秋の断章③-4
秋の空模様は気が早い。
太陽が沈みかけて空が極彩色に染まる頃、俺たちは店を出た。
その間、二人で脚本を見合わせながら、細かいアイディアや改善案を話し合った。
オリジナリティについて根本的な妙案は出てこなかったが、以前よりもずっと劇のイメージが広がったのは言うまでもない。
市営のバスに乗り込み、劇が上演される文化会館のホールを目指す。
フリーター時代、この街に五年近く住んでいたというのに、その場所の周囲に近づくことはほとんどなかった。
無意識でそれを忌避していたのだろう。
過去の輝かしい思い出の聖地を、今の自分の澱みで汚したくなかったのだ。
かつて乗り慣れた市民バスは、十五分ほどで目的地に到着した。
その頃には、すっかり辺りは暗くなっていた。
建物の扉をくぐる頃合いで、燎火は自分のバッグから封筒を取り出し、中のチケットを一枚手渡してきた。
受付を抜けて、俺たちはホールの中に入る。
強烈な郷愁が湧き上がる。
かつてと何ら変わらない風景がそこには広がっていた。
今週の土日、二日間しか上演されないこともあってか、客足は上々の様子だった。
半券に記されていた席に、二人で並んで座る。
上演される劇について、あえて詳しくは調べては来なかったが、どうやら時代劇に伝奇を合わせたような作品らしい。
有名な劇団が過去に上演した脚本に手を加えたもの、という話を燎火から聞いた。
上演される作品の話をしながら、劇の開演を待つ。
程なくしてブザー音が鳴り、照明が落とされる。
真っ黒に染まった空間の中で、密やかな会話で満ちていた周囲がにわかに静まり返る。
俺たちも話を打ち止めて、真正面の巨大で派手な装飾が施された緞帳を見据えた。
十年前も同じ場所でこうして緊張しながら、幕が上がるのを待ち詫びていたことを思い出す。
再度ブザーが鳴り響き、開演のアナウンスが流れる。
観劇する側だというのに心臓が高鳴って、自然と大きく息を呑む。
緞帳がゆっくりと上がり、舞台の幕が上げる。
俺の意識は、その奥に呑み込まれる。
目の前で劇を観るのは、日聖と出会ったあの日以来だった。
久しぶりの観劇は、予想通りとても視線を惹きつけられ、心の底から興奮させられる代物だった。
舞台という剥き出しの小さな世界の上で、生身の人間が他の誰かを全身で演じている。
舞台背景、照明、音響がそれに共鳴して、彩りを添えていく。
気づけば、あっという間にカーテンコールを迎えていた。
俺は全身を巡る感動に突き動かされながら、何かが足りないことに気がつく。
よく内省してみればその違和感は、観劇の間ずっと心の奥で巣食っていたものだった。
その正体が何か、不意にひらめく。
十数年前にこの場所で、俺が本当に魅せられたのは何か?
それは他でもなく、舞台に立つ日聖愛海の姿だった。
畢竟、物語も、舞台セットも、演出も、他の演者も、俺にとってはどうでも良かったのかもしれない。
あの日、俺は彼女の輝きに目を焼かれてしまった。
日聖以外、何も見えていなかったのだ。
俺はそのことを悟って、密かにもう一度心を決める。
いずれ舞台に共に立ち、日聖に伝えなければいけない。
俺が見ているのは君ではなく、今隣にいる千賀燎火という名の少女なんだということを。
そして、こう言うのだ。
「ずっと俺なんかを見てくれて、ありがとう」、と。
「参考になった?」
帰りの電車の中で、燎火は眠そうに欠伸をしながら尋ねてきた。
「あんなに本格的な劇、とてもじゃないけど参考にはならなかったよ。でも、確実にモチベーションは上がった」
だから、ありがとう。
俺が答えると、彼女は「なら、良かった」と言って、ふわりと弛緩した笑みを向けた。
「燎火、疲れたのか?」
そう訊くと、燎火は上半身でを伸びをして、小さく頷いた。
舞台が閉演しホールを出ると、黒々とした闇が街を呑み込んでいた。
すっかり夜も深くなり、中学生が出歩くことが許される刻限が迫りつつある。
普段活発とは言えない彼女が疲労するのも、無理はないだろう。
「君から誘ってくれて、俺は嬉しかったよ。今日のことは、多分一生忘れない」
これから訪れる学園祭も、対価としての不幸も、彼女がすぐ近くにいるのなら乗り越えられる気がした。
悲劇で終わるとしても、きっとその結末を愛することができる。
そう確信した。
ふと肩に質量を感じた。
隣を見てみると、燎火は目を瞑りながら微動だにしなくなっていた。
俺に頭を寄せて、どうやらそのまま眠ってしまったらしい。
彼女の温もりと柔らかい感触を感じて、にわかにくすぐったい感覚に襲われる。
燎火がふと譫言のように、小さく何かを言った。
その口の動きから察するに、多分こう言ったのだろう。
私、今幸せだよ。
俺は「ああ、俺もだよ」と、深く眠りに就いている彼女に囁いた。
そして、ぶらんと垂れ下がった右の手のひらを、そっと自分の左手で握り締めた。
電車が目的地に着くまで、俺は起こすことはせずにその横顔を眺めていた。
こんな時間が、いつまでも経っても続いてくれたらいい。
そんなありきたりの願いをそっと、電車の窓から覗く呑み込まれそうな夜空に捧げた。




