離で落ち合った小松屋は、どこか楽しそうな笑顔で語った。
「要するに、かわせみの町民支援課みたいなのを湯ノ根でもつくりたくて。恥ずかしながら、そういう小回りが利いて町民の方々の顔が見える部署って今までなかったから。湯ノ根も高齢化が進んでるし、恥ずかしついでにぶっちゃけると、役場の人手不足っていうのも同じでね。だからこそ、町のなんでも屋さんたる皆さんが欲しいってわけ」
「はあ」
「けど、いきなり平課長をリクルートするのは無茶だし、杉下さんはお子さんもいらっしゃるから、生活が変わるのは独身の方以上に大変でしょう。残るは竹山さんと天川さんだけど、新規部署の起ち上げっていう業務内容も考えると、まわりに対して愛想よく振舞ってくれる天川さんの方かなって。ああ、もちろん竹山さんも優秀なのは重々承知してるわ。ただ今回は、よりタイミングに合ったキャラクターが必要ってこと。性格も含めて立派なあなたの能力だしね」
やり手の行政ウーマンらしく、ずばずばと単刀直入に小松屋は説明してくる。かつて野猿から逃げてきた町営駐車場での立ち話のはずが、まるで会議室で何かのプレゼンをされているような錯覚すら陽和美は抱かされた。
「つまりヘッドハンティングってやつだけど、平課長や新しい町長さんにも筋は通すから安心して。なんにせよ、湯ノ根町は本気であなたが欲しいと思ってる。行政に携わるプロとしての、天川陽和美さんをね」
最後にそう締めると、「ごめんなさいね、忙しいのに突然で」と綺麗なお辞儀をして、小松屋は車で颯爽と去っていった。さすがに気を遣ってくれたのか、自家用車らしい小型のハッチバックだが、人気のハイブリッド車というのもなんだか彼女らしい。
自分も頭を下げて見送った陽和美は、あまりの急な話に、しばらくは現実感がないままだった。
小松屋の気遣いが、けれども無駄に終わってしまったのを知ったのは、早くも翌日のことだった。
午前中、介護健康課が主管する高齢者向けの運動教室を手伝った陽和美は、終了後におじいさん、おばあさんたちの井戸端会議に加わっていた。いつもの流れだし、住谷のマニフェストに飛びつくのは危険だと、引き続きさり気なく注意を促そうという思惑もある。
ところが。
「でも陽和美ちゃん、湯ノ根に行っちゃうんでしょ」
「え!?」
実際に新町長選挙の話題となり、ここぞとばかりに「お買い物券欲しさに無茶なダイエットするより、ご自分が楽しく感じられる方法で運動を続けた方がいいですよ。このお教室みたいに」と笑顔で述べた途端、おばあさんの一人からそんなふうに返されてしまったのだ。
「昨日、春さんが見たって言ってたよ。陽和美ちゃんが、湯ノ根の女副町長さんと密会してたって」
「いえ、あれは密会なんかじゃなくて……」
必死に両手を振りつつも、陽和美の顔は引き攣っていた。
彼女の言う「春さん」は噂話が大好きで、他人の個人情報もペラペラと話してしまうところがある、歩くスピーカーのようなおばあさんだ。よりにもよってあの人に目撃されていたとは。ならば小松屋副町長と会った件は、ほぼ確実に他の町民たちにも知れ渡っているだろう。しかも湯ノ根への移籍話というのが当たってしまっているから、余計に始末が悪い。
「たしかに小松屋副町長とはお会いしましたけど、それはうちの平も知ってる話で……」
嘘にならない範囲で懸命に弁解するも、まわりにいた別の高齢者たちまで寄ってきた。
「陽和美ちゃんみたいな若い子は、やっぱりここには居づらいわよね」
「ジジババだらけで、出会いもへったくれもない町だもんなあ。ぶっちゃけ、つまんねえだろ」
「そ、そんなことありませんってば!」
「だって前に話してたじゃない。アキバのカヘまで出かけて、お気に入りのイケメンに会ってきたって。白虎隊の人だっけ」
「いや、微妙にいろいろ違ってますから!」
昨年、秋葉原のカフェで開催されていた、大ファンの乙女ゲーム『名刀メンズ』とのコラボイベントに行ったのは事実だ。イラスト入りコースターがちょうど、新撰組副長の愛刀を擬人化した推しキャラ、『カネサダ』のもので大はしゃぎしたのも間違いない。数日後にこの運動教室で、彼女たちに嬉々として喜びを語ったのも。
といっても、当然ながらまったく関係ない話である。百歩、いや一万歩譲って何か繋がるにしてもアキバと湯ノ根町では共通点がなさすぎるし、むしろ小松屋みずからが、湯ノ根もかわせみと同じく高齢化が進行中だと言っていたくらいなのに。
「私はとにかく、皆さんに健康でいてもらいたいだけです!」
否定し続けるも返ってくるのは、「ありがと」「どうせ老い先短いんだし、うちらのことは気にしなくていいからさ」「そうそう。湯ノ根で幸せになんな」といった、どうにも薄いリアクションばかりである。高齢者たちにとっての自分は、早くも「湯ノ根の人」となってしまっているようだった。
「んじゃ帰ろうかね。これ以上、陽和美ちゃんを引き留めちゃ悪いよ。お引っ越しの準備もあるだろうし」
嫌みでもなんでもなく、素直にそう思っているらしい口ぶりで最初のおばあさんが音頭を取り、皆がぞろぞろと動き始める、
「ああ、そうだな」
「陽和美ちゃん、たまにはかわせみにも遊びに来てね」
年相応にゆっくりと離れていく一団を、しかし陽和美は呆然と見送ることしかできなかった。




