冬の断章-③
気づけば、期限の日の朝をホテルのベッドの上で迎えていた。
その日は、あらかじめ予定を決めていた。
二人で話し合って、彼女が見たことがないという海に行くことにしていた。
俺たちは終着点が海の近辺であることだけを調べ、聞いたこともない路線電車に乗り合わせた。
今まで見たことのない景色が、現れては消えていく。
程良いスピード感で走る電車に揺られながら、俺たちは他愛もない子どもの時の思い出を話し合っていた。
「ねえ、永輔さん」
ふと、彼女が切り出した。
「私が消えたら、日聖さんと結ばれてください。私のことは、もう忘れて」
俺は真っ直ぐな彼女の視線を振り払って、うなだれながら首を振った。
「そんなの、無理だよ」
「無理でも、そうしてください。じゃなかったら、私の今までの努力はどうなっちゃうんですか?」
燎火さんは頬を膨らませて、いじけたように眉を吊り上げてそっぽを向いた。
そして、おもむろに向き直ると、俺の唇に自分の人差し指をくっつけて破顔した。
「大丈夫ですよ。永輔さんだったら、何も心配することはありません」
どこにそんな根拠があるんだ。
そう返したいのを我慢して、俺は「分かった。約束するよ」と返した。
そして、幼い子どもがするみたいに、俺たちは小指を絡め合って指切りした。
二時間ほどで電車は終着駅に着いた。
狭苦しい無人の駅を出ると、途端に磯の匂いが遠くから漂ってきた。
急勾配の石段が続いていて、俺たちはバランスを取りながら下まで降りる。
階段を降りた。
次第に灰色をした海が見えてきた。
ふと彼女が立ち止まった。
大きく目を見開き、声にならない声を出して、はるかに広がるその光景に圧倒されている様子だった。
冬の海辺には、誰の姿も見当たらなかった。
うら寂しく、ただ波が寄せては返すだけの光景に彼女は目を奪われ続けていた。
海岸まで着くと、俺たちは走って海へと飛び込んだ。
服が濡れるのも気にせず、馬鹿みたいにはしゃぎながら抱き合って水の中へと倒れ込む。
不思議と冷たさも息苦しさも感じなかった。
その感触と温もりだけが、いつまでも胸に残響していた。
最後に俺たちは、初めて出会った彼女の故郷へ帰ることにした。
一時は晴れ間が見えるぐらいの薄い曇り空だったのが、時間を経るごとに空は暗くなっていった。
薄暗い車内で、彼女の身体から光の粒子が漏れていることにふと気づく。
もう時間は残されていなかった。
数時間をかけて、俺たちは沙山市へと戻る。
千賀燎火が生まれ育ち、生涯を通してほとんど出ることのなかった土地。
そこで俺たちは出会い、こうしてまた巡り合った。
帰りの電車に乗ってから、彼女は目に見えて衰弱していった。
ずっと俺の肩に寄りかかって、額からは汗が絶え間なく溢れ続けていた。
その手を握りながら、俺は「もう少しで着くよ」と言葉をかけた。
何度か電車を乗り換えて駅に着いた時には、もう彼女は自分の力では歩けなくなっていた。
俺はすっかり軽くなったその身体をおぶって、始まりの場所へと急いだ。
いつしか小ぶりの雨が、冷たい氷の粒に変わっていた。
ほんの一瞬が、永遠ほどの価値を持っていた。
道行く人たちが何度も俺たちに視線を向けてきた。
「救急車を呼びましょうか?」と声をかけてくれる人もいたが、俺は無視してひたすら目的地を目指した。
沙山総合病院に着く頃には、彼女の体重は大分軽くなっているようだった。
エレベーターを使って、俺は真っ直ぐに屋上を目指す。
屋上のドアは鍵が閉まっていたが、そんなもの俺たちには関係なかった。
まるでかつての日々を再現するかのように、屋上には洗濯物のシーツが一面に干してあった。
それらはたなびきながら、その軌跡を目で追うと、視界の先で雲から一筋の光が差し込んだ。
あっという間に黒雲は追い払われて、雪の残滓を降らせながら晴れ間が広がっていく。
気がつけば彼女の身体は、その全身が輝きを帯びていた。
俺たちは向かい合って、最後にもう一度笑い合った。
「これで、お別れですね」
俺はゆっくりと頷いて、その澄んだ瞳に目を合わせた。
「この一年、色々なことがあったな」
「そうですね。とても両手では抱えきれないぐらい、たくさんの思い出があります」
初めて出会った日から今日までを振り返る。
数えきれないほどの喜びと悲しみがあって、それらは記憶の中でどれも鈍い輝きを放っていた。
「あなたのおかげで、私は幸福に生きることができました。たった一人の肉親にも呪われた私が、こんなにも満たされた最期を迎えることができたんです。なんて感謝を言ったらいいか、分かりません」
それは俺の台詞だよ。
そう口にしたかったが、ただ白い息だけが口から漏れた。
「……もう、行ってしまうのか?」
目を細めていつものように微笑みながら、彼女は小さく頷いた。
最後に互いを抱きしめ合う。
「じゃあ永輔さん、さようなら。ただ幸福に、生きてください」
最後に目に焼きついた彼女の姿は、十五歳ではなく二十五歳のそれになっていた。
次に瞬きをした時には、もう彼女は消えていた。
視界の奥。
雪の欠片と逆向して、眩しい光たちが天へと立ち昇っていった。
第四章 冬の断章 完。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。




