プロローグ
アラサー女子が様々なダイエット方法に取り組む、豆知識&青春ストーリーです。
©Lamine Mukae
◆本小説は著作権法上の保護を受けています。本小説の一部あるいは全部について、著者の承認を受けずに無断で転載、複製等することを禁じます。
遊歩道のところどころを、木漏れ日が優しく照らしている。
最近ようやく、はっきりとした暖かさを感じられるようになってきた。加えて春休み期間だからか、観光客らしき姿を町内で見かける機会もいつも以上に多い。
私は変わらず、お仕事ですけど。
今は周囲に誰もいないので、天川陽和美はわざとらしく頬をふくらませてみた。「陽和美ちゃんて、なんか二頭身のフィギュアみたいで可愛い」と同僚に言われたこともある丸顔のラインが、さらにわかりやすい曲線を描く。
自分に似ているからというわけではないが、じつはその二頭身フィギュアの収集こそが陽和美の大切な趣味だったりする。ただ、これは同僚の彼女を含め、ほとんどの人に明かしていない。万が一、身近で広まったりすれば「二十八にもなって、お人形集め?」といった〝ザ・余計なお世話〟たる台詞を、口さがない複数の人間から聞かされるであろうと容易に想像できるからだ。
ていうか『ふれんど~る』、どの子も結構なお値段なのよね。
どうでもいい感想はさておき、そこは陽和美自身も苦笑せざるを得ない点だった。
薄給の身にとって、ものによっては一万円近くもする精巧なフィギュアは、決して安くない買い物である。にもかかわらず集めてしまうのは、デフォルメされた魅力的なキャラクターたちが心を癒やしてくれるからに他ならない。
愛するコレクションの数々を思い浮かべた陽和美は、苦笑を素直な笑みに変え、落ち葉の重なる坂道を上っていった。
陽和美が歩く『緑の遊歩道』は一応、この町の観光スポットになっている。
文字通り一帯を鬱蒼とした木々に覆われた未舗装の道で、林の途中で交差するもう一つの『お散歩遊歩道』、さらには海岸沿いに設置されたやはり二つの遊歩道とともに、森林浴やジョギングを楽しむ地元の人々も普段からよく見受けられる。
ただし、町のロゴ入りパーカーを着た彼女が今日こうして訪れている理由は、運動のためではない。
「あった!」
緑の遊歩道側の出入り口から、五分少々。十字路を曲がり、お散歩遊歩道に少し入ったところで陽和美は声とともに足を止めた。早くも上がり気味の息を整えつつ、背中のデイパックをずらして、ポケット部分からスマートフォンを取り出す。
「うん、いい感じ」
カメラアプリを起動してレンズを向けた先は、遊歩道の内側へはみ出るような格好でそびえ立つ一本の巨大な木である。専門家ではないので、種類などはさっぱりわからない。いずれにせよ身長一五五センチの自分では、二抱えしても優にあまるだろう太さを誇る眼前の大木をお目当てに、陽和美はここまでやってきたのだった。
なんだかんだで一番町内を動き回ってるの、私たちなんだから。
遊歩道の目立つ木ぐらい覚えてますよ、というささやかな自負とともに、さっそく陽和美は大木をシャッターに収めていった。方向やアングルをこまめに変え、プロを真似た煽るような構図なども交えながら。要望に応じて「町報誌の表紙に使えそうな」素材を、たくさん確保できるように。
「でもこれって、どう考えても広報課の仕事じゃん」
周囲には誰の姿も見えないので、またもや声が出る。たしかに自分たちは「町のなんでも屋」的な存在ではある。けれども最近は、なんでも屋どころか、単なる雑用係や使いっ走りじみた扱いになっていないか。
「大体、町長が――」
ぶつぶつとぼやきながらも、二桁を超える数の写真を撮り終えてスマートフォンをしまった直後。
ふと陽和美は動きを止めた。うなじのあたりに視線を感じたからだ。
一瞬、遊歩道を歩いてきた人に、ぼやき声を聞かれたのかと思った。町民、ましてや顔馴染みの誰かだったらまずいなあ、とも。
違った。
「え」
振り返った先、遊歩道沿いに張られたロープのさらに十メートルほど向こう。撮影した大木よりずっと低い木の枝に、その生き物はいた。
「ちょ……」
ふたたび湧き上がる、危機感が段違いにレベルアップしての「まずい」という気持ち。同時に、上司の平が以前教えてくれた話も脳裏に甦る。
――猿を見かけたら目を合わせない方がいいよ。威嚇されたと勘違いして、襲ってくることがあるから。
教わったときは正直、なんですかそれ、と笑いそうになってしまった。目が合っただけで襲ってくるなんて、「おいこら、ガン飛ばしてんじゃねえよ」などと頭の悪い因縁をつけてくる田舎のヤンキーではないか。
だがよく考えたら、いや、よく考えないでも、この町こそ「ド」がつくほどの田舎なのだ。しかも林のなかというのは、完全に相手の――野猿のテリトリーである。そういえばたびたび、町内で猿を見かけたという通報があったような。そして自分は今まさに、赤い顔をしたニホンザル(のはずだ)と、ばっちり視線を交錯させてしまっている。
「いや、あの……」
無意識のうちに陽和美は、本当にヤンキーから絡まれた庶民よろしく、両手を前へ出して無害をアピールしていた。
しかし猿の方は、こちらの意志など関係なしに鋭い眼光を飛ばし、さらには口も広げて牙まで見せつけてくる。疑う余地ゼロ。百パーセント、逆に思いきり威嚇されている。
「やばい、やばい、やばい、やばい」
馬鹿みたいに連呼しつつ、陽和美は必死に頭を働かせた。当然ながら勇敢に戦うなどという選択肢はあり得ない。しがないアラサー底辺公務員にすぎないこの身は、ふれんど~るになるようなスーパーヒーローでもなんでもないのだ。自室でアクリル棚の最前列に並べている、新撰組副長の刀を擬人化したオレ様系イケメンとか、いざというときは虎に変身して守ってくれる超能力探偵の男の子みたいな真似など、現実にできるわけがない。
〝推し〟のキャラクターはさておき、ならばどちらへ逃げるべきか。
右方向は、さらに林の奥へと入ってしまう。無理。却下。
反対に左へ向かい進んできたルートを戻ると、歩いても五分程度で遊歩道を離脱し、半島型の町を囲む県道に到達できる。ということは、運動不足にしてぽっちゃり体型の身体でも、頑張って走れば三、四分ほどでそこまで行ける……はず。
県道なら他の人に会える確率も上がるし、仮に誰とも出会えなかった場合でもすぐそばの町営駐車場には、みずから運転してきた公用車だってある。車内にこもれば、電話で助けを求める時間くらいは稼げるだろう。
よし。とにもかくにも答えは決まった。
ごくり、と陽和美は生唾を飲み込んだ。緊張が高まったからか、喉の鳴る音がやけに大きく頭蓋のなかで響く。ショートボブにしている髪の内側、こめかみ付近に一筋の汗が流れ落ちてくる。けど、やるしかない。
さあ行くぞ、と深呼吸して足に力を込めた刹那。
だが陽和美は、致命的なミスを犯していた。あのとき平は、こうも教えてくれたのだ。
――実際に襲いかかってくるのは、視線が外れたタイミングでらしいけど。だから、もし目が合っちゃったら毅然とした態度を取って、反対に向こうが目を逸らした隙に逃げるのがいいそうだよ。
先に目を逸らさないようにって、ますますアホなヤンキーの喧嘩じゃないですか、などと本当に失笑させられた記憶もあとから思い出したが、まさしく「あとの祭り」である。
そう。スタートを切る直前、進行方向の左側を陽和美はちらりと見てしまったのだった。
がさっという音。キーッという奇声。何か危険な物体が、宙を舞いながら迫ってくる気配。やばい。マジでやばい。
眼球の位置を戻すひまもなく、陽和美もまた「ぎゃー!」と、負けず劣らずの奇声を発して走り出した。
これまた後に振り返っての話だが、よく怪我をしなかったものだと思う。落ち葉だらけで滑りやすいうえ、往路とは反対にほとんどが下り坂の、しかも未舗装路だ。事前にストレッチの一つすら行わず、そんな場所を駆け下りたのである。場合によっては肉離れとか、下手をすればアキレス腱を切ったりしてしまう可能性だって、十二分にあったのではないだろうか。
ともあれ今は、心と身体が促すままに遊歩道を駆け戻るしかない。背後から同じく落ち葉を踏む、けれども自分より遙かに軽やかな足音が追いかけてくる。
「来るな! 来るなあああ!」
もはや、なりふり構ってなどいられなかった。さらなる大声とともに、狭い坂道を転がるようにして下っていく。こめかみどころか首筋や脇の下にも嫌な汗が流れ出す。頭のなかでは、さっき唾を飲み込んだ以上に大きな音が響いている。胸のあたりと連動するかのように、がんがん鳴っている。なんだこれ。なんなんだ。
わずかながら視界も狭まってきた。というか、呼吸が苦しい。いつも以上に身体が重い。ああ、青木さんとこのおばあちゃんもこんな感覚なのかな、と先日介護を手伝った町民の顔が、なぜか脳裏をよぎる。
……って私、死ぬんかい!
さいわい他の記憶が走馬灯よろしく流れたりはしなかったものの、運動不足の身に鞭打っての、いつ以来かもわからないほぼ全力疾走。それも怒った猿に追われながらという状況は、臨死体験に匹敵するほどの大ピンチに他ならない。
「し、死んで、たまる、かああああ!」
知らぬ間に県道まで出ていたが、かまわず陽和美は喘ぎながらの悲鳴とともに夢中で足を動かし続けた。
ようやく立ち止まれたのは、背後の気配が消えていることに気づいた町営駐車場内でだった。