秋の断章⑦-2
教室で先に着替えを終え、日聖が着替え終わるのを扉の前で待っていた。
衣装合わせの時にちらっと見たことがあるが、彼女の衣装は随分と手が込んでいた。
ワイシャツに黒いベストを合わせ、ボトムにスラックスを履いて最低限に中世貴族らしく見せた俺の衣装とはまるで違う。
衣装担当のクラスメイトの力を借りて、大分時間と手間をかけて着替えている様子だった。
学校の廊下は、いつになく喧騒に支配されていた。
学生たちが慌ただしく行き来し、老若男女の様々な顔ぶれが若者の園を我が物顔で自由に闊歩していた。
こんな浮ついた格好で、廊下の矢面に放置されるのは拷問に等しい。
クラスメイトや他の生徒の野次、客の物珍しそうな視線に絶えず晒され、心底辟易したのは言うまでもない。
十五分ほどで、教室の扉が開いた。
中から衣装担当の女子に引き連れられて、ゆっくりと日聖が姿を現した。
その姿を見て、俺は思わずため息を吐く。
胸元とスカートがフリルに覆われた、真っ白なドレスを彼女は身につけていた。
ドレスはコルセット型になっていて、彼女の発達した豊かな胸と細やかなウエストの緩急を魅力的に強調させることに成功させていた。
腰から裾より長いシースルーのレース生地が伸びていて、すらっとした足の長さと清涼感を演出している。
丹念にメイクを施しているらしく、ただでさえ目を引く容姿はさらに艶やかに、魅惑的に映った。
しかし、一番目を引く変化は髪型だった。
ウィッグを被っていて、いつものショートの黒髪は、腰まで伸びるほどの長髪になっていた。
左の髪にはこれ見よがしに丁度燎火のものと対照的なデザインの、純白に輝く椿の髪飾りが輝いていた。
周りにいた男子たちが見惚れるのを打ち止めて、口々に日聖の艶姿を囃し立てる。
いつの間にか側にいた新田がどこか忌々しそうな顔で、「頑張れよ」と言いながら肩を小突いてきた。
そのまま去っていったが、彼の言い方には言外に秘めた棘があった。
日聖は俺がいることに気づくと、真っ直ぐにこちらに向かってきた。
「永輔くん、どう?」
そう尋ねると、彼女は口元を吊り上げてその場でゆっくりと一回転した。
その動きの軌跡に合わせて、いつもとは違う長い髪が嫋やかに宙を舞った。
「ああ、とても似合ってる。綺麗だ」
俺は頬を熱くしながら、彼女の着飾った姿を褒めた。
取り繕った文句より、見た瞬間に抱いたシンプルな感想をそのまま伝えた方が良いと思った。
彼女は「永輔くんも、その衣装似合ってるよ」と笑って、俺の手を一瞬握って自分の方へと引き寄せた。
「さあ、そろそろ時間だよ。行こっか」
俺たちは二人並んで、体育館まで向かった。
奇異の目で眺めてくる通行人も気にはならなかった。
体育館脇の控室で、自分たちの出番を今か今かと待ちわびる。
ステージの上では次々と同級生たちの演目が上演され、舞台裏からでも分かるぐらい活気に満ちていた。
今までほとんど協力してこなかったクラスメイトたちも、今日だけはまるで部活の引退試合を前にしたような真剣な顔で、応援の言葉を投げかけてくれた。
いつもは話さないような生徒も、さも親友面をして気安く声をかけてきた。
当の俺は、やはり緊張していた。
これほどの激しい動機と手足の震えに襲われるのは初めてだった。
クラスメイトたちの声援もまるで上の空で聞いていて、ろくに気の利いた文句を返せなかった。
「永輔くん、緊張しているの?」
隣にいた日聖が顔を寄せ、そっと俺の胸に手を伸ばしながら訊いてきた。
「そりゃあな。こんなのは、生まれて初めてだからな」
滑稽なほど緊張している俺をよそに、日聖は当然のように平然とした顔をしていた。
「そういう日聖は、全然平気そうだな。やっぱり経験してきた場数が違う」
しかし、彼女は目を閉じてゆっくりと首を振った。
「そんなわけないでしょ。私だって緊張してるよ。そこに観客がいる限り、舞台に小さいも大きいもないんだから」
「流石だ」
俺は笑った。
「とても、そうは見えないけどな」
物は試しということで、人という文字を手のひらに書いて呑み込む振りをしてみた。
緊張の解決法として知られているやり方だが、案の定何の効果もありそうになかった。
相変わらず、俺の胸はロックバンドの演奏みたいに早鐘を打ち続けている。
「そんなに緊張しているなら、私に提案がある」
おもむろに人差し指を俺の唇に当て、他のクラスメイトたちに聞こえないような小さな声で日聖は俺の耳元で囁いた。
「こっそり抜け出して、外の空気を吸いに行こ」
俺は深く考えることをせず、ほんの一瞬だったらいいかと思って賛成した。
もし遅れたら大変だとか、そんな理性的な判断ができる状態ではなかった。
近くにいたクラスメイトが目を離している隙に、二人で部屋を抜け出した。
そして、俺はすたすたと歩く彼女の背中に着いて行った。
てっきり玄関の前辺りで立ち止まると思いきや、彼女は頓着せずにそのまま進んでいった。
この衣装で外に出ることに恥じらいはあったが、息を呑んで後を追った。
玄関前は人でごった返している。
その脇を通り過ぎて学校の裏の方まで進んでいくと、次第に人影はまばらになっていった。
日聖がようやく立ち止まった場所は、プール隣の事務倉庫の裏手だった。
遠い過去、俺が彼女に別れを切り出した場所。
決して忘れられない、忌々しい記憶が自然と甦る。
不自然なぐらい、周辺には誰の姿も見当たらなかった。
遠くから活気に満ちた喧騒が聞こえてきて、余計に辺り一体の寂寥感を強調していた。
日聖は突然振り返り、猫を思わせる緩慢な動きで距離を詰めて俺の唇を奪った。
数秒ほどそうしていたが、昨日の燎火とのやり取りを思い出したら自制心が働いた。
このままの関係ではいられないと切に思った。
急に日聖の身体を押しのけて、半ば無理矢理に彼女を引き離した。
少しよろめいて、日聖は倉庫の壁に勢いよく背中をつけた。
すぐに我に帰って、急いで「ごめん」と謝ってその手を取った。
「……緊張、解けた?」
彼女はにやりと口角を上げて、こともなさげに尋ねてきた。
「ああ、すっかり解れた。まったく、つくづくお前は悪い女だな」
「その通り。私はとっても悪い女なの」
因縁の場所でこんなやり取りを交わすことになるなんて、にわかには信じられない話だった。
日聖は上目遣いで両手を髪に伸ばし、ウィッグがずれてないかを確認していた。
どうやら、本当に何も気にしていないらしい。
「でも、俺は日聖のそんなところが好きだった」
「それは、昔の話?」
唇を手で拭いて口紅を落としながらぽつりと言うと、彼女は眉を寄せて微妙な顔を覗き込ませてきた。
ずっと彼女に言いたかった言葉を、今度こそ伝えようと思った。
もう、こういうのは止めにしよう。
俺にはもう、お前の他に好きな女の子がいるのだから。
そうしなければ、燎火に好意を向けられる資格など俺にはない。
本当は劇を成功させてからにしようと決心していたが、今がそのタイミングだと思った。
だが、その前に日聖が口を開いた。
「ねえ、永輔くん」
躊躇したのかほんの一瞬俯いて、再び彼女は顔を上げた。
「Addio, del passato!」
歓喜に満ちた恍惚な表情を顔に張りつかせ、日聖は芝居がかった口調で周囲一帯に響くように叫んだ。
耳慣れないフレーズ。
それがフランス語であり、とあるアリアの題名であることにしばらく経って気づいた。
「ステージの上でもう一度会えるよね、永輔くん」




