夏の断章⑦-3
放課後に委員会の仕事で図書室に行くと、千賀燎火がいた。
いつもだったら反応がないのがお決まりだったが、今日は違った。
彼女はどこか浮ついたような、狼狽したような視線を俺に投げかけた。
その反応は意外ながらも、同時に予想通りだった。
俺が挨拶をすると、彼女は「うん」としおらしく頷いた。
「その、宮内くんに言われたの。あなたが大変な目に遭いそうだったって。その原因が私にあるってことも」
彼女は伏し目がちに、こちらをしきりに見やりながら言った。
いつもの威圧的な雰囲気は鳴りを潜めていた。今日の千賀燎火は何というか、とてもおどおどとしていた。
「大丈夫、何てことはなかった。土壇場で幸運に助けられたんだ。それに諸々の原因は全部俺にあるんだから、君が気に病むことはない」
答えながら、俺は受付の椅子に座った。
今日は月曜日。
週の初めだったが、同時に一学期の最終日でもあった。
授業は半日で終わり大半の生徒は部活に赴いたり帰宅したりしていたので、図書室はいつにも増して閑散としていた。
「そういえば、昨日送ったメールを見てくれたか?」
無言で彼女は首を縦に振った。
「もし不快に思ったなら、すまなかった。君に喜んで欲しくて、何ができるか考えた結果があれだった。……と言うのは言い訳で、単に俺が彼女たちを許せなかっただけだ」
冷静を装いながら言うと、彼女は俯いて拳を握りしめた。
視線を上げると、こちらを向いて目を見開きながら、「なんで?」と消え入りそうな掠れた声で尋ねてきた。
「なんであなたは私にそこまでこだわるの? 私とあなたはこの前まで他人同士で、散々ひどいことを言ってきたのに」
十秒。
数字を数えながら、俺はゆっくりと空気を呑み込んだ。
「それはさ、俺が君を好きだからだよ。ずっと昔から、いやずっと先の未来から、俺は君に恋をしていたんだ」
間髪入れず言い切った。
その言葉は彼女にずっと言いたくて、ずっと言えなかったものだった。
まるで時間が停止したように俺も彼女も静止したまま、互いの瞳を探るように見つめ合っていた。
一体何秒、何分間そうしていたのだろうか。
カーテンが風で翻って窓から差し込んだ西日が、その愛しい顔を鮮明に照らし出した。
「私のことが好き? 冗談でしょう? だって私は今まであなたに好かれるようなこと、何一つしてない。むしろその逆だったんだよ?」
「人を好きになるのに、理由は必要ない。だって言葉をどれだけ尽くしたって、それを心に還元するなんてことできやしないんだから。恋というのはいつだって、結果だけ置いてそのまま舌を出して去っていく。合理的な説明なんて残してはくれないんだ。それはとても素晴らしいことで、同時にとても不条理なことなんだろうね」
「だからって、人を好きになるのには最低限の理由づけが必要だよ。対価を求めない好意なんてあるはずがないし、仮にあってもただ気持ち悪いだけなんだから」
「この前、言っただろう。俺は昔、君に助けられたことがあるんだ。だから君が苦しんでいるんだったら、次は俺が君を助けたい。小っ恥ずかしいけど、はっきり言うよ。俺は千賀燎火という存在自体を好いているんだ」
我ながらキザな台詞な上に、詭弁じみた言葉だと思う。
それを認めた上で、俺はそのまま肯定した。
目の前にいるのは紛れもなく俺が恋した千賀燎火で、それ以上でもそれ以下でもないのだから。
「……千賀さん。もしかして、泣いているのか?」
気がつけば、彼女はいつの間にか涙を流していた。
俺が求めていたのは彼女の涙ではなくて、その笑顔だったはずなのに。
赤みがかった頬を伝う水滴を眺めながら、俺はやはり自分を不甲斐なく思う。
「ねえ、最後に訊かせて。私は、あなたとあなたの言葉を信じてもいいの?」
「ああ、世界がいかに君を見放しても構わない。いくら君をいじめても、俺は君のそばにいる。君が俺を拒んでも、俺だけは君の味方でいるから」
彼女は堰を切ったように、俺の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。
柔らかな感触が広がる。
ワイシャツが彼女の涙で滲んでいった。
何も言わずに、俺は愛しい少女の存在を受け止め続けた。
その細い背中に手を回して優しく撫でながら、しばらく彼女の嗚咽が落ち着くのを待った。
思えば、彼女は余命を宣告されたことを告白した時でさえ、少しも悲しそうな素振りを見せなかった。
あの時、俺は自分の不幸しか見えていなかったが、本来だったら立場は逆だった。
目の前の現実を受け入れられず、反狂乱になりながら涙を流すべきは彼女の方だったのだ。
死にゆく彼女に向かって、俺は本当ならこう声をかけるべきだった。
悲しいのなら、好きなだけ泣けばいい、と。
「落ち着いたか?」
ようやく泣くのを止めた彼女に、俺はそっと尋ねた。
泣き腫らして真っ赤になった瞼を撫でながら、彼女は「うん」と答えた。
「なあ、もし良かったら教えてくれないか。二年前、君の身に何が起きたのか。なぜ君は心を閉ざしてしまったのか」
彼女の反応を伺いながら、俺はさらに台詞を紡ぐ。
「どうやっても、俺には君の痛みや苦しみを分かってやることはできない。他人の痛みをさも分かっているように言って、振る舞う奴らを俺は絶対に許さない。だけど泣いている君を見て、一緒に悲しむことはできると思うんだ」
こくんと頷いて、彼女はか細くおぼつかない声で語り出した。
それから先の話は正直な感想として、俺の想像を上回るものではなかった。
それは世界に無数に散らばっているような、ありふれた悲劇だった。
千賀燎火の母は舞台女優だった。
陣西神社を取り仕切る夫婦の一人娘として生まれ、幼い頃からその美貌は持て囃されていたらしい。
彼女は中学卒業と共に家を飛び出し、上京して運良くそこそこの知名度を誇る劇団に所属できた。
しかし若さというアドバンテージを失い、自身の才能のなさを自覚してからは地元の劇団に鞍替えし、そこで細々と活躍していた。
父親と出会ったのはそんな挫折の時期、彼女が二十三歳の時だったらしい。
だがその男は、彼女が子どもを身籠ってからすぐに蒸発した。
千賀燎火はそんな母の境遇を憐れんで、幼い頃から甘んじて彼女から受ける虐待を受け入れてきた。
アルバイトの帰りに決まって受ける殴打の痛み。
運悪く機嫌を損ねてしまった際、真っ暗なトイレに閉じ込められながら味わう空腹感も必死に我慢した。
そんな娘の献身は実らず、時間が状況を癒すことはなかった。
精神の均衡を崩し、所属していた劇団を辞めてから、母親の娘に対する態度はさらに悪化していった。
それでも彼女は耐えて、母に寄り添おうと努めた。
母親にとって味方になりえる存在が、唯一自分しかいないと分かっていたからだ。
そんな毎日が、この世界では十四年も続いてしまった。
千賀燎火の苦境は、児童相談所の介入で終焉した。
彼女の母親は実際、役者だったのだ。
虐待の事実が公にならないように、随分と用心深く振る舞っていたらしい。
周囲は彼女を良きシングルマザーと認識していた。
そして娘の方も虐待の事実を悟らせないよう、なるべく学校では傷跡を隠して明るく周囲には振る舞っていた。
その日は、憎々しい娘の誕生日だった。
平時よりも、酒の量が増えていたのだろう。
あんたが生まれた今日という日から、私の地獄が始まったんだ。
あんたの存在は私にとって呪い以外の何ものでもない。
想像の域を出ないがそんな怨嗟を延々と吐き出して、それがついエスカレートしてしまったのだろう。
その声をたまたま夕飯の残り物を贈りに来た、マンションの隣人である初老の主婦に聞かれてしまった。
結果、娘と母親は強制的に別離させられた。
娘は母を庇ったが無駄だった。
彼女は母親の実家である、陣西神社の神主夫妻に預けられることになる。
沙山市から陣西町に引っ越し、地元の俺たちと同じ中学校へ転入した。
母親が自殺したのは、それから三ヶ月後だった。
自宅のマンションで首を吊っているところを、相談所の人間が発見した。
「……私は結局、彼女を助けることができなかった。誰よりも傷ついて、私はそれを一番近くから見ていたはずなのに。何もできなかったの」
「だから君は、自分を閉じ込めてしまった。母親を助けられなかった自分なんて幸せになるべきではないと信じて、何もかもかなぐり捨ててしまったんだ」
「そうだよ。毎晩、夢に母が出てきて私に呪詛の言葉を吐くの。あんたなんかが笑うべきじゃない、私を苦しめた分だけ地面を這いつくばって生きていけって」
母親からの呪い。
それが千賀燎火を歪めた原因だった。
顔を背けてさめざめと泣く彼女を、俺はもう一度優しく撫でた。
「なあ、これは俺の持論だけどさ、呪いと祝福は紙一重で、どちらもきっと正しい祈りなんだよ。その呪いさえ、いつか祝福へと変わる。君が自分を呪うんだったら、その分だけ俺は君を祝福したい。……千賀燎火。空っぽだった俺に、もう一度意味を与えてくれてありがとう」
「本当に? 本当に私は、許されてもいい存在なの?」
「人は誰だって幸福に生きることが許されてる。およそ人は一切が許されている。だから信じて欲しい。他の誰が何を言って君を詰っても、いじめても、俺だけは君を許すよ」
強い力が上半身を覆った。
彼女に抱きしめられている。気がつくのに数秒を要した。
俺は笑って、控えめな力でその身体を抱き返した。
制服越しに確かな心臓の鼓動を感じる。温かいと思った。
この温もりのために、俺はこれまでたくさん似合わない台詞を吐いて、らしくもない無茶な真似を数え切れないほど重ねてきたのだ。
彼女とだったら、どんな地獄だって笑って生きていける。
そう思った。
すぐに彼女は腕を離した。
自分の大胆な行為を恥じているのか、涙で腫らした瞼だけではなくて顔全体を紅潮させて、「ごめんなさい」と不確かな視線を向けながら謝ってきた。
いつになく素直な反応が面白くて、俺は思わず吹き出してしまった。
「やっぱり、千賀さんはそっちの方が似合っているよ」
軽口を叩くと、やはり彼女は恥ずかしそうに顔を染めて腹立たしげに睨んでくる。
それから、罰が悪そうに横目で俺を見ながら言った。
「……その、名前で呼んでいいよ。私の方も、これからはあなたのことを名前で呼ぶことにする」
俺は素直に頷いて、昔のようにその名前を呼びかけた。
「燎火」
「永輔」
その声は何かの冗談みたいに重なって響いた。
それが無性に微笑ましく感じられて、俺たちは互いに笑い合った。
主観的な尺度として数ヶ月。
客観的な尺度として、およそ十年。
久しぶりに見る彼女の笑顔は、何一つ欠けることなく俺を幸せにさせた。
それだけで、俺はこんな世界の全てを許すことができた。
窓から吹いてきた、涼やかな風が俺たちの髪を攫っていく。
燎火は顔を綻ばせ、髪を撫でつけながら言った。
「でも、ごめんなさい。私はあなたの気持ちを受け入れることができない」
一筋の涙が溢れ、その頬を伝い落ちていった。




