食堂仔鹿亭(上)
セレル村の中心部には仔鹿亭という飲み屋兼食堂があり、片隅で駄菓子やスナックを売っている。
さすがに昼は酒は出さないが、片隅にワインの樽があり、夜になるとそこからワインをすくって出している。
クロードとミレーユの中年の夫婦が主に調理を担当し、むすめのエミリーが給仕などをしている。
エミリーはまだ20歳前だが、15歳成年のこの国では大人だ。
フェリスたちにとっては頼れるお姉さんだ。人が集まる食堂なので村のアイドルでもある。
それだけに若い者はもちろん、スケベなおっさんやじいさんも言い寄ってきたり、おしりを触ろうとしたりしている。
エミリーはうまくかわしているが、日本の平成や令和の世からするとあぜんとする光景でもある。
俺はときどきロレンスと食事に行ったり、シンディやマルコとお菓子を買いに行ったりする。商売のために同年代の子どもよりは懐が温かい。
しつこくやらしい爺さんがいて、しょっちゅうエミリーに絡んでいる。
お前、60過ぎの爺さんを20前の女の子がよく思うはずないだろうと思うが、自分はもてるつもりらしい。
あ、思い出した。ヴァイマル公国の宰相だったゲーテが二十歳前の女の子を追い回したのは70くらいだった。
それはともかく絡まれているのを見ると、「お願いします」と大声を出してエミリーを呼ぶようにする。
と言っても毎回注文するわけにもいかないので水をもらったり、皿を下げてもらったり、ある意味どうでもいいことを頼む。
そのたびにエミリーはいやらしい爺さんから逃げることができる。だんだんエミリーの方もわかってきたようで、礼を言われたり来るなり相好を崩したりと歓迎され、俺はエミリーの守護者になりつつある。
親父さんたちにも喜ばれているようで、明らかに愛想がいいし、料理も少し具が多いような気がする。
出てくる料理は素朴な料理ばかりだ。この社会でもいちおう牧畜はあるのだが、庶民は肉を毎日食べるようなことはない。
鶏肉が出るのが月に2~3回、豚肉が月に1回くらいだろうか。それからたまに猟師が獲物をとってきたときである。
冬になると家畜をつぶして塩漬けを作るが、それも長い時間かけて食べる。
牛は牛乳をとるか農耕用のものらしく、ほとんど食べることはない。
ときどき野菜と肉の煮込みのシチューが出る。トマトがないためか色は豚汁のような色で、スパイスがなく塩味主体の味だ。
肉が入荷したときしか出ないため、出ると村の一部で噂になって来店する人がいるくらい人気がある。
たまに食べる肉の味は格別だ。野菜からもいい味が出ている。肉が貴重なため、骨や筋の方も長く煮出して雑炊などの味付けに使う。
ここに限らず村で食べられる味はたいてい素朴なものだ。そもそも材料が少ない。肉以外の野菜もそれほどの種類があるわけでもない。
だいたい地球でも野菜の種類が増えたのは大航海時代以降なのだ。それに設備も日本のようにはいかない。
炉に火をつけるのも面倒で火力の調整も自在にできるわけではないのだ。もちろん冷蔵庫もない。
さらに調味料も塩しかない。塩ですら安くはないのだ。スパイスはないが、ハーブについては日本より充実している。
ケチャップやソースもなく、それらの作り方を覚えておけばよかったと思う。
エミリーの一家と仲良くなったので調理場に入れてもらい、味見をしたりすることがある。
その時にちょっと食べたいものを話したりする。酢としてワインビネガーがあったので、少し風味は変だがマヨネーズを作った。
冷蔵庫もないし殺菌方法もない。だから卵は生で食べるとおなかを壊すと言われている。卵を油と酢をよく混ぜて少し塩を入れてマヨネーズを作る。
「卵は生で食べちゃいけないのよ」
火にかけずに味見しようとしているのを見て、奥さんのミレーユが心配して声をかける。
マヨネーズは酢の殺菌力があるために生でも食べられる。だがこの世界ではまだ菌の概念がなく、説明は難しい。
「酢と一緒にしておくと大丈夫みたいです」
なお油は菜種から水車など使って絞り出したものらしく、少し色づいているのに安くはない。
作ったマヨネーズを野菜にかけて食べる。だが主人のクロードもエミリーもおろおろして食べようとしない。
そんなことを何回か繰り返してそれでも俺がおなかを壊してないことを見て、とうとうエミリーが食べてみると言い出した。
「なにこれ? おいしい」
クロードとミレーユは顔を見合わせて恐る恐る指先につけて味見している。
「うん、うまいな」
「これならお客さんも喜びそうね」
そうはいっても、すぐには客に出さなかったようだ。しばらく一家で食べてみて、大丈夫だと確認してから店でも出し始める。
「生卵のソース」
そんな名前で、怖いもの知らずやゲテモノ好きの客から少しずつ広まった。
「あのソース食べたか」
「生卵は怖くてな」
「もう何度も食っているが、一回も腹下したことはないぞ」
好き嫌いはあるようだが、そうやってマヨネーズは村に広まっていった。そのうちマヨラーも出てくるのかもしれない。
あるときマルコの父親の商人マルクがマヨネーズについて興味深そうにしていた。
「あの生卵のソースはフェリス君が考えたのかい?」
「はいそうです」
実はすでに地球にはあったものだけど、この世界では俺が初めてだろう。
マルクはずいぶんと感心している。だいたい村の新しいものはマルクが外に買い出しに出て、都会の流行りものを持ってくるのだ。
それが今回は村からしかもフェリスから始まったという。
「ところで何か新奇なものを発明した人に、何か報酬が出すようなことはあるの?」
特許について気になったので聞いてみる。
「それは賞金ということかい?」
「そうではなくて、発明にはお金がかかるので、後からまねして製品を作る人はアイディア料を出すような」
特許制度という言葉があるかどうかわからないのでいちいち説明する。もっと面倒な話もむかし授業で聞いた覚えがあるが忘れてしまった。
マルクは何か考え込んでいる。
「都会の方ではそういうのがあるらしい。魔道具などギルドが管理しているとか。ただ料理については聞いたことがない」
確かに料理については地球でも特許や実用新案はなかったように思う。だが、魔道具ならこの社会もあるらしい。何か将来できそうな気がする。
それはともかく、マルクはマヨネーズの作り方を聞いてきた。都会に持っていくらしい。
いつも外から新しいものを持ってくるばかりだった村から、新しいものを持ち出すことになる。




