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拝啓、廻る季節に君はいない。  作者: 日逢藍花
第三章 秋の断章 -Tragedy-

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秋の断章③-1

 次の週から、文化祭へ向けた練習が始まった。


 平凡な中学校の文化祭で、シェイクスピアの劇を最初から最後まで上演する。


 時間面でも能力面でも、そんな真似は初めから不可能だった。


 部活でもあるまいし、そもそも劇そのものを計画すること自体が無茶なのだ。


 日聖と話し合って、ある程度の方針を決めた。


 二十分ほどの尺でまとまったものにするために、登場人物をメインの二人に絞り、話の要所だけを切り取ったダイジェストを上演することになったのだ。


 演劇部が存在しないこの学校で、演劇に明るい人間など日聖の他にいない。


 せいぜい、宝塚のファンが女子に数人いるぐらいだ。


 舞台も、衣装も、小道具も、最小限のものでこなすしかなかった。


 演出をまともにこなせる人間もいないので、高校時代に演劇部所属だったという副担任の教師に依頼することになった。


 日聖が役者と全体の指揮とを兼任しながら、なんとか劇を作っていくことになった。


 このクラスが演劇を上演することになったのは、日聖愛海という逸材を持て囃したかった。


 ただそれだけの理由なのだ。


 彼らは作品のクオリティに頓着していないし、受験勉強を盾にして、大半の人間が裏方の仕事を手伝えれば手伝うといったスタンスだった。


 無茶苦茶だ。


 これが部外で起きている出来事だったら、中学生らしい軽率さだと笑って眺めていたかもしれない。


 しかし、その渦中にまさに自身がいるのだから、文句の一つや二つ言いたくなる。


 何より安易な好奇心で負担を強いられることになった、日聖の身の上が不憫でならなかった。



 練習は放課後に行われ、文化祭までの期間は特別に練習場所として屋上が開放されることになっている。

 

 日ごとにクラスをローテーションして、基本的に学園祭のステージ演目の練習はそこで行われる。


 練習時間はおおよそ一時間程度だという。


 部活に比べれば拘束時間は短いが、それでも負担は大きい。


 その日、しばらく一緒に帰れなくなったと燎火に断りを入れてから、俺は屋上へと向かった。


 屋上の鍵は空いていた。


 おそらく、日聖はもう中で待っている。


 早く向かわなければと思いながら、無意識のうちにドアの前で立ちすくんでしまう。


 クラスメイトの無責任さに憤りを覚えている。


 そのはずだった。


 しかし、冷静になって反省してみると、その正体は巧妙に偽装された別の感情に過ぎないのかもしれない。


 多分、俺は日聖を心のどこかで忌避している。


 彼女に直接好意を告げられて、どのようなスタンスで接すればいいか迷っている。


 かつては彼女を他の男に奪われたがゆえに忌避し、今は彼女に好かれたがために彼女を忌避している。


 笑いたくても、笑えない皮肉だ。


 俺は深く息を吐いて、覚悟を決めて扉を開けた。



 光の乱反射が網膜を突き刺し、鮮烈な群青が頭上に現れる。


 学校の屋上を目にするのは、多分初めてだった。


 ゆっくりと足を踏み入れる。


 扉の脇に仰向けになった蝉の死骸が転がっていた。


 風が強く、髪がしきりに乱れる。


 夏の猛暑は過ぎ去ったとはいえ、コンクリートが敷き詰められた屋上はまだそこそこ暑く、肌に太陽の熱が直接照りつけた。


 そこに秋を感じさせる涼しい風が吹いてきて、それが無性に心地良かった。


 すでに屋上には、学生たちが練習のために十数人程度集まっていた。


 他のクラスは無難にダンスやら合唱を発表するのだろう。


 その顔は皆が気楽そのものだった。


 日聖の姿を探す。


 彼女は西側の奥隅に設置された貯水タンクの前で、三角座りをしながら書き物をしていた。


「ごめん、遅くなった」


 日聖は「大丈夫ですよ」と答えてから、手に持っていたノートを俺の前に差し出した。


 俺は彼女の隣に座ってから、その文面を改めて覗き込んだ。


「劇を成功させるために、色々と考えてきました。とりあえず、現時点での展望を永輔くんに話したいと思います」


 まず彼女は、この舞台を素晴らしいものにするのは不可能だと言い切った。


 全力を尽くして、ようやく恥をかかない程度の劇を上演することができるしれない。


 極めて正常な判断だ。


 日聖の言い分に批判の余地などありはしなかった。


 どだい始めから無理があったのだ。


 劇というものは一人で創り上げるものじゃない。


 クラスに一人だけ本物の女優がいるだけで、誰もが感動に打ち震える舞台など作り上げることはできない。


「現時点では脚本も、舞台も、衣装も、着想段階ですから本格的な稽古はできません。永輔くんは演技ではなく、発声と滑舌を意識して磨き上げることに努力してください。声さえ堂に入っていれば、最低限人様にお見せできる水準は超えられます。文化祭のステージぐらいなら、なんとかなるはずです」


 そう言って、日聖は鞄からクリアファイルを取り出した。


 コピー用紙を数枚取り出して渡してくる。


 そこには発声の練習メソッドや外郎売り、早口言葉の一覧が記されていた。


「まずは根幹となる、腹式呼吸から教えます。本当は仰向けの方が分かりやすいんですが、地面がコンクリートだから仕方ありません。立ってください」


 言われた通りに立ち上がる。


 すると日聖は膝立ちになって、おもむろに俺の腹を押さえてきた。


 途端、シャンプーの芳しい匂いが鼻腔をくすぐった。


 艶やかな髪が顎の位置にほのかに当たってきて、色々な意味でむず痒かった。


「直接、触っていいですか?」


 なんでもないことのように、彼女はそう尋ねてきた。


 俺は気後れしながら、「ああ」と答えた。


 ワイシャツの下から手が差し込まれる。


 その下のTシャツが捲られて、直接的な感触が地肌を滑った。


 極めて真面目な行為だということは分かっているが、段々と恥じらいが込み上げてきてつい頬が熱くなってしまう。


「ここに力を入れながら、まずは鼻から空気を吸い込んでください」


 日聖の方はまるで意に介した態度を見せず、事務的に指示してきた。


 言われた通り、丹田辺りの筋肉を緊張させながら大きく息を吸い込む。


 「吐いて」の合図と共に緊張を解いて、大きく息を吐き出した。


「次は今の運動の中に発声を組みます。もう一回、大きく鼻から空気を吸って」


 ゆっくりと腹部に空気を溜め込んでいく。


「吐き出すと同時に、大きく声を出してください」


 衆人環視の場で大声を出すことに若干の恥じらいはあったが、仕方ないと諦めて可能な限り口を広げた。


 溜めた空気と共に吐き出すイメージで、「あ」の声をなるべく伸ばしながら叫ぶ。


「もっと筋肉を張らせてください。でも、決して力み過ぎないで」


 日聖の柔らかい手のひらが、へそより少し上辺りを優しく撫でつけてくる。


 邪な感情をかき消すために、なるべく発声に気を向けることに心を傾けた。


 指示に従いながら、腹の空気が続く限り声を出す。


 肺に溜めた空気を限界まで吐き終え、俺はゆっくりと声を止めた。


「今のが、腹式呼吸で行う発声です。じゃあ、もう一回やってみましょうか」


 先ほどの感覚を思い出して、空気を吸い込む。腹に力を入れて声を吐き出す。


「実際の舞台では声をボールに見立てて、届かせたい位置に打ち出すようなイメージで発声するのがコツです。まあ、それについては追々ですね」


 そう言うと、今度は日聖も膝立ちのまま同じように発声を始めた。


 鈴の鳴るように響く美声に俺の声が重なり合い、屋上という開放的な空間をコーラスで満たした。


「声の出し方はこんな感じです。発声や滑舌の練習をする時は、常に意識してください」


 ようやく彼女の手が、俺の肌から離れた。



 そこで一旦、一休みすることにした。


 貯水タンクの礎になっている石垣に腰かける。


 そのタイミングで、俺は気になっていたことを彼女に尋ねた。


「なあ、お前は面倒を承知でどうして劇に賛成したんだ? 言ったらなんだが、文化祭の舞台なんてお前からしたらお遊戯会みたいなものじゃないか」


 すると、日聖は小さい声で答えた。


「私、ずっと演じてみたかったんです。『ロミオとジュリエット』という戯曲を」


 おもむろに彼女は立ち上がった。


 その視線でしっかりと俺を捉えて、彼女は突然語り始めた。



 身も心も何もかもを与えたい私の気持ちは海のように底知れず、

 

 私の愛は海のように深うございます。差し上げれば差し上げるほど、

 

 私の心はいっぱいになるのです、どちらも無限でございますから。



 胸に右手を当てて左手を真っ直ぐに突き出して、彼女は台詞を言い淀むことなく諳んじてみせた。


 その声色は以前聞いた暴君のものではなく、とても可憐で踊るような愛の愉しさに満ちていた。


「ジュリエットの台詞か?」


「二人の逢瀬のシーンで語られる台詞です。父から子どもの時に聞いたことがあるんですよ。私の名前はかつて母とのデートで観て感銘を受けた、『ロミオとジュリエット』の台詞からつけられたものだって」


「それにね」と前置いて、なおも日聖は俺をしっかりと見据えながら、いつになく真剣な顔を向けてきた。


「何より私は、永輔くんと同じステージに立ちたかったんだよ」


 その台詞は取り繕った敬語ではなくなっていた。


 嬉しかった。


 しかしそれ以上に哀しかった。


 その迷いのない言葉に、俺は微妙な顔を浮かべることしかできなかった。


「分からないな。俺みたいな奴、お前にとっては見合わないにも程があるじゃないか」


「そうじゃないよ」と、日聖は即座に否定した。


「昔から願ってた。私が今まで眺めていた景色を、いつか君にも知ってもらいたいって。だって永輔くんは、私にとって誰よりも大切な人だから」


 日聖は決定的な言葉を口にはしなかったが、それはその先にある答えを示しているのと変わらなかった。


 俺は返事をせず、その言葉の意義をよく吟味してみた。


 しかし、上辺をなぞるだけで、彼女が意図しているだろう深い意味まで推し量ることはできなかった。


「知ってる? クラスの女子の間で永輔くん、人気なんだよ。昔より大人っぽくなって、カッコいいってさ。君が主役に選ばれたのは、シンプルに君自身が魅力的だったから、それが何よりの理由なんだよ」


 そんなことを突然言われても、何かの冗談としか思えない。


 「にわかには信じ難いな」と吐き捨てるように言った。


「君はもっと、自分に自信を持つべきだよ。そして、私と一緒に劇を演じ切って欲しい。今の私はね、あなたと一緒の舞台に立つ。それだけを祈っているの」


「願いじゃなくて、祈りなのか?」


 つい気になって、思わずそんなことを尋ねた。


 いつものように笑って、日聖は言った。


「うん。これは、この気持ちはね、紛れもない祈りだよ」


 彼女が俺に向かって、手を差し伸べる。


 導かれるように、俺はその手を取って軽く握り締めた。 

W・シェイクスピア『ロミオとジューリエット (岩波文庫)』(平井正穂訳)より引用

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