ウォーキング 4
「は?」
間抜けな声を出す陽和美の姿を、アンがふたたびおかしそうに見つめてくる。
「運動だけで七二〇〇キロカロリーも消費するなんて、一足飛びには無理でしょう。だから頑張りすぎず、とにかくちょっとずつちょっとずつ、積み重ねていくようにしたってこと。そのちょっとがいつの間にか生活のなかに根づいて、ルーティンみたくなる感じで。……って全部、徹さんに指導してもらいながらだけどね。私も最初は頑張りすぎちゃったから」
「はあ」
返事をしつつもまだよくわからずにいると、アンは表示されたままの《フィットネスノート》の画面を指差して、さらに細かく解説してくれた。
「運動で消費するにしても、それこそ二〇〇キロカロリーくらいでもじゅうぶんだって思うように、ううん、信じるようにしたの。だって週に二日だけやるとしたって一ヶ月で八回、一六〇〇キロカロリーにはなるわけじゃない」
「まあ、たしかに」
単純な計算なので、ここは陽和美も素直に頷く。先日も二三〇キロカロリーぶん歩いたので、同程度のウォーキングを週に二回というのは、自分もすでに達成できてはいる。
「で、残りの五六〇〇キロカロリーをどうするかだけど、こっちも小分けにすれば、意外となんとかなるの。同じく二〇〇キロカロリー程度なら、ちょっと食事に気をつければ減らせるんだから」
「そんなもんですか?」
「そんなもんですよ」
おどけた敬語で返し、アンは小首を傾げてみせる。いたずらっぽい笑顔はやはり魅力的で、またしても陽和美は見とれそうになってしまった。人気女優、恐るべし。
「例えばさ、陽和美ちゃんの好きなココアがあるじゃない」
「え? あ、はい」
一瞬ぽかんとなりかけた陽和美だが、内心では嬉しさも感じていた。いつだったかメッセージで、ココアが好きでよく飲んでいるという話をしたのを、アンは覚えていてくれたらしい。
「でも自販機で売られてる缶のココアって、一本あたり一二〇キロカロリーくらいあるんだよ。ミルクティーなんかもだったかな」
「え!? そんなにですか?」
ぎくり、と陽和美は素直な反応を示してしまった。まさにその缶ココアを、役場内の自販機でしょっちゅう買っている。そしてミルクティーも。
「だから、そこをブラックコーヒーとかお茶にしたりするだけで、同じくらいならマイナスにできちゃうの」
「あ……」
言われて思い出す。今日アンに飲ませてもらったアイスコーヒーは、たしかにブラックだった。美味しく淹れてあるし、自身もブラックで飲めるためまったく気づかなかったが。つまりアンはみずから語った通り、これがルーティンというか、もはや生活に根づいているのかもしれない。
「他にも余計なスナック菓子とかスイーツを我慢したり、カツカレーだのラーメンだのの明らかに高カロリーな食事を避けるだけで、一日二〇〇キロカロリー程度のマイナスなら意外に達成できるはずだよ。で、それを一ヶ月、三十日間続けたらどうなるでしょう?」
「六〇〇〇キロカロリー!」
美人家庭教師に教わる生徒よろしく、陽和美は「そっか!」と手を叩いた。
「あとは運動の一六〇〇を足せば!」
「イエス。一ヶ月で一キロくらいなら、無理せず痩せられるってわけ。ていうか、むしろそれぐらいのペースで、私たち一般人はじゅうぶんだって徹さんは言ってた。管理されたアスリートでも、一日あたり五〇〇から一〇〇〇キロカロリー程度のマイナスが目安みたい」
「……てことは、月二キロから四キロ程度ってことか」
ふたたび素早く計算して、陽和美は何度も頷く。
「だね。ましてや私たちはアスリートでもなんでもないんだから。月に五キロだの十キロだのを目指すとどこかでやりすぎて、身体に必要な水分とか筋肉まで失ったり、栄養バランスが偏ったりしちゃうよ」
「あ! 炭水化物抜きとか、食事はプロテインのみ、とかみたいな?」
「その通り。無理矢理にでも体重を落とさなきゃいけない、ボクシング選手とかならまだしも、私たちみたいな普通の人が真似する意味はまったくないの」
教わった当時を思い出しているのだろうか、どこか遠くを見つめるようにしてアンが語る。「一般人」だの「普通の人」だのという自覚のない台詞に内心で笑ってしまいながら、陽和美も「なるほど」と心から同意できた。無茶なダイエットをして健康を害してしまったら元も子もない。
「頑張らないを頑張る、かあ」
関係ない人が聞いたら意味不明なアドバイスかもしれないが、陽和美にとっては大いに腑に落ちて、拠り所にもなるひとことだった。
なぜなら「頑張らない」運動は、当初自分が考えていたウォーキングの方向性と同じだし、何よりそれは、今まさにアンと一緒に行っている行為でもあるからだ。二〇〇キロカロリー程度ならじゅうぶんに消費可能な、素敵な友人とのピクニック。新しい発見だってたくさんあった。
天敵だと思っていた猿も、じつは複雑な事情を抱えているらしいこと。
公衆トイレや階段の手すりといった、町の設備の要改善点。
さらには町民たちの知らなかった一面も。
「そうですね。町のなんでも屋としても、頑張らないウォーキングこそが大正解だと思えます」
にこにこと重ねると、「うん。頑張るところは、その〝頑張らない〟を焦らずに積み重ねる部分だけでいいはずだから」と、妹を褒めるような笑顔がアンから返ってきた。自分のアドバイスを素直に受け止めてもらえたのが、心底嬉しそうでもある。
「はい! で、結果として月に一キロでも痩せれば大成功――って、ああっ!」
めでたしめでたし、とばかりに笑みを深くした陽和美だったが、すぐさま目を見開く羽目になった。
「あ、あの、アンさん!」
「うん? なあに?」
「今って、五月の終わりですよね……」
「うん。来週から六月。梅雨入りは七日とか八日くらいって、天気予報で出てたかな」
「いえ、梅雨入りの心配じゃなくて!」
「違うの? あ、ひょっとして私の新作のこと? そうなの、六月の頭からネット配信されるんだ。久しぶりのドラマだけど、現場の雰囲気もとってもよくてね。声優のお仕事もしてる母袋マヤちゃんとかと、めっちゃ仲良くなれて――」
お得意の天然ボケを発揮し始めたアンを、「いや、出演情報は全部チェック済みです! それも絶対観ますから!」となんとか遮った陽和美は、ぱくぱくと喘ぐように口を動かし、気づかないままでいたかった重大な事実を伝える。
「月に一キロだったら、六月七月で二キロしか減らせないじゃないですか……」
「だね。一ヶ月が六十日とかにならない限りは」
馬鹿にしているのではなく天然な反応だとはわかるが、だからこその容赦ないリアクションがもどかしい。
「だね、って! 百歩譲って八月一杯使ったとしても、私の体重、まだ五十八キロもあります!」
具体的な数字まで口走りながら、さらなる勢いで陽和美はつっこんでしまった。あとからハッとなったが、まわりに人がいなかったのはさいわいである。
しかし。
「いいじゃない、全然」
「え?」
笑顔のまましれっと返され、思わず固まった。
「別に徹さんも誘おうとか言ってるわけじゃないんだし、二人っきりで海で遊びましょ。それとも私とのデート、もう飽きちゃった?」
今度は明らかにわざとやっている態で、アンは至近距離から顔を覗き込んでくる。他人様からお金を取るほどの演技力を、こんなところで使わないで欲しい。
「ていうか陽和美ちゃんのスタイル、心配するほど悪くないと思うけど。なんだったら今日うちに泊まって、一緒にお風呂入ってたしかめてみよっか」
「けけけ、結構です! つつしんで遠慮させていただきますですっ!」
上半身ごとのけぞって、陽和美は大きく両手を振った。顔全体が、かあっと熱くなっているのがわかる。そして同時に別の事実も理解、いや確信していた。
あ、アンさんって――。
「あはは、面白ーい! 陽和美ちゃんとお話ししてると、やっぱ楽しい!」
「か、からかわないでくださいよ、もう!」
そう。天然なだけでなく、この人気女優は少々いたずら好きらしいと。
「でも、今のは本心だよ。そこまで心配することないって。だから安心して八月か九月に、海岸で裸のおつき合いしようね」
「ますます誤解を招くような言い方、しないでください!」
だんだんと、つっこむタイミングがこなれてきてしまっている気がする。
なんだかなあ。
胸の内でつぶやいた陽和美だが、丸い顔にはいつしか苦笑が浮かんでいた。
まさに、いたずら好きの姉と接する妹みたいに。




