新たに研修をする(上)
従業員が増えてきたので研修を行うことにした。この社会だとふつうは研修などせずとりあえず現場に連れて行く。
研修についてははじめはシンディの泣き言から始まった。
「新しい人がどんどん増えるから教えるのも大変」
シンディとマルコといつものように家で話していた時のことだ。
うちの商会ではフルタイム(と言っても週20時間だが、それは商会主がそれだからだ)の正社員以外に地域限定の従業員が増えている。
そもそもこちらの社会では正社員と非正規社員の区別があいまいである。もっとも日本でもけっこう入り組んでいる気がする。
それはできるだけ労働者の法的な保護を少なくして、だけれども人一倍働いてもらいたい、経営者層の意向のなせるものだろう。
「従業員の研修をした方がいいかもしれない」
「研修はわかるけど、また何か特別なことを考えているの?」
「シンディの言う通り最近人が増えただろ。商売のやり方を教えるのも今までの通りじゃ無理な気もするんだ」
「いやフェリスが商売を教えていることの方がびっくりだよ。だってふつうの店じゃまだ駆け出しの歳なのに」
「そうねフェリスが教えるなんて不思議ね」
「いやそれはシンディが教える方が不思議だと思うよ。護身術とかならともかく……」
ちょっと口を滑らせた。不穏な空気が流れる。
「……護身術習いたい?」
シンディは指を鳴らしてこちらをにらんでいる
「……いや、ほらっ、あれ…、俺は店主だから人に教えるのも当然だけど、シンディはそうじゃないから」
「ああ、そうね。そうだったわね」
なんとなく納得していないような冷たい目だったが、言い訳が通ったようで一息つく。
俺が店主をしているのはブラック経験で勤めはもううんざりなのだ。
「まあ店主自体はなろうと思えばすぐなれるけれど、きちんと儲けてしかも商会を大きくしているのはすごいと思うよ」
マルコが褒めてくれる。それは前世知識のなせる業だ。しかも実際の中身はおっさんだし。
「ところで今まで通りじゃない教え方ってなんかある?」
だいたい今までの教え方は現場に連れて行ってみて覚えろというものだった。
「ほら、ロレンスは説教壇に立って説明するだろ。あんなのを考えているんだ」
「はあ、なんか商売っぽくないね」
「だけどマルコの行っている商業学校だって一斉講義はするだろ」
「考えたらそうだね。そうかあ、商会でもしてはいけないはずないね」
「そうだよな」
「うちじゃ考えられないけどね。フェリスのところならありかもしれない」
確かに旧習墨守のドナーティ商会では考えられそうにない。
「うちはいろいろやらせているだろ、それから新しい人を次々雇うから、成長をゆっくり待つことができない」
「うちだとさすがに危険なことだけは注意するけど、あとはだいたい見て覚えろというね」
見て覚えろに対しては日本では評判が悪かった。それでも経営していると見て覚えろといいたいのもわからないわけではない。
「確かに説明したからってすぐに仕事を覚えられるわけではないんだけどね。時間かけないと身につかないこともあると思うよ」
「あれ? 見て覚えろに同意するの?」
「すぐに技術を身に着けられたように見えても実は薄っぺらなものしか身についていないことはよくあると思うよ。
しかも長い間その場所に身を置かないとわからない変化とか経験しないイベントへの対処も時間をかけないと身につかないし」
「そうだとするとみて覚えろが有効だよね。一斉研修はどういう意味があるの?」
「なんというかね。見て覚えろというとき、教える側が本来は意識しなきゃいけないことをきちんと意識していないよね。
意識化するのが面倒だったり、それができなかったりしている。それで講義のような教育はできないんだ。
だから研修を作ろうとすることで教育すべきことを十分に認識できるようになると思うよ」
「かなり難しいことを考えているんだね。本当にフェリスはすごいよ」
「あとね、見て覚えろの欠点はやっぱり時間がかかるんだよね。その間ずっと待って、しかもそれだけの待遇ができればいいんだけどね」
もっともこの社会の徒弟は食うだけの待遇はしているのがふつうだ。それが十分だとは思えないが、この世界の人はそれで十分だと思っているらしい。
なお日本だと食うだけの待遇も怪しい。狭隘住宅に住まわせて将来の見込みのない生活をさせるのではこちらの世界の徒弟よりひどい。
それは業者間で競争が激しければ、仕事ができない者を食わせておくのが無理だということはわかる。
十分な働きができない者に十分な給料を出せるほどの余裕はたいていない。だったら見て覚えろのような時間のかかる教育方法はあきらめることだ。
もう一つ言うと、長期雇用するならいいが、もし途中で首をきる可能性があるなら、年をとっても生半可な技術しか身につけられなかったことに対する補償も必要だろう。
結局たいていの場合は見て覚えろは有効でない場面が多い。ただ教えようとしても教えきれないことについての認識は教えている方にも教えられている方にも必要なのだろう。
そういうわけで俺の商会ではこの社会ではふつうの見て覚えろはしない。きちんと研修の時間を取ることにする。




