舞台袖からの景色-④
初めて顔を見た瞬間、私は悟った。
福島永輔。
隣人の息子。
一度も会ったことのないクラスメイト。
彼は私とよく似ている人種だ。生気を感じさせない落ち窪んだ瞳が、この先の人生に何も期待していないことを物語っていた。
初めて出会ったその時、彼は私と同じように世界から追放されていた。
彼の母親である同室の千裕さんから、息子の情報を時々聞いていた。
だから、その人生についてうっすらとした輪郭を描くことができた。
どんなキャラクターを演じれば、彼に気に入られるかを分かっていたのだ。
幼馴染に裏切られ、初恋の女の子を奪われた事件を経て、彼は歪んでしまった。
必死な努力の末に入学した大学を中退して、当てもなくフリーター生活を送っていた。
歪みの中に決して消えない純粋さを持つ彼を騙すのは、呆れるほど簡単だった。
永輔さんが私を好いていることは、すぐに分かった。
誰かに純粋な好意を向けられて嫌悪するほど、私は他人からの愛に富んでいない。
彼の気持ちは嬉しかったし、同年代の男性に好かれるのはこれが最初で最後だと確信していた。
次第に私は、同年齢である彼の朴訥とした優しさに惹かれていった。
同時に、薄汚い欲望が心の中で渦巻き始めた。
私が死んだその後に、誰かに悲しんで苦しんで欲しい。
死ぬその時まで、私の存在を忘れず記憶に焼きつけて欲しい。
私の生きた証をその身に刻んで欲しい。
愛は自己犠牲でしか証明することができない。
母と過ごした短い生活で、私は身を以ってその真理を味わった。
だけど、永輔さんがその間違いを正してくれた。
それは私にとって、絶望でありながら福音だった。
憎しみと感謝の相反する二つの感情を彼に抱いた。
どれだけ歪んでいても確かに、私は福島永輔を好いていたのだ。
同時、そんな彼に犠牲を強いたのも事実だった。
今まで十分過ぎるほど、自分は責め苦を受けてきたではないか。
だったら、これぐらいのわがままを通したって許されるはずだ。
こんな私に幸福の味を教えてくれた。
誰かに愛される感覚を教えてくれた永輔さんを、私は呪おうとした。
大切な人への返しきれないぐらい大きな恩を、仇で返そうとしたのだ。
実際、自分の命が終わりに近づいていることは肌で分かっていた。
それはどこまでも、初めてこの身に訪れた満たされた日々への裏返しとして進行していたからだ。
私はそこまで良くできた人間じゃない。
せめてこれまで何も与えてくれなかった世界に対して、それぐらいの細やかな悪意や反抗は許して欲しかった。
違う。
許されるはずだ。
そうやって勝手に免罪符を与え続け、なおも被害者面をして彼を誑かし続けた。
それに何より、あの伝説が胸に光明として胸に刺していた。
最期の最期で、もしかしたら私の生きたいという願いは叶うかもしれない。
ならば、いつか私たちは全てを乗り越えて、共に添い遂げることができるはずだ。
だからこれは、その未来を手繰り寄せるまでの、ほんの出来心からの悪戯に過ぎない。
悲劇も絶望も、悪意も犠牲も、きっといずれは全て許される。
その後で奥手な彼に変わって、私の方から胸の想いを告げよう。
きっと彼も、それに応えてくれるはずだ。
そう思っていた。
その結果、永輔さんは交通事故で死んでしまった。
他でもない私が、彼を殺したのだ。
街が大吹雪に見舞われたあの日。
とどめとばかりに余命宣告をされたことを告げると、永輔さんは半狂乱になって病室を飛び出した。
そのまま彼は病院前の踏み切りでトラックに轢かれ、全身をぐちゃぐちゃに潰されて即死した。
看護師さんに彼の訃報を告げられ、私は真っ先にこう思った。
ああ、バチが当たったのだ。
つまらない出来心で彼の心を弄んだ、私が全部悪かった。
ほんの些細な悪戯のつもりだった。
些細な運命への反抗に過ぎないと思っていた。
取りに足らない伝説に縋って、それを免罪符にしていた。
その果てに、取り返しのつかない結末を辿り寄せてしまったのだ。
もう長くはない時間のほとんどを、私は後悔に費やした。
自分を愛してくれた人を殺してしまった、自らの罪をひたすら責め続けた。
シーツを涙でぐちゃぐちゃに浸しながら、もうどこにもいない彼に向かって懺悔し続けた。
悔やんで、悔やんで、悔やんで、悔やみ続けた。
泣いて、泣いて、泣いて、泣き続けた。
惨めに自分が死ぬこと。
いつしかそれだけが彼に報いる方法だと考えるようになり、死だけが生きる希望になった。
幸いなことに、最期の時はすぐにやってきた。
かつてない胸の苦しみに悶えて、集中治療室に運ばれる最中。
朧げな意識の中で、私は願った。どうか永輔さんに生き返って欲しい。
今まで苦しんだ分だけ、彼には幸せに生き直して欲しい。
最後にそれだけを思い、私の意識は霧散した。
私はその時、自分が死んだと思っていた。
手術が成功し生き残れる見込みなど、到底なかったのだから。
しかし生きていた。
ゆっくりと目が開く。
上半身を起こし、感覚の違和感に気づく。
まるで重力から解き放たれたみたいに、身体が妙に軽かった。
病気になってから一度も感じたことのない解放感が五体を満たし、まるで宇宙飛行士にでもなった気分だった。
視線を落とすと、私の身体は微かに光を放ちながら、浮遊しているようだった。
辺りを見渡すと、そこは病院ではなかった。
すぐ頭上に巨大な雲が広がり、遥か下にはミニチュアのような町の姿が見えた。
その日、私は神さまになった。
人にはもう、戻れそうにない。




