秋の断章⑥-3
俺たちはいつものように貯水タンク正面のフェンスの根元を背にし、隣り合って座っていた。
一つのノートを黒板代わりにして、先ほど行った通し稽古の反省点を挙げていく。
ここの台詞はロミオらしい軽率さを込めた方がいいとか、この場面の台詞はもっと間を取った方がいいだとか、もっと舞台の空間全体を使ってダイナミックに動いた方が見栄えがいいとか、そんな意見を書き足していく。
その隣で、副担任に撮ってもらった映像をカメラのモニターで流していた。
映し出される自分の滑稽な姿を眺めていると、やはり羞恥で全身を炙られている気分に襲われる。
そんな中、俺はふと気になったことを尋ねてみた。
「なあ、日聖。不思議なんだけどさ、なんで人は演技を恥ずかしいと思うんだろうな」
自販機で買ってきたパックの牛乳を一口啜ってから、日聖はまず「真面目に考えてよ」とぴしゃりと言った。
そういえば関係が変わったあの日から、彼女は他人がいる空間であっても俺の前で敬語を使わなくなった。
例えクラスメイトの前であっても、頓着せずに気安い口調で話しかけてきた。
変な噂が立つことを、彼女はまったく気にしなくなった。
そのおかげで、他の生徒からお前には不相応だろと睨まれる機会が増えた気がする。
まだ取り立ててトラブルは起きていないが、その度に身がすくむ思いだった。
「でも確かにそうだね。言われてみれば、そんなこと考えたこともなかった」
そう言って、日聖は手に持っていたペンを口元に当てて、思案を始めた様子だった。
彼女のような物心ついた時から舞台に立ってきた人間には、きっとそんなことを感じたり考えたりする余裕もなかったのだろう。
しかし、二十を超えて初めて役者を経験する俺のような人間にとって、それは切実な問題だった。
「人は多かれ少なかれ、日常の場でも何かを演じながら生きている。それは無自覚で、およさ恥ずかしさの欠片もない。社会に適合するには欠かすことのできない能力で、精神の防衛機制だ。なのに実際、舞台に立って役を演じていると、途端に恥ずかしくて堪らなくなってくるんだからおかしな話だ」
その懸隔は俺自身、身を以てしみじみと味わったことだった。
春からずっと中学生を演じて生活をしているが、いかにそれが特殊な例であってもそれは所詮日常レベルの演技だ。
実際に舞台に立って役を演じるのとでは、やはり何もかもが違って感じられる。
「……そうだね。日常の演技と舞台の演技。その二つは、確かに似て非なるもの。じゃあ永輔くん、そもそも恥ずかしさって何だと思う? 電車の中でイヤホンの音漏れを知らない人に指摘された時。街中でズボンのチャックが閉まっていないことに気づいた時。そんな時に、なんで人は恥ずかしいと感じるの?」
「それはきっと、周囲の秩序を散らかしてしまうからだ。世界の文脈から一人だけ自分が外れてしまった時に、人は恥ずかしさを感じる」
「その通り。恥ずかしさは極めて公共的な感情なの。人は羞恥を感じる時、今すぐこの場から消えてしまいたいとか、こんなのは自分ではないとか、そんなことを考える。極めて分裂的な衝動を抱えてしまう」
そこまで日聖の話を聞いて、俺はその先の理屈まで行き着く。
一人で納得して、しきりに首を縦に振った。
「演技の恥ずかしさとはつまり、模倣の対象と自我の板挟みによって生じる負の感情……、というわけだな」
「だから演劇の初心者は、恥ずかしいという感情を抱えやすい。それは演じるという行為の内面で生まれる摩擦熱のようなものなんだろうね」
その理屈は、俺の胸にすとんと落ちた。
数秒でその回答を用意するとは、流石に役者としての年季が違う。
「そう思えば、役者っていうのはまともな人の生き方から逸脱した存在なんだろうね。主体である自分の他に、常に別の主体と共存しながら生活しているんだから。役者にとって、どこまでいってもこの世界は舞台でしかない。永遠の相のもとに生きることを定められた、そういう存在なの」
過去に彼女は、シェイクスピアの言葉を借りて、同じようなことを言っていた。
まだ俺にはその言葉の深い意味を掴めてはいない。
演技という方法を知って数ヶ月しか経っていないのだ。
そんな人間に、そこまでの境地を知識ではなく感覚で推し量るのは無理な相談だった。
だが心の奥底で、微かに思っていた。
俺もいつか、彼女と同じ景色を見てみたい。
そんな不遜な願いを、自分でも気づかないうちに抱いてしまっていたのだ。
「じゃあさ、日聖は何で役者をやっているんだ?」
思えばこれだけつき合いがあって、それを俺は一度も訊いたことがなかった。
日聖は先ほどの質問よりも、大分時間を要して返答を考えていた。
ようやく口から出た言葉は、逆にこちらへの質問だった。
「永輔くん。文化祭の劇が始まって、ロミオを演じるのは楽しい?」
そんなことを気にしたことは、これまでまったくなかったような気がする。
短い期間で劇を仕上げないといけない重圧や、日聖の演技に齧りついていかなければという強迫観念。
いずれ訪れる燎火の死や拗れた日聖との関係で、ここ最近は常に頭がぐちゃぐちゃになっていた。
「分からない。俺には何もかもが初めて尽くしで、そんな心の余裕はなかった。でも日聖と一緒に舞台に立って、台詞をかけ合ったりするのは、何というか気分がいい。そんな感じは確かにする」
「それはきっと、楽しいってことだよ」と日聖はくすくす笑って言い、どこか遠い目で空を仰ぎながら、「永輔くん、ありがとう」と脈絡のない感謝を口にした。
「私はずっと、逃げるために演じてきたような気がする。誰かを演じている間は、自分のことを考えないで済むから。ステージの上にいる間だけは、現実を忘れることができた。そもそも私が舞台に立ったのは、自分の意志ではなくて、親の意志だった。最初から、私には演じることに思いれなんてなかったの。それでも昔は、純粋に演じるのが楽しいと思っていた時もあった。……だけど、いつの間にか目的がすり替わってしまった」
日聖は俯き加減で、訥々と語った。
俺は意外に思って、今にも崩れそうな頼りない表情を浮かべる彼女を覗き込んだ。
その緊張をほぐそうと、珍しく俺から彼女に笑いかけた。
「目的がどうであれ、心の中で何を思っていたって関係ないさ。俺は日聖の演技が、昔からずっと好きだったよ。もう何年も、舞台に立っているお前に憧れてきた。だからさ、お前の演技に感動して、人生を変えられた。そんな奴もいるんだってことを、どうか忘れないで欲しい」
「あ」と口にする間もなく日聖の顔が近づいてきて、両方の額がこつんと当たった。
彼女の息遣いを零距離で感じて、俺の心拍数はにわかに高まる。
一瞬だった。
数十メートル先にいる生徒たちに見られたらまずいなと思った刹那、不意に唇同士が触れ合い、そのまま粘膜が絡み合った。
ほんの昨日、彼女の部屋で交わした行為が否応なくフラッシュバックする。
身体の芯が熱を帯びて、全身の肌が粟立ってきた。
ゆっくりと唇が離れる。
そのまま至近距離で、日聖は不敵な笑みを浮かべながら嘯いた。
「……ねえ、誰かに見られるんじゃないかと思って、恥ずかしかった?」
「あんまり、無茶するなよ。少し大胆が過ぎるぞ」
彼女は突然背を向けて、意に介した様子もなく手のひらをひらひらと振った。
そして数歩だけ前に踏み出すと、背中を向けたまま口を開いた。
「でもね、永輔くんのおかげで分かったの。演じることの意義。それは祈りに他ならないって」
ぼやけた頭で、彼女の台詞の意味を考える。
そういえば、あの夏祭りの日に祈りと願いについて語った時、彼女は妙に腑に落ちたような反応を見せていた。
俺の言葉が彼女に影響を与えたという事実。
何か一つでも彼女の役に立てたことが、素直に嬉しかった。
「そもそも演劇の始まりは、例外なく神への祈りだった。神、そして世界への賛美を歌と身振りで表したのが劇だったの。それはギリシアだろうが、日本だろうが変わらない」
「それは何も演劇だけじゃない。古代において、およそ藝術と呼ばれるものは、全て神への捧げ物だった」
日聖は「そうだね」と頷いて、不意に「Fair is foul, and foul is fair」と、流暢な英語を口にした。
「綺麗は汚い、汚いは綺麗」俺は咄嗟に、よく知られたその言葉の訳を答える。シェイクスピアの四大悲劇である『マクベス』の冒頭で、主人公マクベスを唆す魔女の一人が発する台詞だった。
「その言葉通り、美しさと醜さは同じもの。醜さを知らぬ者は、決して美しさを感得できない。醜さの中にはしかし、史上の美しさが宿りうる。祝福は呪いで、呪いは祝福。悲劇は喜劇で、喜劇はきっと悲劇。永輔くんの言葉で、私はそれを理解した。私たちは舞台を通して、演じながらいつも祈っている。……かくあれかし。自分じゃない誰かを演じ、台詞を紡ぎ、物語を紡ぎながら、ままならないこの乾いた世界が、少しでも輝いて見えますようにって」
落ちゆく夕日に照らされながら、日聖はゆっくりとこちらに振り向いて手を合わせた。
その姿には神々しさすら宿っていて、俺は何も言えずに彼女の姿をただ眺めていた。
「それが藝術であり、演劇であり、役者という生き物なんだろうね」
そんなことを最後に言って、日聖は誤魔化すように愛想笑いを浮かべた。
「随分と小難しい話だな。頭の悪い俺には難しくて、よく分からなかった」
釣られて、俺はおどけて言った。
「全部、永輔くんが言ったことだよ」
日聖はむくれて、子どものように頬を膨らませた。
そして、示し合わせたように俺たちは笑い合った。
「藝術作品とは……、永遠の相のもとに見られた対象である。そして善き生とは永遠の相のもとに見られた世界である。ここに藝術と倫理の繋がりがある」
彼女の話を聞いて、ふと思い出した言葉を口にする。
日聖は神妙に頷いた。
「その言葉の意味が、今なら少し分かる」
「きっと、この世界は大きな舞台で、舞台は小さな世界なの。どんな小さな舞台にも端的な現実は宿り、どんな奇跡も実際的に生気しうる。強い現実と弱い現実が拮抗する、場のようなもの。だから舞台という空間では、強い意味での現実がそのまま露出しうる」
「だからこそ演じることは、より密接に祈りと直結している。……そうだ、きっとどんな日常的で些細な演技にだって、そこには善く生きよという祈りが込められている。どんなに拙い日の目を見ない作品にだって、そこに祈りが込められているように。永遠の相のもとに人生を一つの藝術として、舞台として眺めることにはきっと意味がある。どんなに惨めで穢れた人生であっても、そこには一抹の美しさが宿りうる」
俺はふっと笑って、「俺はさ、それをお前たちに教えられたよ」と真っさらな感謝を彼女に手向けた。
俺の身体にそっと腕を回して抱きしめながら、日聖は微笑んで「うん、私も永輔くんに救われたよ」と囁いた。
俺たちは親愛を確かめるように顔を寄せ合っていたが、そのうちに日聖が少し顔を赤らめて、打って変わってしどろもどろに耳打ちしてきた。
「それと、もし勘違いしてたら嫌だから訂正しておくね。私だって、一応恥ずかしいと思っているんだからね? 相手が永輔くんだからそうするんだよ」
それはおそらく、先ほどのキスを始めとした行為を指しているのだろう。
恥じらいのない大胆な女の子と捉えられるのを、今さら恥ずかしいと思ったのかもしれない。
唐突に日聖は、そんな言い訳を口にした。
幼気な乙女のような一面を見せる彼女が面白くて、つい意地の悪さを湧き上がらせてしまう。
「意外だな。色々と手慣れているものとばかり思っていたけど」
「まさか、そんなわけないじゃない」
軽い冗談のつもりだったが、存外日聖は機嫌を悪くしたようだった。
俺の額を弾くように指で叩くと、いじけたように腕を組んで顔を背けた。
俺はその様を眺めて、珍しい彼女の姿に笑いを漏らした。
荒い手つきで目の前のノートとカメラを回収してから、日聖は再び俺の方に顔を向けた。
「でもね、これだけは忘れないで。私は君のためだったら、何だってできる。それと同じくらい、君が振り向いてくれるんだったら、何だってする」
存外、振り返った彼女の顔は真剣そのものだった。
俺の頬に指を伸ばして触れながら、途切れがちにそんなことを言った。
その頬から、ふと一筋の涙が溢れる。
「だから」とその先を紡ごうとしながら、日聖の口からはただ声にならない嗚咽のみが漏れた。
「今日はもう時間が経っちゃったから、そのまま帰ろっか」
何もなかったかのように、日聖はいつもと変わらない微笑みを向けた。
そんな彼女に、俺は何も言葉を返すことができなかった。
フェンスに身を乗り出して、グラウンドの真ん中に屹立している時計台の時刻を確認する。
すでに十八時を回っていた。
すっかり秋も深まり、夕日が沈めば制服だけでは風邪を引くほど気温が下がる。
素直に頷いて、脇に置いていたコートを羽織ってから鞄を取った。
「劇、絶対成功させようね」
そう言って、日聖が俺に向かって手を伸ばした。
「ああ、絶対にな」俺はその手を取って、威勢良く答える。
憂愁を誘う秋の風が、俺たちの間を吹き抜ける。
絶対なんて言葉、福島永輔はまず軽々しく口にする性分ではなかったはずだ。
それでも今だけは、思春期らしい向こう見ずも手放しで肯定できた。
いつだって万能感というのは、年端もいかない学生の特権なのだろう。
何を言うでもなく日聖が手を伸ばし、俺はその温もりを黙って受け取る。
地面に転がっていたコンクリート片を勢い良く蹴り上げた。
それはフェンスを通り抜けていき、紺色に支配されつつある空のどこかへ消えていった。




