1-12 義妹は学びたくない
それは伯爵家専属の魔術師の脅迫から始まった。
「良い加減、ソフィア様にチクりますよ?」
今日も今日とてハイターの授業から逃亡しようとしていたウィステリアは彼の風魔術であっさりと捕まった。
「なんでそんなに逃げますかねぇ。魔術の授業を受けて悪いことなんてないでしょう」
宙で尻から吊り下げられたウィステリアが眉頭を寄せて唸る。
「だって魔力の流れがうんたらかんたらって、つまんないんだもん。基礎まではマジメにやったじゃん。もうやらなくてよくない?」
「よくありませんー。ソフィア様が甘やか…、ご配慮してくださったから、まだ学院に入らず済んでる…って聞いてます!?」
だらだらと説教垂れるハイターが言う学院とは王都にある魔術学院のこと。
「分かってるよ。本当は魔法が発現したらすぐ入学しないとなんでしょ? 一年間、寮に閉じ込められて。それを姉様が無理しなくて行かなくても良いって言ってくれただけ。違う?」
何度もハイターから聞かされた内容をウィステリアは面倒くさそうに並べる。
「その寛大な御心遣いのおかげで、私に皺寄せが来てるんですよ」
そうなのだ。ただの一介の雇われ魔術師ハイターが何故、主の妹を追い回し授業なんてものを行っているのかと言うと、全寮制の学院への入学を先送りにしている代わりに魔術を教えているからなのである。
「ハイターだって基礎はできたって言ってたじゃん! もう面白くないし、やらなくていいでしょ?」
「あのねぇ、基礎って言ってもただ魔力の暴走を防ぐくらいのものです。魔法ではなく“魔術”を使えるようになるにはまだまだなんですよ」
ハイターは杖を振って、ウィステリアを絨毯の上に下ろした。
「あたし魔法使えるよ?」
そういってドレスの皺を風魔法を使って伸ばす。体から発生させた温風がドレスの裾をふわりと広げた。アンナが見たらきっと「御令嬢なんですからもっと慎みを」と無言の非難を向けるに違いないだろう。
「魔法は魔能者(魔力を生まれつき持つ人)なら皆使える魔力の放出のことです。対して魔術は魔法を応用して複雑な操作を行う技術のことですよ。人類が何百年とかけて編み出した奇跡なんです。この二つの違いも分かってないような人は基礎ができたとは言いません〜」
「ウザッ」
下顎を突き出して嫌味ったらしく言うハイターの顔は叱っているのか笑わせにきてるのかまるで分からない。
ハイターの水色がかった長髪はうなじで緩く結ばれ、細長い瞳と丸眼鏡が彼の高尚さを醸し出しているが、このサボり癖やら表情筋の緩みっぷりは見た目とミスマッチな男だ。
「さて、追いかけっこは終わりです。今日の授業に戻りますよ」
ハイターのその言葉にウィステリアの猫目がピンっと瞬く。
「じゃあ追いかけっこしよ! 魔術を使いながらのね。そしたら授業になるじゃん!」
丸眼鏡の向こう側でいかにも嫌そうな感情が浮かぶ。
「嫌ですよ、そんな疲れそうなこと。私も若くないんですー」
「あたしが逃げるからハイターが魔術で捕まえるの。でも日暮れまでに捕まえられなかったら授業はもうなし!」
「聞いてます?」
「魔術使って良いって言ってるじゃん。それでも負けるって言うの?」
大袈裟なため息を吐いてハイターは眼鏡を直した。
「そういう話じゃないですよ。疲れるのは変わらないっていう、」
「ハイターが勝ったらバウムクーヘン買ってきてあげる」
「仕方ないですね。一回だけですよ一回だけ」
いそいそと眼鏡のレンズを磨き始めたハイターの死角でウィステリアは拳を握り締めた。
「よし、じゃああたし逃げるから。100数えてね!」
「100って結構ですね。寝そう」
「寝ないでよ!」
「はいはい…って範囲どこまでです!? あんまり広いと私が疲れる…」
両目を覆ったままハイターが叫ぶ。その声を背中に受けながらウィステリアも叫び返した。
「この領地ぜんぶー!」
「………聞き間違いカナ…?」
ハイターが100数えているうちに屋敷の外へ飛び出したウィステリアは長いドレスの裾をたくし上げて全力疾走。
伯爵家に養子入りしてから生活に不便はないが、侍女や護衛が付いたりして一人で動ける時間は減った。だから久しぶりに外を自由に走り回れるのが嬉しい。
自分で思っていた以上に心が浮き立って、足がどんどん速くなる。
伯爵邸の周りに広がる街並みは賑やかだ。屋敷も接する大通りには屋台が押し並び、陽光の下で人々が笑顔で行き交っている。赤煉瓦の建物は赤や榛色の屋根を被って街を明るくする役割を担っているようだ。
ウィステリアが立ち並ぶ屋台を流し眺めていると、見覚えのある茶髪を発見した。
「ノノ!」
「…?」
声に応じて振り返ったのは姉の商会でよく会う少女だった。
「奇遇だね、ここで何してたの?」
駆け寄ると、ノノはぺこりと会釈を返してくれた。
彼女は頬に残る傷のショックで声を失ってしまっているのだが、ウィステリアは彼女の柔らかく緩慢な表情や温和な性格が居心地よく、そばに居るのを好ましく感じていた。
ノノが見ていたのは色とりどりの野菜が並んだ屋台だ。日に焼けた肌の店主がウィステリアに気づいて「おや?」と呟いた。
「ノノ嬢ちゃん、〈お城の妖精〉様と知り合いかい?」
「お城の妖精? 誰のこと?」
ノノがこくんと店主の言葉に頷くが、横で聞いていたウィステリアはおうむ返しで眉を顰める。すると隣の屋台で果実を売っていた女主人が口を挟む。
「おやおや、〈お城の妖精〉ちゃんじゃないか」
「え、あたし?」
「数ヶ月前から領主様のお城に住んでるでしょう? ここらの奴らはみんなお嬢さんのことをそう呼んでるのさ」
マロンベール領の人々は親しみを込めて伯爵邸を「お城」と呼んでいる。そこにウィステリアという見ない顔が住み始めたというのだから領民みんなで噂していたらしい。
「妖精なんて柄じゃないよ」
逆隣にいた薬草売りの青年もははっ、と笑った。
「遠目からしか見てなかったけど、近くで見てもやっぱり別嬪さんだね」
「こりゃ将来が楽しみだなぁ」
「やっぱり妖精さんがぴったりだと思うがね。なぁ、ノノちゃん?」
ノノが嬉しそうに首を振る。腑に落ちないウィステリアは顔を顰めた。
「なんかこう…警戒心とかないの? 急に領主の家に知らない子供がいたら普通不審がるものじゃないの?」
「まぁ、確かにそうだなぁ」
しかし店主は気の抜けた顔で微笑う。
「けどあの領主様だからなぁ。もし瀕死と分かれば魔獣でも養いそうなお人だし」
「ふふ、そうさね。変わったお方だからね。それもご兄妹揃って」
「えぇ? そう?」
(でも確かにあたしのことすんなり受け入れちゃうくらいだから変わってるのかも。お兄様のことは分かんないけど)
呟きとは裏腹に、ウィステリアは不思議と納得した。
「ああ。それに新しい物好きだし。マロンベール商会もそうだけど、珍しい物品の流通が多いからね。この領ほど異国の商人が生き生きしているところはないよ」
「他の貴族とは全然違うよねぇ。…ってノノちゃんその『他の貴族に会ったことないでしょ』って顔やめて〜」
薬草売りが情けなく言う。笑いながらも女主人も同意する。
「幼い頃に自分で商会を作っちゃう貴族ってのはこの国じゃ珍しいよね。考え方から違う。…特に先代の領主とはね」
影のあるその言葉に、ウィステリアは口を開く。
ねぇ、その先代の領主って…
「───随分と楽しそうですねぇ」
「ギャッ」
「お城のハイターさんじゃないか」
背後からヌルリと現れたのは不審者……ではなく汗とニヒルな笑みを浮かべたハイター。
ハイターは街の人から領主付きの魔術師様、というより困ったときに何でも頼める便利屋のような扱いをされている。ソフィアも喜んで貸し出すので尚更だ。
なんとか間一髪でその手から逃れるとハイターが小さく舌打ちしたのが聞こえた。
「この私から逃げ切れると思うなよ…!」
なんでこの男は言う事がいちいち悪役っぽいのだろうか。
「ふふん、捕まえてみなよ!」
身を翻して人混みの中に飛び込む。
魔術は使えずとも、街中の逃走劇は体も小さく慣れているこっちに利があるのだ。
「小癪な…ッ」
「ついにそっち側になったのかい? ハイターさん」
「誰が凶悪犯ですかっ! これには事情があって…」
ハイターが店主たちに弁明している内に雑踏の波に乗って遠くを目指す。
走りながらふと違和感を感じてみれば、控えめに袖を掴み追走するノノが。
「ど、どうしたの?」
彼女が指差した先を追うと、建物の間に路地が見えた。
「おっけ、あそこに逃げ込めば良いのね!」
「!?」
ノノの驚愕顔には気づかず、ウィステリアはノノを連れたままその薄暗い路地に飛び込む。
細い路はウィステリアやノノくらいの少女も通るのがやっとの横幅だ。と、思ったらすぐ広場に出た。建物に囲まれた陰った小さな空間。人気もまったくない。
するとウィステリアに付いて走っていたノノが慌てた様子で袖を引っ張る。
「大丈夫よ、ここならハイターもすぐには追ってこれないから」
「! !」
「心配いらないってば」
来たことのない場所だ。どこに繋がっているのだろう。
そんなささやかな好奇心が顔を出す。追われているという今の状況も相まって自然と口角も上がる。
「さ、ノノ行こっ!」
とウィステリアが一歩踏み出した。
「枯れ井戸があって危ないから行くなって意味だったわけね」
深い深い井戸の底でため息を吐いたウィステリアはきちんと話を聞かなかったことをノノに詫びた。
少女は「気にしないで」と眉を下げて微笑う。
「とにかくここから出なくちゃ」
ウィステリアは井戸の壁に片手足を掛けてみたが、頼りない土壁はパラパラと砂を舞わせるばかり。
「ダメ…誰か、だれかーーーっ!!」
上空へ向かって叫んでみるも誰かに届く気配はない。二人分の声量があれば違ったかもしれないが、今声を発せられるのはウィステリアのみだ。
それじゃあ、最終手段しかない。
ウィステリアは体内の魔力を巡らせ、二人分を持ち上げるような風を起こそうと魔法を発動させた。
体が浮く感覚。来た!と思うとほぼ同時に、めちゃくちゃな方向に体が飛んで思い切り壁に頭をぶつけた。
「!!」
痛みで悶絶するウィステリアにノノがはわわ…と混乱する。
「だ、大丈夫。ぶつけただけだから」
顔をさすりながら、上を再び見上げるけれど、今の技術では到底届かない気がしてきた。
空はいつの間にか茜色に染まり、ついには蓋を閉じるように陽が完全に沈んでしまった。
「これであたしの勝ちだ…」
ある意味大敗北のようなものだが、手立てが何もなくなり、そう呟く。
微かな光も届かなくなった井戸底には完全な闇が訪れ、ウィステリアは足場さえ失ったような気がした。
(あたし何も変わってない…)
綺麗な服を着て、美味しいご飯を食べて、優しい人たちに囲まれて、姿をまるっきり変えても、母を失ったあの日から、困難を前にして何もできないのは変わらない。
無力で、無能。
鼻の奥がツンとしかけた瞬間、背後から眩しさを感じる。
怪訝に思い振り返ると地べたに座り込んだノノが光を生み出していた。
「ノノ…? アンタそれって…」
少女の手のひらからこぼれ落ちる光の粒。光の魔法だ。
思わず彼女の目の前に座り込む。のほほんとした笑顔でノノが光の粒で宙に線を描いた。
『きっと大丈夫』
その優しい明かりに、ウィステリアは慌てて涙を拭った。
「すごいね。ノノが魔法を使えるなんて知らなかった」
ウィステリアの言葉に答えるように、するすると光の文字が生まれていく。
『これくらいしか出来ないし、お兄ちゃんとかロゼ兄に、無闇に人に言うなって言われてたから』
「どうして? この方が便利じゃん」
『魔法が使える子供は誘拐されちゃうんだって。特にスラムにいるような孤児は狙われるって』
そういえば同じくスラムの出身だったなと思い出す。ウィステリアもエミリアに魔法を使わないことしか教わらなかった。
「…すっごく良い魔法なのに」
きょとんとノノが目を見開く。
そのとき、頭上から降ってきた匂いに二人揃って顔を上げる。雑草を刈り取った後のあの濃厚な草の匂いだ。
遠い井戸穴から大蛇のようにゆっくり降りてくるのは太い蔓。
まるで意思を宿しているかのような動きの蔓の幹には蕾が実っており、開花するとそこから灯かりが生まれた。枯れ井戸の中が明るく照らされる。
呆然とする二人の腰を掬い取るように蔓がまとわりつき、ついに少女たちを抱えて上昇し始めた。ノノの光の粉が、ぱらぱらと下へ散っていくのが幻想的な光景だった。
「そのお転婆はソフィア様譲りです?」
井戸穴から二人が出たとき、杖を振りかざすハイターの姿があった。
「ハイターじゃん!」
自然と安堵の笑顔が溢れる。
ハイターの操っていた巨大な蔓は彼女たちを地面に下ろすとパッと虚空に消えた。
「ご無事そーで何よりです」
「ありがとハイター! どうしてここが分かったの?」
「追跡の魔術ってのがあるんですぅ」
「ないすすぎる!」
「はいはい」
ハイターがやれやれと息を吐き、空を一瞥してまたため息を吐いた。
「悔しいですが、ほんっっっっと悔しいですが、勝負は私の負けのようで、」
被せ気味にウィステリアが叫ぶ。
「あたしに魔術を教えて!!」
「変わり身ぃッ!」
大層に驚くハイターにウィステリアは、ふんすと鼻息荒く目を輝かせる。
その隣に立つ少女に目を向けてさらに目が細くなる。
「お嬢さん、君も魔法使いですよね?」
「…!」
「そーだよ! ノノの魔法はすっごいのよ! めっちゃ優しい光なの!」
ノノは気が抜けたようにウィステリアを見つめる。
…もう隠さなくていいのだろうか。この顔の傷のように怯えて過ごさなくて良いのだろうか。
むしろ、自分ができることが増えるのだと、思っても良いのだろうか。
「魔力反応からしてもしかしてとは思ってましたが…」
「だからハイター、ノノにも魔術教えてね!」
「あぁ言うと思ったぁー」
二人のやりとりにクスリ、とノノが笑う。
「やったねノノ! ハイターが教えてくれるって」
「まだイエスとは言ってませんけど? 話聞く才能あります!? …いやでも絶対ソフィア様はそうしろって言う〜。ああぁ〜も〜」
ウィステリアがニッと笑顔を向ける。
ノノもそれに笑顔で答え、魔法で『よろしくお願いします』と描いた。
「ここに来て生徒増えるのおかしいって…」
戦いに負けて勝負にも負けた気がするハイターだった。
ハイター「なんでそんな急にやる気出たんです?」
ウィステリア「壁に顔ぶつけたから!」
ハイター「えぇ〜独特〜」