ウォーキング 3
待ちに待った土曜日は快晴に恵まれた。予報によれば気温もそれほど上がらないそうなので、まさにピクニック日和だ。
アンと陽和美は、かつて陽和美が猿に追われて逃げ込んだ町営駐車場で待ち合わせてから、かわせみ半島の先端、小さなキャンプ場も併設されている七ツ岩海岸に向かって歩き出した。たまたまだが七分丈のパンツにゆったりしたカットソー、小型のデイパックというよく似た出で立ちなので、間違って姉妹みたいに見えるといいな、と陽和美が勝手な妄想をしたのはここだけの話である。
「干潮のときだけ、七ツ岩まで歩けるんだっけ」
「そうです。岩場の道があのあたりから延びてて。でも、今の時間は無理そうかなあ」
海に面した遊歩道へ出た二人は、遠くの七ツ岩を眺めながら、さらにぶらぶらと進んでいく。いい天気なので岩から岩へとかけられたしめ縄のシルエットも、はっきりとわかる。かわせみ半島の突端に位置する七ツ岩は、町の神域にもなっているのだ。
ぎくりと陽和美が足を止めたのは、お目当ての七ツ岩海岸に差しかかったところでだった。
「げっ……」
「あら、可愛い」
隣ではアンが、正反対の呑気な感想を口にしている。
二人から見て左手、海とは反対側に位置する林の入り口に、褐色の毛に覆われた動物――赤ら顔のニホンザルがちょこんと座っていたのだった。
「あ、アンさん! 目を合わせない方がいいです! ていうか、逃げましょう!」
「え? ああ、そっか。陽和美ちゃん、このへんでお猿さんに追いかけられたって言ってたっけ」
慌てて袖を引っ張るも、相変わらずアンは呑気なものである。仲良くなってすぐ、猿に襲われたエピソードも話したはずなのに。
そういえばこの人、意外に天然なんだった、と陽和美は今さらながらに思い出した。とにもかくにも、また追いかけられたりしないよう早く離れなければ。さいわい現時点でも三、四十メートルは距離がありそうだし、向こうも気づいてはいない様子だ。
すると。
「あっちも二人で、お散歩かしらね」
今日はポニーテールに結んでいる黒髪を揺らして、にこにことアンが同意を求めてきた。
「はい?」
「子育て、大変だろうなあ。……って、私はしたことないけど」
自分で自分につっこみながら、アンはふたたび猿を見つめている。目だけは合わせないよう注意しつつ視線を追った陽和美も、「あ!」とようやく理解した。
座っている猿のお腹には、自身より二回りほど小さい子猿がしがみついていたのである。毛繕いでもしてあげているのだろうか、甘えるように見上げてくる我が子を、「こら、動かないで!」とばかりに押さえつけたりする仕草が微笑ましい。
同時に、あの襲われた日、平がしてくれた話も脳裏に甦る。
――うちの町、平成に入ってすぐくらいの頃まで、半島の先に『サボテンパーク』とかいう小っちゃい植物園があったんだって。で、猿とかカピバラとかの動物もちょっとだけ飼育展示してたみたい。けど、閉鎖するときに逃げちゃった猿が何頭かいたとも聞いたから、その子どもか孫あたりかもしれないね。
彼にしては難しい表情で腕を組み、「昔のことだし何より田舎だから、何匹かいなくなったところで、って感じでうやむやになっちゃったんだろうなあ」とも我らが課長は語っていた。
「親子の時間を邪魔しちゃ悪いか」
と勝手に納得してくれたアンを連れて、猿の親子から離れた陽和美は、平からの情報を彼女にも伝える。
「へえ。ならお猿さんの方が私とか陽和美ちゃんよりも、かわせみ町の先輩ってわけね」
アンらしい無邪気な感想に、だが陽和美はハッとさせられた。
町の先輩。少なくとも母猿はたしかに、自分たちよりも長くあの林のなかで暮らしているのだろう。いや、暮らさざるを得なかったのだ。行政なのか運営企業なのか、はたまた住民の要望なのかはわからないが、住むべき場所を人間の都合によって取り潰され、群れからも引き離されて。否応なしに野生へと戻らされて。
それでも子育てをしながら懸命に生きていたら、またもや人間が近くにやってくる。ときにばっちりと目を合わせ、向こうからすれば威嚇しているかのような態度まで取りながら。
「だからだったのかな……」
アンに答えるでもなしに、いつものごとく声に出してつぶやいてしまう。おそらくは、二ヶ月ほど前に自分が追いかけられたのも同じ母猿だ。ならばきっと、どこか近くに子猿もいたはず。警戒すべき人間から愛する我が子を守ろうとするのは、むしろ当然だと思う。アンと同じく子育ての経験なんてないが、陽和美にだって親が子を大切に想う気持ちくらいは理解できる。
「う~ん、なんとかしてあげたいなあ」
無意識のうちに「町のなんでも屋」としての台詞がこぼれところで、アンがするりと手を握ってきた。
「ね、あのあたりでランチにしよっか。いい感じに座れそうな岩とかもあるし」
「え? は、はい!」
悩みかけていたのを現実に引き戻してくれたらしい。天然な部分こそあるけれど、相手の様子を見ながら上手に声をかけたり気遣ってくれる人だというのは、一緒にピラティスをしたとき以来、陽和美もよくわかっている。そして自分が、そんな彼女と過ごす時間にますます心地よさを感じていることも。
「たしかに、お腹も空いてきましたね」
すべすべの手をさり気なく握り返し、陽和美は明るく頷いてみせた。
アンが作ってきてくれたランチは、お世辞抜きに素晴らしかった。
地元産のアジの干物とハバ海苔を混ぜ込んだおにぎりに、やはりこちらの魚屋で買ったというさつま揚げを入れた卵焼きなど、かわせみ町ならではの食材がふんだんに使われていて、もちろん味も文句のつけようがない。逆に、慣れないながらも丁寧に調理したとはいえ、ウィンナー炒めや人参のしりしりといった特にめずらしくもないメニューを選んでしまった陽和美が、「なんかすみません、ありきたりで……」と恥ずかしさを覚えるほどだった。
けれどもアンは、
「ううん、全然。ていうか陽和美ちゃんのお弁当、全部すっごく美味しい! よし、結婚しよう! 私のお嫁さんとして予約したからね!」
などと彼女らしい勝手な宣言をしながら、幸せそうな顔で自分のぶんをあっという間に平らげてくれた。思わず陽和美が、この細い身体のどこに収まってるんですか!? と真顔でつっこみたくなったほどである。
「ふーん。過疎認定の話は知ってるけど、こうして見ると子どもも結構いるんだね」
アンが興味深そうに感想を述べたのは、それぞれの弁当を綺麗に食べ終えて、これまた彼女が美味しく淹れてきてくれたアイスコーヒーで一息ついているときだった。
言われて周囲を見回すと、なるほど親子連れや友達どうしといったグループのなかで、小中学生っぽい何人もの子どもが楽しげに遊んでいる。週末というのもあるのだろう。
「そうですね。小学校なんて、今は全学年一クラスですけど」
うんうん、と笑顔で眺めつつ陽和美も頷いた。アンや徹のような大人だけでなく、この子たちが将来もここで暮らしたい、もしくは帰ってきたいと思えるような町にしなければ、とまたしても職業病のように考えてしまう。すると必然的に、七ツ岩海岸だけでも、いろいろな部分が目についてくる。
あ、女子トイレ並んでる。公衆トイレが少ないって意見、前にもあったよね。
県道に戻る階段、やっぱちょっと急かも。お年寄りとか大丈夫かな。
そっか、ロードバイクでのツーリング客も最近は増えてるんだ。あの人たちも自転車用のジャージだし。
無意識のうちに、これらの感想をまたぶつぶつとつぶやいていたらしい。「あはは」とアンに笑われてしまった。
「ほんと真面目だなあ、陽和美ちゃんて」
「え?」
「さすがは〝町のなんでも屋さん〟ね」
おおかた徹あたりから聞いたのであろう支援課の二つ名を口にして、アンはますます目を細めている。ただしその視線は、どこか優しさのようなものもたたえていた。
そう。例えるなら、さっき見かけた我が子を慈しむ母猿みたいな。
「あ、ごめんなさい! せっかくデートしてるのに、仕事のことばっかり思い出しちゃって!」
あたふたと陽和美が謝るも、むしろ上機嫌な様子で「ううん、気にしないで。そういう陽和美ちゃん見てる方が楽しいし」と、よくわからないフォローもしてくれる。さらには、思わず口にしてしまった「デート」という単語にも、それが当たり前とばかりに特別な反応を示したりしない。
そうして彼女は、「よしっ」と軽やかに立ち上がった。
「美味しいご飯も食べられたし、町のなんでも屋さんに、もっといろんなところを案内してもらおうかな」
「え?」
「このまま半島をぐるっと回れば、港側まで行けるよね。こないだも言ったけど私、半島の先っぽは初めてなんだ。腹ごなしのお散歩しながら、いろいろ教えてくれる?」
黒目がちの瞳で無邪気に見つめられて、断れるはずもない。我に返った陽和美も「はい!」と元気に腰を上げ、二人はふたたび並んで歩き出した。
ピクニックの後半も陽和美にとって、新たな発見や印象深い出来事がたくさんあった。
自分もしょっちゅう利用する小さな本屋さんの店主夫妻が、ワゴン車での移動書店も商っていたこと。
顔馴染みのおばあさんから「あら、陽和美ちゃんじゃない!」と声をかけられた際、彼女と一緒にいた孫娘が、じつは町立図書館でたまに会う女子中学生だったこと。
また、アンと徹とともにピラティスをした琵琶ヶ浜では、《立ち入り禁止》と掲示してある金網の向こう側、テトラポットの部分に侵入している釣り人を見つけたりもした。もちろん即座に声をかけ、
「ごめんなさい、町役場の者ですけど、ここは危険なので立ち入り禁止にさせてもらってるんです」
と説明、向こうも「あ、すみません!」と素直に移動してくれたが。
「週明けには観光課に報告しとかなきゃ。きっと他にも、おんなじようにしてる人がいるだろうし」
「たしかにこれだと、金網の脇から簡単に出られちゃうもんね」
隣で頷くアンは、いつの間にかキャップとボストン眼鏡を身に着けている。そのお陰か誰にも気づかれないままだし、ピクニックではなく役場職員の視察に同行するかのような会話も、なぜかとても楽しそうだ。観光客向けみたいなガイドよりも、言わば「普段着」の町の姿を見られる方が面白いのかもしれない。
明るい反応に甘えるわけではないが、陽和美も陽和美で、
「このへん、夏になると必ず花火のゴミが落ちてるんですよ。海岸で花火なんてリア充みたいな真似、私は一度もしたことないのに」
などとどうでもいい情報ばかり教えて、狙っているわけではないもののアンを何度も笑わせる。
そんな二人がもう一度腰を下ろしたのは、琵琶ヶ浜の遊歩道を歩き終えた先、出入り口の広場にあるベンチでだった。かわせみ港からもほど近いここは、半島を囲む県道から家一軒ぶんほど高くなっており、テトラポットの先に太平洋が広がる気持ちのいい場所だ。
「んー! 結構歩いたわね」
大きく伸びをしてから、アンが残っていたアイスコーヒーを差し出してくれる。「ありがとうございます」と受け取った陽和美は、そこでふと思い出した。
「そうだ! 歩くと言えば――」
いそいそとスマートフォンを取り出し、例のアプリ《フィットネスノート》を起ち上げる。
「じつは最近、できるだけ歩くようにしてるんです」
「へえ、いいじゃない」
いつかのように頬を寄せてきたアンに、陽和美は照れ笑いとともにアプリの記録を見せてあげた。画面が示す本日のウォーキング歩数は――。
「うわあ……それでもこんなもんか」
「こんなもんって、六千九百歩ってかなりじゃない?」
複雑な表情を浮かべる陽和美に、アンはきょとんとしている。
町営駐車場から七ツ岩海岸、そして半島をぐるりと回って琵琶ヶ浜を通り抜けた半日で、陽和美とアンはじつに四キロ近くもの道のりを徒歩移動してきたらしい。彼女の言葉通り、自分でも結構歩いたという実感がある。けれども歩数としては先日とほぼ同じ、七千歩弱にしかすぎなかった。もちろん消費カロリーも変わらず、忌々しい(?)ツナマヨおにぎりのイラストがしれっと表示されている。
「たしかに前よりは歩けてると思いますけど、まだ全然です。体脂肪一キロ減らすだけでも、七二〇〇キロカロリーも使わなきゃですし」
「あ、私も徹さんから教わったよ、それ。なんか微妙に上から目線のドヤ顔で」
「あはは、想像できます」
「運動にすると、フルマラソン二回以上だっけ。無茶すぎるよね」
形のいい唇をとがらせてはいるが、アンはどこかおかしそうでもあった。まるで自分も通った道だと言わんばかりだし、実際にそうなのかもしれない。だとすれば、この人はどうやって痩せたのだろう。いや、もとから痩せる必要などないくらい綺麗だから、モデルや女優などという職業に就いたのかもしれないけれど。
するとアンは心のなかを読んだかのように、人差し指を立てて教えてくれた。
「私だってダイエットしてた時期、あったんだよ。高校生でモデルデビューしちゃったもんだから、当時は食欲に抗えなくて」
ぺろりと舌まで出してみせる表情は、毎度ながら絵になるチャーミングさだ。思わず写真を撮りたくなってしまった陽和美だが、我慢して肝心なポイントを尋ねてみる。
「じゃあどうやってダイエットしたんですか? ええっと、その……私、今年の夏は一度くらい水着になってみたくて……」
正直に白状したところ、「いいじゃない! なら今度は一緒に海だね」と喜色満面で食いついてきたアンは、あっさり答えを口にした。
「私のダイエットはね、頑張らないことを頑張ったの」




