司教との面会と神との面会
後回しにしていた司教との面会に行くことになった。
別に司教は威圧してくるわけではない。人当たりはいいのだ。ただ何か遠回しな言い方と、布施の要求と、こちらを探るような態度が苦手なのだ。
あれだけの教会を維持発展させるとなれば金が要るのは仕方がない。聖職者と言っても司教ともなれば大組織を運営する立場だ。単なるいい人では困るだろう。
ただ行政能力があるというよりは、妙に政治的だから苦手なのかもしれない。
またお布施を用意するが、今回は具体的な頼みごとがあるわけではないので、控えめの金額だ。
毎回出しているとだんだん当たり前になって肝心な時に相手が大した金額だと思ってくれなくなる恐れがある。
つまり今回は顔つなぎのような、もしそのうちに何かあったらよろしくお願いしますという程度のものだ。
それでも数十万単位の金を包んだからか司教が出てくる。会わなくては意味がないのだが、会わないで済むならそれで済ませたい気もする。
「いつもいつもご奇特な寄進を賜り、この教会を管理する私としても大変に喜ばしく思います」
今回は金額が少ないが、確かに一定以上の金額ではある。金額に応じてセリフが変わるのか調べてみたいところだ。
「神と教会のおかげ様をもちまして我々の日々の暮らしが支えられております。そのご恩に報いるものでございます」
「大変に素晴らしいお心持だ。教会は篤実な信者の方々に支えられております」
それはそうと、いいかげん要求をしたいのだが、どうもそういうタイミングにならない。どちらも口を開かない時間が少しあり、また司教が口を開いた。
「以前は何かご心配事がおありのようでしたが、その後はいかがでしょうか?」
期待していたものではないが、いちおう答える。
「神様のご加護を賜りまして、子爵領でも一身の安全が図られました」
実際は司教に金を払ってお守してもらったわけだが、そうは言ってはならない。神の加護はほとんど全部クロに行っている。教会にも来ていないのは俺は知っている。
お守と言うのも、いかにもヤクザ者が複数いる中で、勢力の強いやくざに金を払って他のヤクザから手出しされないようにしてもらった感がある。
子爵ゲルハー一家の横暴をクルーズン(教)会に抑えてもらったようなものだ。
「それは何よりのことでございます。ご信仰の賜物でしょう」
敬虔に教会を信仰している者がいくらでも不幸になっていると思うが、敬虔にお布施して具体的な要求をしたものにはそれなりの「祝福」がある。「求めよさらば与えられん」を地で行っている。
「さて最近はいかがですかな」
ようやく頼みごとを話す機会を得た。司教相手に金を払って頼みごとを聞いてもらうわけだが、そういう形にしてはならない。とにかく回りくどいのだ。
「クラープ町で私の営業が無理に買い取られましたが、買い取った者たちはすべて破綻しました。
しかしその営業は町に必要なものだったため、領府の家宰の意向で私が債権者たちから買い戻しました」
「信仰薄き者の手を離れ信仰厚き者の手元に舞い戻ったわけですな」
こう何でもかんでも教会や神のおかげと、本人が考えているかどうかはともかくとして、すぐに出てくるようになるまでどれほどの訓練を受けたのかと思う。
「ですが売却のときと買い戻しのときの価格差が大きいために債権者たちが私に恨みを持っているようなのです。しかも彼らはご領主様とも懇意ですから心配でなりません」
まだ具体的に問題が起こっているわけではないので具体的な相談ができない。そうは言っても何かあることは伝えておいた方がいい。だからお布施も控えめなのだが。
「それは大変にご心労でしょう。神に頼むことです。神はすべてをお救いくださいます。どうしても道がわからなくなれば教会がお助けします」
何か起こったら金をもってまた来いとの仰せだ。まあ問題が起こったときに突然頼むよりいろいろスムーズに行く。
しかも領都ゼーランにも教会はあるわけで情報を集めてくれることもありうる。
「私どものような力なきものは神と教会の力におすがりするほかございません。どうかそのご威光で道を照らしていただきたく存じます」
お守代を払った分は仕事してくれとは言えず、とにかく遠回しのいい方になる。
「信仰厚きものは常に神と教会がともにあります」
また布施出せの確認があり、会見を終える。
いつものことだが、司教相手は疲れる。家に帰り神に悪態をつく。見慣れた光景だが、足の上にクロを載せてでれでれになっている。
「お宅の教会の司教だが、銭ゲバでとにかくお布施の要求だぞ」
「知らん、そんなものには会ったこともない。だいたいこんな大事な時にそのような些事の話をするでない」
確かに些事は些事だ。この神は戦争が起こっても何をするわけでもない。人間界には不干渉と決めているとのことだ。
それに比べれば俺が商売上で領主に何かされる不安があって司教にお守を頼むなどと言うのは些事もいいところだ。
ただその大事というのも、毎日毎日飽きもせずの猫あやしだ。神はやってくるとすぐに座り込み、そこにクロが乗っかるのが定例になっている。ときどきクロが乗らないと神はひどく落ち込んでいる。
「神がともにありますなんて、本当にその通りだが、神がいたって何の助けにもならないのにな」
「だから人間界のことは不干渉なのじゃ」
「猫のことは干渉・鑑賞・観賞・感傷なのにな」
「そんなのは当たり前じゃ」
「クロ、そんな堕落した者のところにいないでこっちにおいで」
そう声をかけるが、クロは面倒なのか居心地がいいのか、神の足の上から動かない。それを見て神はひどく得意げだ。たまに動いてこちらに来ることもあり、そうすると神はひどく落ち込む。
前にどうしてもクロを触りたくなって、ひょいと神のところから取り上げたら、烈火のごとく怒りだし天罰を下しかねなかったので、それ以降は避けている。
だがクロが自分で降りた場合にはその意向は尊重されるのだ。
「まったくこの神にしてあの司教ありだな」
「だからそんな者は知らんのじゃ」
この程度の神とそれにかこつけて布施を取る坊主と平仄が合っているともいえる。




