秋の断章①-3
全てのきっかけは、彼女が出演した演劇の観賞に訪れた時だった。
夏休みも終盤に近づいた、八月のある日のことだ。
芸能鑑賞が趣味だった康太の母親が、たまたまチケットを入手したのを譲ってくれたのだ。
特に説明はなかったが、それはクラスメイトが出演しているからという意図だったのかもしれない。
譲られたチケットは一枚だったが、俺の両親は文化藝術というものにまるで興味がない類の人種だったので、あっさりと俺のもとに渡ってきた。
康太の母親も最初はつき添いという形で来る予定だったが、急な用事で駄目になった。
だから結局、二人だけで観に行くことになった。
劇にさほど興味があったわけではない。
暇潰しぐらいにはなるだろうと、気楽に構えて観に行くことにした。
日聖愛海がその劇に出演しているなんて、俺たちは当日まで知らなかった。
知っていたら知っていたで、対応も変わっていたかもしれない。
日曜日の公演だったので、親父に劇場まで送迎してもらった。
その日、俺は久々に幼馴染の顔を間近で見た。
サッカー部は練習続きで、すっかり俺たちの交流は途切れてしまっていた。
車中であっという間に会話は途切れてしまい、気心知れた仲のはずなのに気まずい空気が流れ始めていた。
それから一時間近く、憂鬱な気持ちで目的地に到着するのを待っていた。
上演される劇場は、隣町である沙山市の文化会館に隣接している。
十年前に新築された、ソメイヨシノの並木が連なる千席ほどのホールだった。
そこには久しぶりに足を踏み入れた。
いつか学校の行事でプロの演奏会鑑賞のために訪れた時より、ずっと厳かで冷たい空気で満ちていた。
二人で指定席に座り、開演を待っている間にふとトイレに行った。
その時だった。
男性用トイレと女性用トイレの真ん中で、誰かがうずくまっているのに気がついた。
近づいてみると、それは若い女性だった。
体調を崩しているのかと思い、逡巡しつつも声をかけた。
女性が顔を上げて、胡乱な目つきでこちらを見上げた。
その人物の正体は、あの日聖愛海だった。
俺は息を呑んで驚きつつも、彼女に尋ねた。
「どうしたんだ?」
「気持ち悪くて、ずっと吐いてた」
青白い顔を向けて、彼女は簡潔にそう答えた。
その視線は俺を透過して、その奥の空隙へと向けられているようだった。
俺は疑問に思った。
これから上演される劇に出演するというのに、なぜ彼女はホールの入り口近くに設置されている一般用トイレの前にいるのだろうか。
本来なら出演予定の役者は、裏の楽屋付近にあるトイレを使うはずだ。
ずっと吐いていた、という彼女の答えと照らし合わせてみて、一つの推論がふと頭に浮かんだ。
「もしかして、逃げ出そうとしていたのか?」
一瞬、彼女は目を大きく見開いた。
そんなことを他人に見破られるとは、微塵も思っていなかったのだろう。
「……そう。最近調子が悪くて、舞台に立つと何もかも分からなくなっちゃうの。台詞も演技も覚えているはずなのに、自分が誰を演じているのか、私が本当は誰なのかが曖昧になって、頭がおかしくなってしまいそうになる」
唐突に、彼女はたくさん語り始めた。
その後のつき合いで確信することになるが、それは彼女が初めて他人に見せる弱音だったのだろう。
まだかろうじて残っている強さへの執着を殺しきれないまま、誰かに縋りつくことでしか保てなくなったか弱い彼女の姿。
俯きながら滔々と語る日聖愛海を見て、俺は初めてその存在にシンパシーを抱いた。
普段はあれだけ遠いところに隔てられて生きていると思っていた彼女が、自分と同じ等身大の中学生に思えてならなかったのだ。
当時の俺は、まあ調子に乗っていたのだろう。
誰もが心の奥で憧れていた日聖愛海の弱さを目撃したことで、変な優越感と自信を湧かせてしまったのだ。
彼女のヒーローになってやりたいと、年相応な幼い義侠心を募らせてしまった。
衝動的に声をかけていた。
「俺も手伝うよ」
「え?」
彼女は怪訝な顔で俺を見た。
「ここから逃げ出すんだろ? 俺も君と一緒に行くよ」
彼女はじっと探るような目つきで、俺の顔を凝視した。
その裏にある打算を探り当てようと必死だったのだろう。
自分の口走った言葉の意味をよく理解していないまま、俺はその眼差しを受け止め続けた。
気づけば無意識のうちに、俺の方から手を差し出していた。
不意に、その手に温もりが宿った。
日聖愛海は俺の手を勢い良く掴んで、「うん」とだけ返して、今まで見たことのない薄い笑みを向けてきた。
俺はその手を引きながら、全速力でホールの外を駆けていた。
自分にこんな度胸があった事実が信じられなかった。
そして、日聖愛海が小さな俺の手を取ってくれたことも、まるで信じられない事実としてそこにあった。
アドレナリンやドーパミンといった興奮物質が、ひっきりなしに脳内で分泌されているのが分かった。
時々後ろを向いてその顔を見やりながら、俺はあらん限りの体力を引き出して、劇場から少しでも遠くへ逃げようと必死に足を動かした。
「……どうして、こんなことをするの?」
丁度敷地の出入り口付近で、彼女は訊いてきた。
「君が辛そうだったから」
その台詞が本音だったかどうかは定かではない。
自分の勇敢な行動に酔っていたのかもしれない。
あの日聖愛海に気に入られようという、単なる下心でしかなかったのかもしれない。
でも一つだけ、確かなことがあった。
他でもない日聖愛海が自分の前で弱さを晒しているのが、なぜか無性に耐え難かったのだ。
許せなかった、と言い換えていい。
入学式に初めてその顔を見た時から、やはり俺は心のどこかで彼女に憧れていたのだろう。
いや、認めよう。
やはりそれは、幼い俺のいじましいエゴに過ぎなかった。
それでも俺は、いつだって彼女に強い日聖愛海を演じていて欲しかったのだ。
そんな子どもの抵抗は長続きしない。
ホールから五百メートルぐらい離れた交差点で、信号を待っている最中だった。
黒塗りのワゴン車が追い越してきて、俺たちの前に立ち塞がるように駐車した。
俺たちの逃避行は十分も経たず、終わってしまったのだ。
中から百八十センチは越えているだろう、長身で髭面の男性が出てきた。
歳は三十代後半から四十代前半ぐらいだろうか。
竦然として立ちすくむ俺をよそに、日聖は黙って彼の前まで歩いていった。
そして何やら会話をした後、彼女は大人しく車に乗り込んだ。
男性はゆっくりとした足取りで、俺に近づいてきた。
反射的に怒られると思った。
恐怖で足を震わせながら、彼が目の前にやって来るのをじっと待った。
その様は蛇に睨まれた蛙と呼ぶに相応しい、なんとも無様な代物だっただろう。
立ちすくむ俺をよそに、彼は目の前までやって来ると俺に小さく頭を下げた。
「ありがとうね」と相合を崩して、人の良い笑顔と共に感謝の言葉を口にした。
大切な舞台を前にして、大事なキャストの一人を連れ出した不遜な中学生。
そんな奴のどこに感謝する謂れがあったのだろうか。
当時は随分疑問に思ったが、訊き返す前に男性は俺の前から去っていた。
彼らは急いで車に乗り込み、来た道を引き返していった。
後で調べてみると、その人物は彼女が所属している劇団の座長だった。
きっと日聖にとっては、第三の保護者と呼べるぐらい親密な仲だったのだろう。
なぜあの時、彼は俺に感謝を向けてきたのか。
大人になってから、俺はその意味を理解することになる。
幼い俺はほんの数分間に起こった出来事を咀嚼し切れず、しばらくその場で放心していた。
ただ一つ。
去り際に車の窓から映った日聖が、俺に微笑みかけてくれたこと。
それだけは鮮明に覚えていた。




