真面目で優しいクラスの学級委員がタバコを吸っていた話。
委員長こと、水船美鶴は京道高校二年生の憧れの的だった。特に男子からは高嶺の花と一目置かれていた。容姿端麗、成績優秀、才色兼備、品行方正……と彼女を言い表す四字熟語を挙げれば枚挙にいとまがない。
その美貌はもちろんのこと、僕のような褒めるべき点が見当たらないから、仕方なしに物静かだと評されるような人間にも笑顔で語りかけてくれる性格をした、くさい言葉を使えば天使のような人だった。
「……」
そんな、汚れを知らない鶴のように白く、また透き通った彼女の肌に煙が重なるのを見て、僕は動けずにいた。
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昼休みに、あの自販機のラムネは美味いぞと誰かが言っていた。詳細を聞くために耳を傾けると、現在は使われていない旧体育倉庫付近にある自動販売機で売られているとのことだった。
放課後になり、何となくその味が気になって、旧倉庫に訪れてしまった。その白い自動販売機は誰もいない場所にポツンと鎮座し、無機質な音でジーと小さく鳴いていた。横にはベンチも併設されている。
投入口にお金を入れ、ボタンを押す。ガチャコンと音を立て、目的のラムネが降ってきた。
「……ん?」
さてどんな味だろうと蓋を開けかけたその時、煙の匂いがした。火事などではない。父親がよくベランダで一服している時の匂いによく似ている。気のせいかと思い、再度嗅ぐ。確かに臭う。気のせいではない。
しかしここは学校で、教員も含め敷地内は全面喫煙禁止のはずなのである。どういうことだと、すんすんと鼻を鳴らしながら煙の匂いの元を辿る。
やがて、旧二年生棟の壁の向こうから煙が立ち上るのが見えた。僕はそこへ近づいていって、恐る恐る覗く。煙草を吸うようなグレている人間がいるのだろうか。
そこには——
「え?」
「! 誰!?」
火がついた煙草を片手に驚愕の表情を見せる、水船美鶴が壁に背中を預けていた。
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そうして冒頭に至る。僕は何と声をかければいいかわからず、迷い箸をするように、あれでもないこれでもないと、脳内の辞書をぺらぺらとめくる。未成年喫煙、犯罪、真面目な彼女が、ギャップ萌え……この場では役に立たない言葉の数々を一頻り吟味する。
僕も彼女も固まったまま、一歩も踏み込めないまま十数秒が経過した。右手に持ったままのラムネの缶から水滴がたらりと落ち、地面を濡らす。
それを合図としたかのように、そそくさと煙草の火を消し、携帯灰皿に入れて、
「……奇遇だね〜勘田くん」
何事もなかったかのように彼女は言ってきた。貼り付けたような硬い笑顔が、普段の柔らかなそれとまるで異なっていた。名前覚えててくれたんだ、嬉しい……ってそうじゃない。
「う、うん。それで、今タバ」
「あれ、それラムネ? 好きなの?」
水船さんは僕の右手に握られた缶を見て、僕の言及を遮るように問うてきた。あれ、僕今話せてなかったのかな。
僕は仕切り直すように口を開き、
「う、うん。んでさ、今タバ」
「ごめんなさい!!! 本当に、ごめんなさい!!!」
さらに追及しようとすると、彼女は頭を下げ、二度も謝罪の言葉を口にした。夕陽に照らされて橙色を反射する、肩の下まで伸びた艶やかな黒髪がぱさりと揺れる。
「でも違うの、これはその……」
「……違う、っていうのは?」
「いや、違くはないんだけど……」
僕と同じく、彼女も動揺しているようだった。僕は静かになったタイミングで、息を吸って、心を落ち着かせてから発言する。
「とりあえず、座ってから色々訊いてもいいかな?」
「う、うん」
先ほど見かけたベンチを頭に思い浮かべながら僕は確認した。
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その青いベンチは一見綺麗そうに見えたが、万が一水船さんのスカートが汚れてはいけないと思い、僕は鞄から未使用のタオルを取り出してそこに敷いた。彼女は申し訳ないと言ったが、一日一善キャンペーン中だと訳の分からぬ言い訳をして座ってもらった。
思えば、彼女とこうしてちゃんと会話をするのは初めての事だ。二年間クラスが同じだったのに、住む世界を違えたかのように、僕は彼女に対する言の葉を、心の中でめっきり枯らしてしまっていた。
常々お話ししたいと思ってはいたが、こんな形で叶うとは予想だにしなかった。
混乱が治ったとみて、僕は切り出す。
「……いつ頃から吸ってたの?」
「一年生の冬、かな……」
「どうして、始めたの?」
「え、っと……丁度その頃、私、成績不振に陥っちゃって……ストレスが溜まってたから、自棄になって吸い始めて……今に至ります」
「……そっか」
僕は手にしていた、すっかり緩くなってしまったラムネの蓋を開け、口に運んだ。美味だと聞いていたが、当然のように美味くはない。
「水船さんは真面目なんだね」
「え、真面目……? 私、喫煙してたんだよ? それも、数ヶ月間……引かないの?」
僕はうっすらと笑みを浮かべた。
「そりゃ、未成年喫煙はダメな事だけど……始めた理由が悪ぶりたいとか、グレてるとかそんなんじゃなくて、成績不振っていうのが、どこまで行っても真面目なんだろうなって」
引くどころか言葉の模索の中でギャップ萌えというワードが出てくるくらいには『おっ』と思ってしまったのは流石に秘密にしておこう。
「僕はあんま、咎めたくないな」
僕の発言を受けて彼女は固まっていたが、やがて、
「……勘田くんってそんな優しい人だったんだね」
「え?」
「私、初めてあの姿を見られた相手が勘田くんで良かったかも」
水船さんはようやく笑みを溢して言った。ずっと硬かった表情はそこで打ち止めとなり、普段の彼女の様相が戻ってきつつあった。
「お願いなんだけど、このことは誰にも言わないでいてくれる……? もう、しないから」
「うん」
「約束だよ? その、もし……勘田くんが望むなら……な、なんでもするから……」
ん? 今何でもするって……と問いたくなる僕のネット脳はさておき、僕の体は大いにその単語に反応した。
「なん……でも……」
『なんでも』と彼女が僅かに顔を赤くして——夕陽のせいか否かは分からないが——言い放った。即ち、あんなことやそんなことも要求すれば通るということである。奇しくも僕は、彼女の弱みを握ってしまったのだ。
健全な男子高校生が、そんな生唾を呑みこむような餌を提示されて、正気でいられるわけがない。ましてや相手は学年でも指折りの美少女である。
光沢のある艶やかな黒髪も、ぱっちりと開かれた茶色がかった黒目も、女性らしい起伏に富んだ——発育のよい胸部も、初雪のように美しく白い、どこか妖艶な肌も、その先も……好きにできるとなれば、やることは一つだ。
「……じゃあ、また明日、この時間にここに来てくれるかな。そこで、して欲しいことを言うから」
「……うん」
その日はそれでお開きになった。僕は明日に向けて覚悟を決める必要があった。
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翌日の放課後、自販機を通り過ぎて、その向こうの曲がり角を道なりに曲がる。既にそこには水船さんが立っていた。やけに前髪をいじったり、そわそわとどこか忙しない。
「……来てくれてありがとう」
「え! ああ、うん!」
声をかけると、彼女はわざとらしいような大層な反応を見せた。
「早速、僕の願いを聞いてもらえるかな?」
「う、うん」
「じゃあ、まずは目を閉じてもらって」
「……は、はい」
僕の言った通り、水船さんはその綺麗な黒い瞳を瞼で遮った。何かを待つように、顔を少し上に向けていた。
そんな彼女に僕は近づく——ことはなく。ポケットからそれを取り出して、口に咥えた。不慣れな手付きで、一緒に取り出したライターの回転式ヤスリを二回ほど擦る。
そうして火をつけ——。
「はい、もう目を開けていいよ」
「え、まだ私何もされてないけど?」
「いいから」
「そ、それじゃあ……って、勘田くん!?」
「げほっ、げほっ、何?」
「なんでタバコなんて吸ってるの!?」
僕の口には、煙を上げる紙巻きが咥えられていた。何回も咳き込みながら、吸って吐いて。肺に煙が充満するような光景を幻視する。
「げほっ、これで、君の弱みは無くなっちゃったな、げほっ。唯一弱みを知ってる僕が、弱みを晒しちゃったんだから」
「え?」
「ああ、未成年喫煙なんてバレたら、互いにとってマイナスすぎるなあ。だから、お互い墓場まで持っていこう?」
「……!」
水船さんはようやく、僕の行動の真意を理解したようだった。つまるところ、僕は彼女に対してのあれやこれやを放棄したのである。
未成年喫煙なんていう特大スクープがあれば、その身体を好き放題できただろう。意のままに、恣にできただろう。悔いがないかと言われれば悔いしかない。なんでしなかったんだ馬鹿野郎、ヘタレ、阿呆、愚か者、どーてー、と自分に対し、罵倒の限りを尽くすほどには悔いている。
しかし、たとえ悔恨に囚われようと、僕は水船さんに傷ついて欲しくないのだ。僕の独りよがりな、独善的な行動が彼女を傷つけ、悲しみに暮れさせるなら、そんなことは絶対にしない。
ひいては、僕が弱みを知っているというだけで彼女が不安になるくらいなら、そんな弱みは放棄してやる。なぜなら、なぜなら。
——きっと僕は、彼女のことを好意的に思っている……から。
「……勘田くんって、いい人を通り越してバカなんじゃないの?」
くすくすと笑うように、彼女は肩を振るわせて言ってきた。僕は煙草を消して、持ってきたコーヒーの空き缶にいれた。
「バカ……まあ、そうだね。げほっ。本当は、できることなら君の言う、『なんでも』をお願いしたかったよ」
「じゃあ、なんでしなかったの?」
「そ、れは……」
僕は募らせた想いを打ち明けようとして、言葉に詰まった。この二日間話せただけで思い上がっていたが、たまたま話しただけの相手から告白されても、きっと彼女からすれば迷惑なだけだろう。
「……気まぐれだよ」
僕は嘘で塗り固めた理由をぶっきらぼうに述べた。
「ふふ、そっか。気まぐれか」
水船さんはおかしそうに笑った。なんだか胸臆の内を見透かされているようで、むず痒かった。痒さを紛らわすために、頭を軽く掻く。
「私たち、ワル仲間だね」
「……そうだね」
仲間と呼ばれたことに少し心がときめいてしまった。いかんいかん。
「ねえ、勘田くん」
「……なに?」
「私のお願いも一つ、聞いてもらっていいかな? ほら、私は一つ要求をのんで、目を閉じたわけだし」
言われてみれば、不公平といえば不公平だ。
「あー、確かに……じゃあ、君のお願いを聞いて、それでもう貸し借りは完全にチャラね」
「うん。じゃあ、お、同じように目を閉じてもらおうかな……」
僕は彼女の仰せのままに、目を閉じた。歯切れが悪いのは引っかかったが、これで、僕らの間に生まれた関係性は、やっとこさ臨終へと進んでいく。何をされるかは分からないが、このまま放置されて帰られるとかはごめん被りたい。
「……!?」
そんな中でふと、唇に柔らかな感触があった。急いで目を開けると、一寸にも満たない距離に、頬を紅潮させた水船さんの顔があった。肩に彼女の手がかかる。
キスをされているのだと遅ればせながら気づいたのはそれから数秒後だった。僕は動けず、再度瞳を閉じる。世界から音が消え、限りなく続く空白の世界で、口唇に触れている水船さんの唇の感触だけが、そこにあった。
ふと、煙の臭いに侵されることのない、どこか果物の酸味を帯びた味がしたような気がした。
やがてその温かみは旅立ち、僕は目を開く。彼女と目があって、直視できなくて、お互いに視線を逸らした。さっき見た時よりずっと、彼女は恥ずかしそうに頬を鮮やかな赤色に染め上げていた。
「そ、そういうことだから。明日からも、その、よろしく」
「う、うん」
それだけ言い残して、彼女は足早に立ち去って行った。僕は拙い返事をするのがやっとだった。
しばらく呆けたまま立っていると、スマホが震え、それでようやく現実に引き戻された。急いで確認すると、水船さんからのものだった。多分、クラスチャットから僕を追加して、送ってきてくれたのだろう。
【不束者ですが、よろしくお願いいたします】
やっぱり、彼女はどこまで行っても真面目だ。僕はこちらこそ、と丁寧な返信をして、まだ夕陽の残滓に照らされた放課後を歩き出す。
ふと、白い自動販売機が目に入った。あのラムネを再度買ってみた。僕は改めて一口飲んで、こんなもんかと笑ったのだった。
※この物語はフィクションです。未成年喫煙ダメ絶対。
【おまけ】勘田くんの下の名前を出す機会を逸したのでここに記しておきます
『勘田千年』