秋の断章⑦-3
こそこそと控室に戻った俺たちを出迎えたのは、クラスメイトたちからの非難の声だった。
「おっせえよ。もう本番始まるんだぞ」
「こんな時に、二人で何してたんだよ?」
新田と羽瀬が口々に言う。
俺たちは手を合わせて、彼らに平謝りした。
控室には劇に直接関係のある数人の生徒しか残っておらず、他のクラスメイトは退散して観客席に戻ったようだった。
この控室は、舞台の上手方面の舞台袖と繋がっている。
小窓から様子を覗き込むと、直前のクラスの発表がもう終わりそうだった。
俺たちは急いで小道具の最終チェックを始める。
頭の中で必死に、台詞や舞台上での動きをシュミレーションする。
この期に及んでじたばたしても仕方がない。
極度の緊張は後退し、今やかつてないほど思考はクリアに冴え渡っていた。
目の前の一秒一秒に全神経を集合させながら、俺たちは出番を待った。
直前のクラスの演目が終わったことを、アナウンスが告げる。
照明、音響、アナウンス、役者たちと副担任の女教師が加わり、誰が提案するまでもなく自然と円陣を組む。
そうやって、劇が成功するように、今までの努力が報われるように祈る。
そして、舞台の幕が開けた。
俺は必死にロミオを演じながら、心の隅で考えていた。
ある疑惑が脳裏に巣食って、消えなかった。
もう一度ステージの上で会えるという、日聖の発言。
なぜ彼女は、あるオペラ作品のアリアの一節を唱えたのか。
同時に彼女の言動を振り返ってみれば、そこはかとない違和感が紛れ込んでいたことに気づく。
その筆頭は、やはり俺が自決する直前、まるで奇跡のようなタイミングで俺を救ったことだろう。
なまじ俺は、この世界で様々な奇跡を目の当たりにしたことで、その光に眩惑されていたのだ。
あの時、日聖はたまたま運が良かったと言い訳していたが、そんな都合の良い話がそうそう転がっているわけがない。
今まで気にも留めなかった疑問が、水を吸ったスポンジみたいに何倍にも膨らんで思考のリソースを占めた。
目の前でジュリエットを演じ、俺と台詞を交わす女の子は何者なのか。
それを知った先に、俺はどうなってしまうのか。
漠然とした不安と恐怖が侵食していく。
しかし、今はそれどころではない。
俺は他の感情を振り払い、与えられた役目を全うすることに改めて集中する。
どのように呼吸をし、どのタイミングで台詞を放てばいいのか。
舞台の上でどう空間を把握し、どう動くのが最善なのか。
観客を魅せるためには、どのように立ち振舞うべきなのか。
とちらないために、仮にそうなった時、何を意識すればいいのか。
そして何より、小さな一つの世界で何者かを演じることの高揚感。
演技とはすなわち、己が存在を懸けた祈りであること。
全て、日聖が教えてくれたことだった。
俺が台本を書いた『ロミオとジュリエット』は、結末部分が原作のそれと異なる。
原作のロミオとジュリエットは二人揃って、救いようがない勘違いによって悲劇の死を遂げる。
しかし、この劇は違う。
ロミオが薬屋から渡された毒薬は、実際は偽物でただの睡眠薬に過ぎなかった。
仮死状態になったジュリエットを見て、彼は勘違いからその毒薬を飲んで自殺を図る。
だが、彼は死ねなかった。
倒れているロミオの姿を見て、ジュリエットは自殺を遂げる。
恋人は死に、彼だけが助かってしまう。
原作通りに両家は賢明にも和解し、ロミオはジュリエットのいない世界で一人生き続けることになる。
それが俺の書いた台本における、二人の恋の顛末だ。
俺がいなくなった世界。
その後を生きる彼らのことを思い、報いるために書いたものだ。
だから、この劇には原作にはなかった、俺が個人として託した祈りが込められている。
あっという間に、霊廟で二人が息絶えるクライマックスのシーンを迎える。
音響もなく、台詞もない。
完全な無音が満ちる。
学園祭の喧騒から取り残され、この空間だけが異界にでも飛ばされたかのようだった。
海の底のような静寂が湛える中、俺たちは身振りだけで悲劇を表現する。
ジュリエットが短剣で自らの腹を突き刺す。
二人が共に倒れ伏せる中で、俺だけがゆっくりと起き上がる。
観客席の方向から、若干の困惑の声が漏れるのが分かった。
全てを悟った振りをしながら、嘆きの表情を張りつかせて震える手で彼女の身体を抱き寄せる。
ゆっくりと緞帳が下がりながら照明が完全に落とされ、アナウンスがその後の顛末を淡々と読み上げる。
幕が完全に閉じ切り、照明が灯されると同時に拍手の音が鳴り響く。
俺たちの発表は、こうして終わりを告げた。
薄暗いステージの上に、俺と日聖の二人だけが取り残される。
ぼんやりした達成感に覆われて白濁した意識の中で、いつもとは違う、どこか頼りなく目を細める日聖の姿だけが視界に映った。




