春の断章①
強烈な郷愁の匂いと共に、ゆっくりと意識が浮上した。
視界に広がっていたのは真っ白な天井だった。どうやら俺は、仰向けになって寝そべっているらしい。
荒い息がひっきりなしに漏れる。全身で汗をかいているようで、服がべたべたと貼りつく感触が気持ち悪くて仕方なかった。
この状況を把握しようと、頭を揺り動かして記憶を手繰り寄せる。
記憶の接合点が徐々に繋がっていき、次いで鮮明な死の感覚が襲ってきた。
全てを凍てつかせるような白に彩られた景色の中、俺はトラックに跳ね飛ばされたのだ。
言葉に表せないような凄絶な痛みの後、全身の神経がバラバラに離散しながら空中へと投げ出される感覚をまだ覚えている。
酸っぱいものが胃からこみ上げ、焼けるような感覚が喉元を刺した。
あの時、間違いなく死んだと思った。
だが、実際にはこうやって意識があって、鈍いが五体の感覚も残っている。
奇跡的に助かったと考えるのが妥当だ。
となると、ここは病院の一室で、そこでずっと意識を失っていたのだろう。
一生分の幸運が働いて奇跡を呼び寄せたのかは知らないが、俺はトラックに轢かれながら、健全な状態でなんとか生還したらしい。
現実的な理由を考えてみれば、トラックがそれほどのスピードを出していなかったというのが実情なのだろう。
もっともそれは俺の場合、悪運の強さと同義でしかなかった。
のそのそと上体を起こしてみる。全身の筋肉がきりきり痛んで苦悶の声が漏れた。
起き上がると目眩がして、再びベッドへと突っ伏して目を閉じた。
病院という言葉が呼び水になったのだろう。
彼女の記憶が脳内に去来する。
千賀燎火。
もうすぐ逝ってしまうという最愛の人。
もしかしたら彼女は、俺の事故を自分の責任として感じているのかもしれない。
彼女の余命が幾ばくもないことを知って、俺は全てを諦めた。
冷静に考えてみれば、俺に残された道は自棄になって逃げ出す他にいくらでもあったはずだ。
最期の時まで側にいて、奇跡的な病状の回復を祈り続けることだってできたのだから。
自らの生に手を下すのは、その後からだって遅くはなかった。
しかしこうやって生きている以上、俺は考えられる限り最悪の結果を引き寄せたことになる。
彼女には一体、あとどれくらいの時間が残されているのだろう。
それとも、もうこの世にはいないのだろうか?
それだけが気になって仕方がなかった。
「永輔、早く起きなさい」
その時、所帯じみた女性の声が響いた。
どこか聞き覚えのある声だ。
はっとして、「どういうことだ?」と自問自答した。
なぜならその声は俺の母、福島千裕に瓜二つだったのだから。
ようやく身体を起こして、ベッドから降りる。部屋を見渡してみる。
どうして、今まで気づかなかったのだろうか?
そこは実家の自室とよく似ていた。
久方ぶりに目にする部屋は随分と散らかった様相を呈していて、なんとも言えない生活臭さで溢れていた。
記憶では大学進学の際、かなり念入りに掃除をしたはずだ。
この部屋に立ち入ることは二度とないという、自戒を込めて。
交通事故に遭ったはずの俺が、なぜ実家のベッドで眠っていたのだろう。即座に閃いた仮説は一つ。
あの時の事故で命は助かったが、意識に障害が残った。
長らく眠り続けていた俺を両親は病院から移し、今日まで自宅で介護していたというものだ。
導き出したその仮説の残酷さに、心臓が飛び出そうになる。
しかし、よくよく考えてみればおかしい。
母の態度が平静過ぎるし、何より部屋が散らかっていることの理由づけにはならない。
息を呑む。
その時になって、今まで気づかなかった違和感が奔流のように襲ってきた。
なんと表現するのが適切だろうか。言うなれば、全身の感覚が及ばないのだ。
衣服や空気に触れている触覚の最大領域が狭まっている、とでも言おうか。
例えるならば、美容院で伸ばしきった髪を切った後の解放感に似ている。
それを全身に拡張したようだった。
まさか長い時間昏睡していたせいで、痩せこけたというわけではないだろう。
ひとまず母に会おう。そう思った。
母と話せばひとまず、あの日俺の身に起きた事件の顛末を知ることができるはずだ。
二階にある自室を出てから、階段を降りて台所へと向かう。
懐かしい風景に郷愁など浸っている場合ではなかった。
途中の洗面所で物音が聞こえてくる。
足を向けると、慌ただしく洗濯機から衣服を籠に取り込んでいる母と対面した。
「おはよ。新学期の初日から寝坊なんてしてるんじゃないわよ。ほら、朝ごはん早く食べちゃいなさい」
母は顔を向けることなく、間の抜けた台詞を吐いた。
耳を疑う。
あんな悲惨な事故に遭って、ようやく回復した息子に吐く台詞にしては、あまりに不相ではないか。
しかし頭を働かせる間もなく、その横顔を見て、いよいよ愕然とする。
彼女の老いた姿をこの目で見ていたからこそ分かる。
事実、母は若返っていた。
深々と刻まれた額の皺やほうれい線はほとんど目立たず、全身の線もすっきりと伸びて若々しい。
その風体は、存在の脆弱さというものをまるで感じさせなかった。
「……なあ、今日は何月か、教えてくれないか」
「あんた、まだ寝ぼけているの? 今日から新学期じゃないの」
訳が分からなかった。
母の言う「新学期」という言葉は、何を指しているのだろうか?
理解が追いつかないのに、どことなくこの状況に既視感がある。
「新学期」や「寝坊」という言葉。
甲斐甲斐しく俺を起こしに来てくれる母の行動。
それらが繋がる。
急速に思考の像がはっきりと形をなした。
どこかこの状況は、俺が学生だった頃と似てはいないか?|
「今年って、西暦何年?」
「その話って、今必要なの?」
母は怪訝そうにこちらを睨んで、大儀そうにぼやいた。
「えっと、去年が六年だったから、二〇〇七年だったわね」とそっけなく答えて、洗面所を出ていった。
ようやく俺は、自分が置かれた状況を理解した。
理解こそしたが、納得など到底できやしなかったが。
当たり前だ。
しかし、そう考えるより他になかった。
二〇〇七年、あるいは平成十九年。
それは紛れもなく、遥か昔に過ぎ去った過去の世界だったはずだ。
これが悪霊の見せた悪夢じゃないのなら、つまり俺は二十五歳の精神のまま過去に遡ってしまったということになる。
タイムスリップ、タイムトラベル、タイムリープ、時間遡行。
使い古された言葉ではそうなるのだろう。
事故に遭った拍子で、俺は十年前の世界に巻き戻ってしまったらしい。
なんて馬鹿らしい笑い話だ。
だが突きつけられた状況証拠は、それ以外の解釈を許してはくれなかった。
振り返ってみると、洗面台にかけられた鏡が真実をはっきり映していた。
朧げに覚えている、十四歳の福島永輔がそこにいた。
顔の造形に締まりがなく、身体は数センチ小さくなっていて、手や足の線も十年後より細くて頼りなく見えた。
髪も大分短い。
何よりも精気の宿った凛々しい瞳が、十年の埋めがたい懸隔を物語っていた。
「ぐずぐずしてないで早く朝ごはん食べちゃいなさい。初日から遅刻するわよ」
「ああ、分かってるよ」
もはや考える余力をなくしてしまっていた。
おぼつかない足取りで見慣れたリビングへ向かう。
テーブルには白米と香ばしい匂いを漂わせるベーコンエッグ、キャベツと玉ねぎの味噌汁が置かれていた。
自動的に用意されている朝食というものがひどく懐かしく、本当に手をつけていいのか逡巡してしまう。
部屋の隅には、カレンダーがかけられていた。
二〇〇七年の四月七日。
しっかりと十年前の日付が示されていた。
試しにテレビを点けてみれば、すでに過去の人となったはずの芸人が出演している新しいドリンクのCMが流れていた。
試しにニュース番組に変えてみると、やはり当時世間を騒がせていた政治家の汚職事件や、人気タレントの不倫が報道されていた。
母がリビングに顔を出す。
右手にはハンガーにかけられた、グレーを基調とした無難なデザインの制服と純白のワイシャツ。
左手には、黒のスラックスとネイビーのネクタイが握られていた。
「クリーニングに出しておいたわよ。今年で中学も最後なんだから、気を引き締めなさい」
返事をしている気力などありはしない。
俺はテレビの電源を消して、俯きながら朝食に手をつけ始めた。
数年ぶりに食べた母の味は、記憶よりもずっと塩辛かった。