アレックスと弓(下)
道場では弓の試合の記録を全くつけていないようなので、次回にノートを持ってきて、記録のつけ方を考える。
そうは言ってももとの世界で弓などしたことがないので、前世での弓の記録のつけ方はわからない。とりあえず日付と射た回数と当たった回数と備考欄位を設けておく。
ついでにときどき余白を入れてそこに考えたことを書くようにしておいた。そういうものは後で見返すと面白いこともある。考えたことなど覚えているつもりであっという間に忘れてしまうのだ。
「フェリスはそういうのが得意だよね」
「そりゃ商人だから記録はつけるよ」
実は買いっぱなし売りっぱなしの商人もいるのだが、やはり一定以上の商人はきちんと記録をつけている。そうでないと儲かるはずがない。
アレックスから聞かれる。
「この前どちらが強いか比べていたよね。この表でどうやって比べればいいの?」
「それは算術を使っている。一番素直に考えると割り算だ」
「あれ難しいんだよな」
「そうだな」
俺はもちろんすぐにできるが、こちらの社会だとけっこう上級の技術になる。
「じゃあ、それは教会学校か塾で習っておいで。掛け算は習った?」
「いちおうできる」
「じゃあ別の方法を教えるから」
「それおねがい」
「Aが8回射て6回当てて、Bが6回射て5回当てたとする」
「うん」
「そうしたら、本当はもっと小さい数でもいいのだけれど、お互いに相手の射た回数を自分の射た回数と当てた回数にかけるんだ」
公倍数は少し面倒なので、単純な方法をとる。
「えーと、どうするの?」
「Aは射た回数8回と当てた回数6回にそれぞれBの射た回数6回をかけて48回中36回当てたと考える。
Bは射た回数6回と当てた回数5回にそれぞれAの射た回数8回をかけて48回中40回当てたと考える。
だからBの方が上だ」
「ああ、射た回数をおなじにすればいいのか」
「そう、よく気づいたな。そのとおりだ。実はもっと小さい数4と3をかけてもいいんだが、それはまた少し難しいのでいずれ」
「わかったこれで、比べてみるよ。ありがとう」
それから何か、前のつっけんどんな態度がなくなったように思う。
アレックスはシンディに相手に剣術では無力感を感じつつあったようだが、弓術ではわりと積極的に試合を求めるようになった。
「アレックス、きょうは試合するの?」
「えーと、もう少し稽古してからにしようかと」
「試合も稽古よ」
そう言われてもアレックスは躊躇している。そこで
「じゃあ、弓の方で試合してみたら?」
俺が横から口を出す。
するとかなり表情が明るくなって
「そうだ、弓で試合しよう」
とさっそく弓を取りに行った。弓術については、シンディはまあまあというレベルだ。俺よりはうまいけれども。
弓術の試合は同じ回数だけ射て当たる数を競うものだ。射る回数が同じなので割合とか公倍数とか考えなくていい。
だから俺がいなくても勝ち負けはすぐにわかる。そこではじめは弓術でもシンディが勝っていた。ただその勝ち方は圧倒的というわけでもなかった。アレックスも負けとはいえ、いい勝負だった。
翌週になるとまだシンディの方が勝っているがかなり肉薄してきた。だいたいアレックスのふるまいが何となく様になってきている。
負けても、がっくり落ち込んだりせずに何か考えている様子だ。
そしてさらに翌週はとうとうアレックスの方が勝った。シンディは信じられない様子で
「あら、アレックスやるじゃない、もう一回勝負よ」
と言っている。
次の勝負はシンディの勝ちだったが、それでもほぼ互角に見える。今までと違うことをシンディも感じたようで
「まあ、こういうこともあるわよね」
などと言っている。
その頃はシンディにもまだ余裕があった。ところがアレックスは自信をつけてさらに練習を重ねる。
記録を見て、どれくらいうまくなっているか実感できるのもいいらしい。何も情報がなくてわからずに動くのはつらいからな。手ごたえを感じたようで、さらに割り算の仕方まで聞いてきた。
シンディの方は少しは気にしているようで、結果表の見方など聞いてくる。以前は見向きもしていなかったのに。
射た回数が異なるときの比べ方なども聞いてくる。それにはアレックスが得意げに説明していた。
さらに2か月もするとアレックスの勝ちばかりとなり、シンディが勝つことはほとんどなくなった。
シンディはもうアレックスに弓で勝つのはあきらめているようだ。ずいぶんな変化だと思う。俺がその様子を見ていると、
「あんたは、まだまだなんだから練習しなさい」
と八つ当たりのようなお叱りが来た。
「少しは悩むようになった?」
「う、うーん」
少しは悩んでいるらしい。この後弓を無茶苦茶練習するのかな。それともほどほどでやめるのかな。
後者なら、俺が剣をほどほどにすることも理解できるようになるかもしれない。そんな淡い期待を持つ。
いや別に俺だって武術が不要だと思っているわけではない。ただある程度までで、それ以上は全員が目指さなくてもいいと思うだけだ。
何か1つの価値が支配的になって全員でそれを目指すと勝者はおごるし敗者は無力感を持つ。
しかも実はたいていその価値は多くの人が思い込んでいるだけで、実際はたいして世の中のためになるわけでもないのだ。
とはいえ、俺の剣術はある程度にも届いていないことは認める。
弓ではかなりの上達を示しシンディにも勝ってアレックスは自信をつけたようだ。
自信をつけたせいか剣術の方も以前より切れがあるようになった。もっともそちらはシンディには全く敵わないままだが。それでももう落ち込んでいない。
いずれにしても道場生からも弓術ならアレックスが一番だとの評価を得ている。この辺は体格でどうしても差がついてしまう剣術と異なるようだ。まだ体の小さいアレックスでも道場一となることができる。
カスパーもその様子を見てかなり安心したようだ。そのおかげなのか俺にもずいぶん好意的だ。剣術の方は不肖の弟子というより、それ以前のその他大勢だが、息子のアレックスに自信をつけさせた。それに弓の結果の記録方法も確立している。
師範と俺の二人が並べば迫力ある武芸者とまるで子どもだが、実は俺の方が生きた年数は長いのだ。少しくらい知恵が回ってもおかしくない。
俺の方は遅々として大した進歩もしていないが、少なくともアレックスはそしてもしかしたらシンディも成長した日々だった。




