幕間1-⑦
その日は三月の初旬だというのに、稀に見る大雪に見舞われた。
まさに十年前の再来のような天候だった。
ニュース番組やSNSは、その話題で持ち切りだった。
年間を通してほとんど雪が降らないこの土地にも、前後不覚になるほどの吹雪が吹き荒れていた。
いつも乗っている市営のバスはなんとか運行していた。
だが何度か路上で膠着状態に陥り、三十分ほど遅れてやっと目的地まで到着した。
「あら、福島さん」
病院の廊下で、誰かに声をかけられた。
顔を向けると何かとお世話になっている、千賀燎火の担当をしている田所という看護師さんだった。
レクリエーションルームの確保も彼女の好意の賜物だった。
俺にとっては頭の上がらない恩人だ。
「ああ、どうも。いつもお世話になっております」
「もしかして、燎火さんのお見舞いに?」
黙って首肯する。
彼女は目を見開いた。
「彼女からは、聞いていないの?」
「ええ。ただお見舞いに来てほしいと、そう言われただけです」
一瞬だけ、彼女は気の毒だというニュアンスの表情を浮かべた。
が、すぐに千賀燎火の病室が変わった旨を教えてくれた。
その病室の前には、しっかりと名札に「千賀燎火」の名前があった。
扉を開けると、病室には彼女しかいなかった。
久しぶりに目にした燎火さんは、いつか目の母と比べても、大分痩せこけて頼りない印象を受けたた。
外では雪が暴力的に降り続いていたが、彼女はいつものように窓の奥を眺めていた。
そういえば彼女に会いに行く時は、大抵よく乾燥した晴れの日だったことに今さら気がつく。
いつものように髪を撫でつけながら、彼女がこちらへ振り向く。
普段のように椿の髪飾りも身につけておらず、その顔は微笑みを湛えていなかった。
窓の外からは吹雪が荒ぶ、ごうごうという音が時々聞こえてくる。
暖房が効いて適温が保たれているはずなのに、漆器のようなひんやりとした冷たい空気が部屋を満たしていた。
「お久しぶりです、永輔さん。もう会えないかと思ってました」
その声は震えていた。
「久しぶりです」と、俺は掠れた声で返した。
「メール、返信をくれてありがとうございました。たくさん送ってしまって、しつこくなかったですか?」
今日の彼女は、明らかにどこか浮き足立っているように見えた。
うまく言葉がまとまらず、口からひゅうと空気だけが漏れ出た。
「わざわざ来ていただいて、ありがとうございました。最後に、あなたにもう一度会いたかったんです」
「それはどういう意味ですか?」
「ええ、もうすぐ死んじゃうみたいなんです、私」
永遠にも等しい認識の空隙。
何気ない世間話を切り出すように、彼女はそう言った。
「想定より病状が悪化してしまってようで、もうこれ以上は良くなる見込みは薄いって、主治医の先生に言われました。余命は長くて、あと一ヶ月ってところらしいです」
思ったよりも冷静に、俺は彼女の告白を聞いていたように思う。
彼女の死に対する悲しみとか憤りよりも、「ああ、またか」とか「やっぱりな」という淡白な絶望が先行した。
「この前、この個室に移されたんです。症状がこれ以上深刻化したら、もう永輔さんとは会えなくなる。だから最後にもう一度お会いして、ちゃんとお礼を言いたかったんです」
「そういえば、この前とは立場が逆転してるんですね」と上擦った声で言って、彼女は場違いな笑い声を漏した。
それはとても、一ヶ月後に死ぬ人間の態度には見えなかったし、見たくなかった。
だから俺は、縋りつくような声色で彼女に尋ねてしまった。
「嘘なんでしょう。……本当に、燎火さんは死んでしまうんですか?」
「ええ、本当です。紛れもない事実なんです。元々、二十歳まで生きてこれたことが奇跡のようなものだったんですから。これでも、とても頑張った方なんですよ」
そう言って、彼女は殊勝な笑顔を見せた。
全ては予定調和だったのだ。
こうなることは初めから決まっていた。
俺は性懲りもなく、神さまの操る見えない糸で操られていただけだった。
最初から俺は、哀れな道化に過ぎなかったのだ。
そんなことを考えたら、急に様々な感情が奔流となって押し寄せてきた。
押し黙ってひたすら俯きながら、乳白色をしたリノリウムの床を見つめ続けていた。
意識の中で、静かな絶望や怒りが混じり合って、次第にくすんだ灰色の混色を成していった。
それらが完全に混じり合って、やがて色と輪郭さえなくしてしまった。
最終的に残ったのは、そんな感情も含めて俺の独り相撲だった。
そんな、妙に達観した感想一つだけだった。
「永輔さん。今まであなたは、私に色々なことを教えてくれて、話してくれて、たくさんのお願いを聞いてくれた。とても感謝しても、しきれないんです。……でも最後にもう一つだけ、あなたに頼みがある」
「なんですか? あなたの頼みごとなら、俺は何だって叶えてあげたいといつも思っているんですよ」
俺の大胆な言葉に、小さく彼女は口元をふっと緩めた。
「ねえ、抱きしめて欲しいんです。思えば私、親にすら抱きしめられたことがなかったなって、気がついたらどうしても寂しくなっちゃって」
彼女は甘えるような声と上目遣いで言って、ベッドに横たわったまま抱擁を求めるように両手を差し出した。
ただでさえ小さな肢体がさらに華奢に見えて、耐えきれず俺は涙を流した。
その様はどこか、死の際に祈りを捧げる聖人のように見えた。
予想していなかった彼女の言葉に、俺はしきりに首を振りながら答えた。
「そんなこと、なんで俺に頼むんですか。俺とあなたは、数ヶ月前に初めて出会ったただの友人でしょう?」
いつの間にか、自分の声に嗚咽が混じっていた。
「それは違います」と、彼女は力強く否定した。
「私にとって永輔さんは、誰よりも特別な人だったんです。もう自分が死ぬと分かって、気づいたんですよ。永輔さんと一緒に過ごした時間が、私の短い人生で一番輝いていた。もう私には、あなたしかいない。ねえ、ちゃんと言葉にしないと分かりませんか?」
その言葉は俺が心の奥で一番聞きたかったもので、同時に一番聞きたくないものだった。
祝福であり、同時に呪いだった。
自分の指先が、差し出された彼女の手の先に微かに触れたのを感じた。
彼女は静かにその手を引き寄せて、優しく包み込んだ。
「……だから。どうか、これからも私のことを忘れないでくれませんか?」
それからの記憶はほとんどない。
ただ一つだけ。
彼女の手を勢い良く振り払った、生々しい感触だけは鮮明に覚えている。
それから俺は、よく分からない声を上げながら病室を出ていき、静寂に包まれた院内を嗚咽で満たしながらひたすら一人で駆けた。
その様は、さぞかし狂人じみて周囲に映っただろう。
だが不幸にも、俺はそのまま狂うことができなかった。
全てを覆い隠して、逃亡することは叶わなかったのだ。
ひどく手足がかじかむという感覚で、初めて自分が外にいることに気づいた。
吹雪の中、俺は傘も刺さずに病院に面する大通りを闇雲に走っていた。
立ち止まると頭が冷えて、役立たずの理性が顔を出してしまう。
千賀燎火の死を考えることが恐ろしくて堪らず、猛獣から逃げるように脇目も振らず走り続けた。
だから認識が追いついたのは、事件が起こるほんの数秒前のことだったと思う。
交差点の信号前。
車道に積もった雪のせいでスリップした大型トラックが、歩道側に押し寄せたのだ。
急な降雪だったので、タイヤを交換していなかったのかもしれない。
そのままトラックはスピードを殺し切ることができず、圧倒的な質量の暴力でガードレールを突き破ってきた。
天候が天候だったので、その場に歩行者が一人しかいなかったのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。
問題は、その被害者の一人が俺自身だったということだ。
幕引きはあっけなかった。
端的に言えば、福島永輔はトラックに轢かれて死んでしまった。
それが揺るぎない事実だ。
死という機械仕掛けの神によって、全ては呆気なく解決されてしまった。
全身が潰される刹那に頭をよぎったのは、束の間の幸福を彩ってくれた大切な人の顔ではなく、「お手本のように惨めな人生だったな」という後悔だけだった。
そのようにして俺は、一度目の人生を救いようのないバッドエンドで終えたのだ。