ピラティス 1
「でもよかったよ、天川ちゃんが無事で」
「ほんとほんと。他の自治体とかじゃ、実際に怪我させられた人も出てるって聞くし」
猿に襲われてから三十分後。ほうほうの体で職場に戻った陽和美は、課長の平と、同じく同僚の杉下一恵から温かい言葉をかけてもらっていた。
杉下は陽和美より二十歳近く年上の主婦で、自分以上にわかりやすい小太りの身体ながら、にこにこと大らかに仕事をする姿で多くの町民や同僚から信頼されている。何を隠そう、陽和美のルックスを好意的に「二頭身のフィギュアみたいで可愛い」と評してくれたのも彼女だ。
「うちは猟師さんがいないし、今すぐ駆除ってわけにもいかないけど。ごめんね」
続けた平が、自分の責任でもないのに頭まで下げてくれる。「いえ、とんでもないです!」と陽和美は慌てて両手を振ってみせた。
「とりあえず無傷でしたし、アナウンスもしてもらえましたから」
公用車内から電話で報告してすぐに、町の各所にあるスピーカーから、
《こちらは『防災かわせみ』です――》
という、お馴染みの文句から始まる無線放送が聞こえてきた。もちろん野猿への注意を呼びかける内容で、おそらく平が防災課をはじめとする各所へ、迅速に連絡してくれたのだろう。アプリでの通知などではないところがいかにも田舎らしいが、ここではかえってアナログな方がよいのだと、今では陽和美もすっかりわかっている。
神奈川県西相模郡かわせみ町。
静岡県とのほぼ県境に位置するこの小さな港町が、陽和美の勤務地であり居住地でもある。職業はずばり、かわせみ町役場職員。つまりはれっきとした公務員なのだが、町民からの認識は「よく見かける役場の姉ちゃん」といった程度のものかもしれない。
これは謙遜でもなんでもなく、町自体が本当に「よう、姉ちゃん」「あら、陽和美ちゃん」などと、よくも悪くも気さくに声をかけてくる、高齢者だらけの自治体だからである。七千人弱しかいない町民のじつに半数近くが六十五歳以上で、なんと県内唯一の過疎認定すら受けているのが、陽和美が働き、暮らす、かわせみ町という土地なのだ。
一応、資料によれば昭和の最盛期には、人口一万人を超えていた時期もあったとはいう。また、町そのものを形成する『かわせみ半島』が海と林に恵まれていること、さらには東京からぎりぎり日帰りできる距離ということなども手伝って、当時は観光客も多かったらしい。
とはいえ、ささやかな繁栄も今はむかし。平成すら終わり令和の世に入った現在では、その観光客相手に商売をしていた旅館や民宿、食堂といった施設のほとんどが店を畳んでしまっている。町民の数も減る一方で、転入は田舎暮らしに憧れ移住してくる自営業者などが、たまに見られる程度。むしろ陽和美自身が、町の貴重な若手在住者と化しているのが現実だ。
かような『消滅可能性都市』(と専門的には呼ぶのだとか)でなぜ陽和美が生活しているのかというと、これはもう「たまたま」としか言いようがない。
もともと陽和美は東京の出身で、大学も都内のまあまあ偏差値の高い女子大に入ることができた。そうして就職活動の際、まず思い浮かべたのが、地方公務員という選択肢だったのである。
動機は単純明快。
「自治体なら少なくとも、潰れたりはしないだろうなーっていう安易な考えです。でも国家公務員はもちろん、地方上級も自分には無理そうだから、どっかの市町村に潜り込めればって」
採用後、しばらく経ってから平たちに正直な告白もしたが、明確な人生目標やキャリアプランなど描いていなかった陽和美は、「とにかく路頭に迷わないことが最優先でした」という現実的な理由から、関東を中心に複数の市町村で『一般行政職採用試験』を受験した。すでに就職浪人がめずらしくない世のなかだったし、実際、定職に就けないまま卒業していく先輩を何人も見てきたのも大きい。ちなみに「地方上級」とは、都道府県や政令指定都市など、より大規模な自治体向けの公務員試験の通称である。
ともあれ、陽和美自身は幸運にもいくつかの試験に合格し、最初の採用通知をくれたかわせみ町役場へ六年前、まさに「潜り込む」かのごとく就職できたのだった。
「私とおんなじね。〝親方日の丸〟じゃないにしても〝親方市町村〟だって、そうそうやばい状況にはならないって普通は思うもの」
うんうん、と当時即座に同意してくれたのは、現在も机を並べて働くもう一人の同僚、竹山さゆりだ。こちらは陽和美より五歳だけ上で、杉下と対照的に長身の痩せ型、中身も愛想よく振る舞うというよりは、ときに毒舌を吐きつつも仕事はてきぱきこなすというキャラクターをしている。
そして我らが『かわせみ町町民支援課』課長、平盛。
「平家物語に出てきそうだけど、一文字足りなかったんだなあ、これが」
という微妙なギャグを定番ネタとして使う平は、たしか今年で五十歳。介護福祉士の資格も有する彼は、民間施設での勤務経験もあるそうで高齢者の扱いが抜群に上手い。かわせみ町役場へ転職したのも、介護健康課の職員としてヘッドハンティングされてなのだと聞いたことがある。
「で、とにかくおじいちゃんおばあちゃんに人気があるし、町のいろんな場所にも詳しいから、うちの課をつくるとき課長に抜擢されたんですって」
「抜擢っつっても小っちゃな所帯の、要は〝なんでも屋〟だなんて聞いてなかったけどね。給料だって、小遣いがちょっぴり増えたくらいだし」
同じく中途採用の杉下に本人が苦笑で返す通り、かつて日本中で流行ったという『すぐやる課』なる部署を数周遅れで真似する形で、十年近く前、当時の町長が発足させたのが、陽和美たちの所属する町民支援課になる。
業務内容は名前に違わず、町民生活に関するあらゆる支援を、可能な限り迅速に行うこと。とはいっても土木工事や、それこそ猿やハクビシンといった害獣の駆除などは専門部署に任せるしかない。町民支援課が担当するのは、彼らの手が回らない問題(が、ほとんどだが)の初動と現状確認だったり、住民同士のトラブル対応だったりという本当になんでも屋的な部分だ。
それでも「話を聞いてくれる役場の人」が早めに現われるだけで、特に中高年の町民たちには安心してもらえる場合も多い。
かくして昨日は駅裏の山へ、今日は港へと町のいたるところに公用の軽自動車で駆けつけながら、ともすれば他の課以上に忙しい日々を、陽和美たち四人は過ごしているのだった。
「でもいい加減、なんとかしてもらわないとなあ」
陽和美の無事を喜んでくれていた平だが、頭の後ろで手を組み渋い顔になった。田舎の町役場らしく、彼の上には《町民支援課》という札が天井からぶら下がっている。
「ですよね。私もたびたび、抗議してはいるんですが」
杉下も小さく首を振ってみせる。言葉こそ発しないが、竹山も似た表情だ。
陽和美にもすぐわかった。つまり平たちは、こう言ってくれているのである。
うちを使いっ走りみたいに使うなよ、と。
「支援課」こと町民支援課はあくまでも、町で暮らす人々の生活をサポートするための存在だ。なのにいつしか、それは自分たちでやるべきだろう、という他部署の雑用めいた業務まで、お鉢が回ってくるようになってしまっていた。コロナ禍でバタついたここ二、三年は、ことさら顕著な感がある。
どこも人手が足りないのはわかるし、一刻も早く業務を回したいという彼らの気持ちも、文字通り町民のために否定するものではない。けれど、
「次の町報、表紙はでっかい木の写真でいきたいんだよね。支援課ならそういうの詳しいだろうし、悪いけど天川さん、サクッと撮ってきてくんない?」
などと広報課の、それも係長職にある人が朝から頼んでくるのは、絶対に違うと陽和美も思う。言うなれば越権行為だし、わざわざ指名するかのごとく一番キャリアの浅い、要するに断られにくいであろう自分を捕まえてというのも、正直たちが悪い。
にもかかわらずつい引き受けてしまったのは、平たち他の三人が別業務で早々に出払っていたのに加えて、「たしかお散歩遊歩道に、いい感じのが立ってたよね」と自分でも即座に候補が浮かんでしまう職業病ゆえだろうか。
結果、起きた悲劇が猿との追いかけっこというわけだった。
「俺の方でも、町長に苦情は入れてるんだけどね。ただまあ、あの人には期待できないからさ。ほんと、申し訳ない。みんなには苦労ばっかりかけて」
「いえいえ」
「平さんのせいじゃないですから」
またしても己の責任であるかのように謝る平を、逆に杉下と陽和美がフォローする。ノートパソコンで作業中の竹山も、「仰る通り、本来は町長がびしっと管理しなきゃいけない問題です」と彼女らしく遠慮のないコメントで続きながら。
比較的新しい部署のうえ、たった四人だけという規模もあって、町民支援課は何かのファミリーのように結束感が強い。父親が平で母親が杉下、竹山と陽和美は娘といった態でまとまる様は、役場内で公然と「平組」と呼ばれていたりもする。
と、その平組の長女とも言うべき竹山が、さらに表情を険しくして陽和美に目を向けてきた。
「ていうか、天川さん」
「はい?」
四つのデスクを組み合わせた島に、平と杉下、陽和美と竹山がそれぞれ対面する形で座っているため、エラの張った顔と真っ直ぐに視線がぶつかる。
「いや、天川さんだけじゃない方がいいか」
これまた彼女らしい他人行儀な呼び方とともに、何かを考えるように顎をつまんだ竹山は全員に呼びかけた。
「皆さん、これを見てください」