秋の断章⑥-4
文化祭の前日。
俺はいつものように、燎火の見舞いへと赴いた。
今日の見舞いは、俺一人だけだった。
病的に清潔な空間に足を踏みしめると、いつも記憶が勝手に溢れてくる。
性懲りもなく思い出す。
今よりずっと未来で、過去に出会った彼女のことを。
俺が病室の扉を開けると、燎火は決まって窓の外を眺めていた。
「燎火」と名前を呼んで、俺は彼女を気づかせる。
横髪を撫でつけながら、「永輔、来てくれたんだ」とこちらを向いて、燎火は喜色を露わにした。
その髪には欠かさずに、トレードマークである赤椿の髪飾りが刺さっていた。
その様子を見て、俺は心から安堵してため息を吐く。
あの頃から何もかも状況は変わってしまったが、よく目を凝らしてみればそこにある本質は何も変わらないように思えた。
彼女の見舞いに行く度、俺はいつも授業が進んだ分だけ燎火に勉強を教えていた。
授業の内容を写したノートを広げて、教師の説明を参考にしながら自分の言葉で再構築して、訥々と解説を進めた。
それはどこまでも、かつて交わされた大学の授業ごっこの再演に他ならなかった。
ああ、認めよう。
こんな行為には、きっと意味はない。
それでもいつか、奇跡的に病が治った時に彼女が困らないよう、俺は二人でいられる時間の大半を捧げて彼女に勉強を教えた。燎火の方も嫌な顔を一つもせず、真剣な顔で俺の話を聞いてくれた。
しかし、その日は勝手が違った。
この日のために、立ち稽古の様子を収めたビデオカメラを貸してもらっていた。
一緒に見ないかと申し出ると、彼女は嬉しそうに「見たい」と言ってくれた。
未来ではスマートフォンに取って代わり、大型のビデオカメラなどすっかり見なくなった。
それを床頭台の上に乗せて、再生ボタンを押す。
小さいモニターで見づらいが、手振れも少なく映像自体は綺麗だった。
自分の演じている姿を映し出されるのは、何回見ても慣れないものだ。
俺はなるべく日聖の姿だけを追って、自分をなるべく視認しないように努めた。
「ああ、何だか吐き気がしてきた」
作中で最もよく知られている、バルコニーのシーン。
気取った台詞と口調で愛を謳う自分の姿と声には、いつも羞恥で身悶えしてしまう。
燎火はくすくすと笑いながら、「そんなことない。永輔、格好いいよ」と言ってくれた。
それ自体は嬉しかったが、だからといって小恥ずかしさが消えるわけではない。
「それにしても日聖さん、綺麗だね」
映像から目を離さずに、燎火はしみじみと言った。
「本当にな」
俺は短い肯定を返した。
劇とは言っても、二十分ほどの尺しかない継ぎ接ぎだらけの代物だ。
あっという間に物語のクライマックスがやって来る。
最後の山場を迎える直前で、俺はすかさず機械の停止ボタンを押した。
「え、なんで止めちゃうの?」
燎火は残念そうな、あるいは不思議そうな表現を浮かべて詰め寄ってきた。
「最後のシーンは、本番の方を見て欲しいんだ。もう康太には、必ず全部撮って永久にデータを残してやるって宣言されている。だから、それを見ればいい」
いかにも不承不承といった顔だったが、燎火は「そういうことなら」と首を振って納得してくれた。
自分の子どもを見守る父親になった気分で、俺は今一度彼女のいじけたような顔を眺めた。
「せっかくの晴れ舞台だからさ、やっぱり全部観るなら完璧な本番の方がいいだろ?」
彼女を驚かせるために、今日まで書き上げた台本も見せていなかった。
「そうだね。楽しみにしておく」
気分を完全に切り替えたのか、燎火は屈託なく微笑んだ。
いつものように俺たちは勉強を始めた。
彼女に自分の板書したノートを見せ、重要な部分だけ写させながら、適宜解説を加えていく。
全部の教科をやるのは大変なので、彼女が得意としている文系科目は要点をまとめた印刷だけ渡して、理系科目だけ重点的に復習させていた。
たまに話が脱線して、くだらない会話に発展することもあった。
しかし、今日は授業を進めていて、どこか違和感があった。
今日の彼女はいつになく、落ち着きがないように見えた。
しきりに辺りを見回して、こちらの話に集中していない場面が多々見受けられた。
「ねえ、永輔」そんなことを思っていたら、不意に燎火が俺の名前を呼んだ。
目を向けると、彼女はノートの端に何かを書いた。
少しだけ開けられた窓から風が忍び込み、カーテンを翻した。
鮮やかな西日が差し込み、強い光が彼女の横顔とノートを照らし出した。
何も書かれていない、真っ白なページ。
そこにはいつか見た端正な文字で、ただ「好き」という言葉が書かれていた。
頭が混乱する。
その言葉が指し示す意味を、何度も何度も吟味する。
引き伸ばされた時間の中で、最初に口を開いたのは俺の方だった。
「そういうことは、直接言って欲しかったな」
「それは駄目なの。あくまでこれは書かれた言葉だから。必ずしも、私からの気持ちじゃないから」
その言い訳に、思わず俺は笑ってしまう。よく分からない理屈だ。
どこまでいっても、彼女は捻くれている。
「でも、ありがとう。死ぬほど嬉しいよ」
燃えるような夕焼けを反射したルビー色の瞳をしっかりと見据える。
「俺も君のことが大好きだった。ずっと、君に恋をしていた」
幼い子どものように屈託なくはにかんで、燎火は当然のように「うん、知ってる」と答えた。
彼女の持っているシャーペンを奪って、ノートに書かれた告白の隣に「燎火が好きだ」と書き込んで丸で囲む。
俺たちは顔を見合わせる。
無性にそれが愉快に感じられて、心のままに笑い合った。
「それとね、永輔に言わないといけないことがあるの」
言いにくいことを切り出すかのように、ほんの一瞬、燎火が目を伏せるのが分かった。
彼女がこれから何を告白するか、俺はすぐに悟った。
「今まで言えなかったけど、今度から個室に移されることになったの。思ったより病状が悪くて、会える機会も少なくなってしまうかもしれない」
そして最後に、「もう半年も持たないかもしれないって、お医者さんが言ってた」とつけ加えた。
至って冷静に、俺はその言葉を聞き届けた。
取り乱すことなく、ゆっくりと時間をかけて、彼女の余命宣告を咀嚼した。
「それでも、俺は見舞いに行くよ。毎週、毎日でも、君に会いに来る」
遠い未来で果たせなかった約束を、今度こそ果たしてみせよう。
この世界で君は変わり、俺だって変わった。
だからきっと大丈夫だ。
それだけを思って、安心させるように彼女に微笑みかけた。
先に泣き出したのは燎火の方だった。
あともう少し彼女が我慢強かったら、最初は俺の方だったかもしれない。
一度涙腺が緩めば、もう止まることを知らない。
ベッドのシーツに顔を埋めて、彼女はひたすら泣きじゃくった。
「ねえ、永輔。私、生まれてから、今が一番幸せだよ。永輔のおかげで、私なんかでも幸せに生きることができた」
「ひどいことしてごめん」
「何も返せなくてごめん」
「あなたの気持ちに答えられなくてごめん」
燎火はそんな取るに足らない謝罪を、途切れ途切れに紡ぎ続けた。
顔をぼろぼろにさせながら、なおも謝り続ける彼女の唇を、俺はそっと自分のそれで塞いだ。
「もういいさ。だって俺は……」
ただ、君が隣にいてくれるだけで幸せだった。
それだけで良かったんだ。
心の中で語りかける。
奇しくもこんな時間を与えてくれた誰かに、「ありがとう」と感謝を告げた。
彼女の身体をゆっくりと抱き締め、俺たちは互いの温度を確かめ合った。
今はそれで十分だった。
それだけで全てが満たされる。
許される。
そんな気がした。




