海底の梅は、もう見えない。
よろしくお願いいたします。
――海水を、掻き分ける。水が滲んでシワが出来た指先で、懸命に潜り続ける。吐いた吐息が泡になって、細められた視界を流れていった。
潜れば潜るほど、こめかみに圧力が掛かって、視界が狭まった。目の前に広がるのは暗い青。そしてその先に見える――梅の木。
海底に、梅の木があった。青の中で白い花が乱れ咲きをしていて、俺はそれに手を伸ばす。俺は水深二十メートル付近、そこにどうしてか咲いている梅の木の梅が欲しいのだ。手を伸ばして、足をばたつかせて、水圧を振り切ろうとする。
あと少し、あと少しで手が届く……そんな時に、いつも息が切れてしまうのだ。
もうダメだと体が脳に掛け合って、脳がため息と共に首を振る。そうして俺は歯を食い縛り、静かに潜水を止めた。
「…………っぷはっ、はっ、は、はっ……」
海面に浮上、無事に砂浜に戻ってきた俺は、四つん這いで呼吸を整えた。押しては引いてを繰り返す白波が脛と足裏を濡らして、視界上端に垂れている黒髪からはしきりに水滴が垂れている。
息を整えて体の向きを変え、自分が潜っていた海と茜色の空を眺めた。今の時刻は夕頃で、見据えた海は水平線まで馬鹿みたいに広がっている。普段は真っ青な海も、日が落ちる一刻だけは斜陽で赤く染まっていた。
「……今日も、駄目だったか」
一度深く息を吸い込んで、蕩けていく夕日を見る。もうすぐ夜だ。夜の海は、人間が潜れる世界ではない。慣れた敗北感に息を吐きながら、俺は海に目を向けた。海の中、揺れて波立つ青の隙間に――どうしてか、白いものが入り交じっていた。
意識せねば見えない白。それは俺が先程まで目指していた、『海底の梅』だ。
……どうしてか俺には、海底に梅が咲いているのが見える。一本ではなく並々と、幾本もの梅が咲いているのが見えるのだ。親も友人も、知り合いの漁師も俺の言葉を信じてはくれない。ただ、俺が狂っていると思って黙るばかりだ。そこには何も無い。どうせサンゴを花と見間違えたのだと、そう言う。
けれど、潜れば確かに、梅の木がある。幻覚ではなくて、本当にあるのだ。それはあまりにも異質で、意味不明で……俺は、梅の木の梅を手に入れようとしていた。
けれども、先程そうであった通り、どうしても手が届かない。熟練の漁師でも二十メートル付近への素潜りは困難だ。ましてや一介の大学生では到底、そこまで手が伸びない。
けれども、諦める訳にはいかなかった。だから俺は、海が時化た日を除いて、毎日海に潜り続けている。講義もサボって、東京から沖縄にトンボ返りして、ひたすらひたすら、海に潜っていた。
最初は四メートルで音を上げていたが、回数を重ねる内に段々と体が慣れてきて……今では目と鼻の先にまで迫っていた。あと少し、あと少しなのだ。あと少しで、海底の梅が手に入る。
「……明日、こそ」
そう呟いて、俺は静かに立ち上がった。そして茜色の海、幽玄とした海底の梅に背を向けると――漁師の田中さんが一人、砂浜でタバコを吸っていた。片手には缶コーヒーがあって、俺と目が合うと、バツが悪そうに目を伏せる。
……素潜り初心者の俺が梅を手に入れるには、熟達した漁師にコツを聞くのが一番だと思っていた。だから俺は片っ端から漁師のおじさんに頭を下げて、教えてくれと頼み込んだ。
結局、誰も彼も、東京から田舎に戻った大学生に素潜りを教えるつもりは無かったようで……恐らくその件があって、漁師は俺にこんな反応を向けてくる。俺は濡れた髪を掻きながら、実家に戻った。
「真人……そろそろ、髪切ったら?」
「……」
俺の実家は、海に近い。お陰で毎日海に足を運べるし、帰るのも楽だった。食卓に並んでるのはアジの開き、だし巻き玉子、ゴーヤチャンプルに味噌汁。お袋は東京から帰ってきた俺に遠慮して、最近の食卓はずっと俺に合わせている。
親父は黙って慣れない味噌汁を啜りながら、段ボール位しかない型落ちのテレビで野球の中継を見ていた。少し曇った親父の眼鏡の中で黒い瞳が揺れて、一瞬俺を見た。けれどその目はすぐにテレビへ移る。
「もう何ヵ月切ってないの? ……ほら、元は良いんだからさ」
「……」
飯を腹に掻き込んで椅子から立った。お袋が何かを言おうとしたが、それが言葉になる前に背中を向ける。丁度俺の後ろの壁にに張ってあったカレンダーは、三ヶ月前から捲られていなかった。
食事が終わったら、後は寝るだけだ。寝て、起きて、海に行く。そうして、体力が尽きるまで梅を目指すのだ。早めに寝れば、それだけ体力が回復する。試行回数は多ければ多いほど良い。
俺はさっさと敷き布団に潜って、目を閉じた。いつも通りするすると思考が眠りの海に潜っていって……そこに声が混じった。
――はーい! ここで梅ちゃんの豆知識タイムですよー!!
――『梅は食えども核食うな』ってことわざ、知ってる~?
「……」
もうしばらくそんな事は無かった癖に、昔の声が、懐かしい声が聞こえて……どうにも目が冴えた。けれども深呼吸をすればすぐに瞼が重くなって……すぐに、翌朝が来た。いつも通り、飯を掻き込んで海に行く。朝日で照らされる海は見慣れた色をしていて、目を凝らせば海底に梅が咲いているのが見える。
「うわ、また居るよ」
「怖っ」
「噂通りじゃん」
声に反応して振り返ると、浜辺に女が三人居た。見覚えの無い女だが、向こうはそうではないらしい。地元の女か? ……まあ、どうでも良い。考えるだけ時間の無駄だ。
俺はゆっくり海に歩く。濡れた砂は風呂場のタイルに似た質感で、あるいは濡らしたタオルの上を歩いているようだった。足の指先から海水に触れて、腰まで水に浸かる。そして、少しの間体に水を掛けたり潜ったりして水に慣れた。
それらが終わると、息を吸う。幾ばくか雲のある青空を見上げて、肺の奥まで酸素を詰める。そうして――海に飛び込んだ。
一回目は目測二十メートルで撤退。二回目も同じく撤退。休憩を挟んだ三回目で足が攣って、昼飯を摂ることにした。いつも沖縄料理ばっかり作ってるからか、どうにも味がしない母さんの料理を胃袋に入れて、もう一度。二度、三度とまた失敗。いつものことだ。日がゆっくりと傾き始めて、今日もダメかもしれない、と思い始めた。
荒い息を整えて、もう一度。今日は足が攣った上、海が少しだけ冷たい。潮の流れがほんの少し違うのかもしれない。これが今日の最後になるな、と心に言い聞かせて、海水に体を滑り込ませた。
体表を滑る海水に目を細めて、視線の先にある梅へと手を伸ばした。水を押し退けて、掻き分けて、海底へ向かう。
水圧が少しずつ体を締め上げていくのがわかる。耳抜きをして、より深くへ潜った。後何メートルだ、と目測で計りつつ進む。
十五メートルを越した辺りで、段々と嫌な感触が伝わってくる。潰れていく鼓膜、充血する目。けれども体は機械のように潜水を繰り返して……二十メートルを過ぎた。もう、梅は目の前だ。あと少し、あと少しで手が届く。
肺が痛み、呼吸を求めているのが分かった。目の前が霞んで、僅かに足が縺れる。不味い。今度は太ももが吊りそうだ。やっぱり今日の海は少し冷たい。
けれども、今回はどうにも潮の流れが良かった。何度となく繰り返し続けた素潜りの経験も相まって、驚くほど滑らかに体が海底に落ちていく。詰まる喉と、潰れる視界と、水流の音の狭間で俺は……ついに、海底の梅に辿り着いた。
藍色の海の底、光さえ揺らぐそこに咲いていたのは――純白のサンゴ礁。梅の花では無かった。
「―――」
そこにあったのは、ただのサンゴ礁だ。花が咲くように、サンゴが海底に咲いている。俺は海底で瞬きをした。目を擦ろうとして、その必要が無いことに気づく頃には、体が本能で海面へと飛び出していた。
「ぶはっ! はっ、は、は、はっ……!」
溺死寸前のまま、海面に出て、酸欠で白飛びした視界のままなんとか浜辺に縺れ込む。両手を黒い砂浜について、前髪から滴る海水の音を聞きながら、記憶を辿る。
梅の花。梅の花が、海底に咲いていた。咲いていたはずだったんだ。そこにようやく手が届いて、やっと梅が手に入ると、そう思ったのに。
無意識に、両手が砂を握り潰していた。水着が肌に張り付いて気持ちが悪い。
俺は……俺は、梅を、手に入れないと。そうしないといけなかったんだ。ぽたりぽたりと、滲んだ視界から塩水が滴り落ちた。握り潰した砂を浜に叩きつけて、寄った波に全てが流されていく。
夕日が俺の無様な有り様を照らしていて、俺は泣きながら砂浜に座り込んだ。全身の力が抜けてしまって、腰が据わらない。そのまま倒れ込まないのは、単に素潜りでついた筋肉のお陰だろう。
「……」
視界の先にある水平線。そこに沈んでいく夕日は、まだ赤らまない。卵の黄身のように丸く、そうしてすぐに水平線へ溶けていくだろう。目線を入れ替えて、海底を見る。この三ヶ月間、ずっとそれを目指していた。その為だけに潜り続けてきた、深海の梅。
「――はは、は。なんだ、それ」
そこに見えるのは、ただのサンゴ礁。穴が開くほど見て、何度も目を擦って、それでも消えなかった梅の花は、蜃気楼のように消えていた。思わず笑いと吐き気が来て、血の気が引くのが分かった。
ああ、これは……悪夢、じゃないな。これが、現実か。狂ってたのは、最初から俺だったんだ。
「ははは……考えてみりゃ、海底に梅なんて、咲いてる訳ないか」
馬鹿じゃねーの、と一息に呟いた。つまらない自虐に返ってくる声は無い。ただただ波の音が、正解を示すように繰り返されている。涙が止まらなくて、砂の付いた手の甲でそれを拭っていると……不意に、誰かが俺の隣に立っていた。見上げてみれば、漁師の田中さんだった。
「……坊主、どうだ。オマエの言った梅ってのは、見えたか?」
「……」
「……その分じゃ、目は覚めたみたいだな」
「すみま、せんでした……」
梅が海底に咲いているんです、と俺は漁師に詰め寄っていた。思い出せるだけでも十人くらいの漁師に、素潜りを教えてくれと、あの梅が欲しいのだと宣っていた。ああ、そうだ。漁師が冷たいのは俺が押し掛けたからでも、東京からの帰ってきたからでもない。
ただ単に、俺がイカれてただけなんだ。
田中さんはタバコも吸わず、缶コーヒーも手に持たず、手ぶらで夕日を見つめていた。
「……理由、聞いてもいいだろ。梅がどうしても欲しいって言ってた理由だ」
「……ことわざが、あったんですよ」
俺は溢れてくる涙を止めることを諦めて、鼻をすすりながら答えた。自分でも一周回って笑えてくるぐらい、酷い声だった。
「『梅は食えども核喰うな。中に天神寝てござる』って……知ってますか?」
「……いや」
そうですよね、と俺は返した。知ってる人のほうが珍しいだろう。けれども俺にとっては、これが縋り付く全てだった。
――生の梅はねー、種に毒があるんだよ〜?
また、懐かしい声が聞こえた。生の梅の種には、毒がある。弱いが、毒には違いない。だから、生で梅を食うときは、種まで食べてはいけない。けれども昔の農民や子供に毒だのなんだのは通じないから、種の中には天神さまが居るのだと伝わっているのだ。
俺がそれを告げただけで、田中さんはもう何かを察したようだった。手ぶらの両手に力が籠もって、顔が硬い。
「……俺は、信じてたんですよ。信じたかったんです。梅の中には神様が居るんだって。――神様なら、アイツを生き返らせてくれるんじゃないかなって」
「……」
「市場に行って、馬鹿みたいに梅を買って、吐くまで食って……毎晩、皿の上に残った梅の種に、祈ってました」
「……」
「でも、梅の中には神様なんて居ない……結局全部、ただの作り話だったんです。……けど」
――海底に咲いてる梅なんて見つけたら、信じたくなるじゃないですか。そんな、おとぎ話から飛び出してきたようなものを見てしまえば、信じてしまいたくなった。こんな摩訶不思議な梅の中になら、もしかしたら本当に神様が居るのかもしれない、と。
「……彼女さん、だったか」
「もう、その話が伝わってるんですね。三ヶ月もありゃ、伝わるか」
――山城梅。なんの変哲もない普通の女で、幼馴染みで……俺の彼女だった奴だ。自分の名前が大好きだったらしく、聞いてもいないのに梅の豆知識ばかり話してくるから、困ったものだ。
どこに行くにもアヒルのヒナみたいについてくる上、ケラケラとうるさい笑い声が特徴的で、掴み所のない奴だった。その癖気遣いは上手いし、料理も美味いし、話は上手いしでなんとも……簡単に心を落とされてしまった。
――くふふ……そうかそうか、私が好き、ね〜。
――実は好きになったのは私からって言ったら、ビックリしてくれる?
なんてね、としてやったり顔で笑うアイツの幸せそうな顔はどうにも反則で、今でも鮮明に思い出せる。
「……」
「……」
「……忘れ、られないんですよ」
「そうだろうなぁ……」
「最後にあいつ、すげえ不器用な顔で『行ってらっしゃい』って言ったんですよ。本当に嫌そうな顔で、その癖なんとか応援しようとしてる顔で、そう、言って……」
また、涙が止まらなくなってきた。付き合ってから三年程が過ぎただろうか。高校三年生の俺は、東京の大学へ進路を定めていた。単純に、都会に憧れていたことも、都会の大企業に就職して……あいつに不自由の無い生活をさせてやりたかったという判断だ。
当然、そんな事を言えばどんなからかわれ方をするか分かったものではないから、進路の話をするときはかなりややこしかった。特に遠距離恋愛は嫌だ嫌だと梅がゴネるもので、あの手この手で地方に引き留めてきたのだ。抗いがたい魔手を掻い潜って、なんとか進学し――
――その一年後、梅は死んだ。
「……溺れてる小学生助けようとして自分も溺れちまうなんて、本当に……あいつらしい」
「……」
「携帯のパスワードが俺とアイツの誕生日だったせいで、訃報の連絡が遅れたのもあいつらしいんですよ。結局親が電話するまで、未読無視とかありえねえって呑気なことばっか考えてて……」
「……そうか」
「大学通いながらバイトして……それで、本当に少しずつ貯金して――いつか、サプライズでここに戻って、指輪とか渡してみようかな、とか思ってたら……はは、全部こっち戻ってくる時の旅費になっちまいました」
見据える水平線で、太陽が溶けていく。割れた卵の黄身のように、表面張力を失った水滴のように溶けていく。俺はただそれを眺めて、茜色に光る海の、その底を見た。さざ波の奥で揺れるサンゴ礁は、時折花のような姿を見せる。
背後の田中さんが空気を読むように俺から離れていく足音が聞こえて……そうしてそれは、すぐに戻ってきた。その意外さに首だけ振り返ると、田中さんは両手に小さなバスケットを持っていた。
「……事情は、なんとなく知ってたさ。俺にはこれぐらいしか出来なかったが」
「……」
バスケットの中にあったのは、大小不揃いな梅の実だった。腐るほどに見て、食って、祈った梅だった。田中さんは少しだけ申し訳無さそうに俺を見て、そっとバスケットを砂浜に置く。
そうして、ぼやくように言った。
「……この梅ん中にも天神様は居ないだろうなぁ。けども、坊主の心ん中にだったら……居るんじゃねえのかな」
「……俺の心を割ってみたら、中に居たりしますかね」
「……分かんねえなぁ」
目を細めて首を振る田中さんに、すみませんと謝った。こんな質問をぶつけられても、意味が分からないだけだろう。田中さんは「いんや」と苦笑して、少し黙った後に、静かに踵を返した。
取り残された俺の足先に、温い白波が触れる。目を向けた海は、濃い藍色に沈んでいた。夕の海に、太陽はどんどんと落ちていく。水底に見えていた花のような珊瑚も、既に見えなくなっていた。
ため息を吐きすぎてヘタれてしまった肺に空気を詰め直して、少しだけ吐く。そうして、藍色の海を眺めながら、指先で梅を一つつまみ上げた。
少し熟した梅は蜂蜜色で、夕日よりも薄い色合いをしている。それを見比べて、ゆっくりと歯を立てた。一口目を齧って、しばらくぼうっと、海を見ていた。
「……」
飲み込むような、暗い波。その中に飛び込んでしまいたいと思う自分が居た。けれども、あぐらを掻いた足腰に、まるで力が入らない。この海に飛び込んで、飛び込んで……どうするんだ?
また、海底の梅を探すのか?
「はは……馬鹿かよ」
そんなものは、もう無いんだ。ともすれば、最初から無かった。海の底に飛び込んでも、梅はそこに居てくれない。俺は、お前の居るところには行けない。それがやっと分かったんだ。やっと……分かった、から――
「お前にはもう、逢えないんだな」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。続けて、視界が滲む。透明な膜が瞳に張り付いて、流れ出た。それを拭うだけの力も、とうに無い。ただ俺は泣いて、濡れた砂浜を足の裏でギュッと握りしめて、また梅を噛んだ。噛み過ぎた歯が種に当たって、そこに神様は居ない。
見据える先の海は夕日を吸い込んで、夜の色に染まりつつあった。泣きながら、そこへどれだけ目を凝らしても、凝らしても、何も見えない。波の間に、あれだけ鮮明に見えていた梅の花は、欠片ほどもそこには無い。
海の底に落ちていくような喪失感を覚えながら、もう一口、梅を噛み締めた。口の中に生の梅が持つ、独特の渋みと香りが広がって、鼻先に抜けていく。生の梅の味は独特で、苦味とエグみが八割だ。けれども今は、今だけは、涙の塩味が混じって、それが良い塩梅だった。
『海底の梅は、もう見えない。』
ご一読、ありがとうございました。