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ゆっくりと意識が浮上する。
眼前に映る景色は病室でもなければ、かつて見慣れた実家の自室でもなかった。
そこには今まで、一度も眼にしたことのない景色が広がっていた。
脳の帰納機能が煙を立てて、目の前の光景の異常性を告げる。
それほどにその景色は、非日常で彩られていた。
空中の下で、俺は寝転んでいた。
奇妙な表現だが、そう表すことしかできない。
俺の身体はどうやら、空の上でベッドに寝ているみたいに横たわっているらしいのだ。
顔を上げてみると、航空写真のようにミニチュアと化した町の風景が見えた。
重力が本来の役目を忘れてしまったのか、いつまで経っても落下の感覚は訪れなかった。
そっと上体を起こす。
踏みしめたそこに床のような固い感触を感じ、俺はそこを起点にしてゆっくりと空気の上に立ち上がった。
周りに物体は見当たらないのに奇妙な感触が支えになって、平衡感覚を保ったまま両足の二点で立つことができた。
平行線上の数メートル先。色とりどりの火花たちが、十メートルほどの規模で球形に広がったまま静止していた。
そんな不可解な光景を見るのは初めてだった。
爆ぜた、まさにその瞬間の花火を至近距離から眺める機会など、そうそうあるものじゃない。
それが肉眼なら、なおさらのことだ。
「気がつきましたか?」
声がした方向に顔を向けると、何もなかった空間にいつの間にか人影があった。
聞き覚えのある声。
世俗からは浮ついた白髪と顔半分を覆う仮面。
俺と同じように大気そのものを踏みしめて、はるか遠くの地上を天に仰ぎながら、彼女は俺のすぐ前方に立っていた。
地上で今まさに行われている、祭りの主役ご本人が現れたのだ。
「……そうか、俺はお前に助けられたのか」
「そうです。あなたに今死なれてしまっては、私も困りますからね」
カンナは機嫌悪そうに眉を顰めて、吐き捨てるように言った。
その様子を見て、俺はいささかの余裕を取り戻す。
場違いにも薄笑いを浮かべながら、あえて殊勝な台詞を吐いた。
「思えば、お前には助けられてばっかりだな。それだけは感謝しているよ」
「呑気なことばかり言わないでください。流石に三度目はありませんから、覚悟しておいてください」
なおも笑いながら、俺は「ごめん」と二回繰り返した。
死にかけておいて、なんて軽薄な態度だろうと自分でも思う。
それにしても不思議だった。
かつてはあれだけ憎々しかったのに、今の俺はどこか余裕を持って彼女と接することができていたのだから。
「じゃあ、都合が良かったな。俺もあんたに用があったんだよ。でも、こっちから呼び出す術がなかったから困っていた。渡りに船って奴だ」
「ますます、自分の行いを後悔しました。……それで、私に何を言いたかったんですか?」
「お前が突きつけてきた選択肢に、ようやく答えを出した。俺は幸福な世界じゃなくて、千賀燎火を選ぶよ。ただ、それだけだ」
あっさりと言い放つと、カンナの表情がにわかに青ざめていった。
その分かりやすい反応が面白くて、俺はつい口元で忍び笑いしてしまう。
「待ってください。そのために日聖愛海や宮内康太を不幸にするって言うんですか? あなたが彼女を選べば、あの二人だって元の世界のような末路を辿るかもしれない。それぐらい賢明なあなただったら、分かっていたことでしょう?」
「それぐらい、分かっているさ。それを受け入れた上で、俺は千賀燎火を選ぶ。考え直す気はない」
彼女はしばらく放心したように、黙りこくってしまった。
そして先ほどとは打って変わって、これ以上ないほど真剣な面持ちを向けてきた。
「なら、教えてください。なぜあなたが彼女のために、そこまで身を犠牲にするのか」
「そこまで深い理由はないな。だって恋だの、愛だのって、そういうものじゃないか? 彼女に救われた恩を返すために、今度は俺だけでもその味方でいようと思った。千賀燎火だけのヒーローになりたいと思った。本当にただ、それだけなんだ」
ゆっくりとした口調で語り終えると、カンナはかぶりを振って、信じられないものを見るような目つきを俺に向けた。
「正気とは思えません。そんな格好いい物言いは、あなたには似合ってませんよ。だって彼女を選んだとして、千賀燎火があなたに心を開く保証なんて一つもないんです。仮にたった一人で世界から見放されたとして、あなたはかつてのような孤独と苦しみに耐えられると言うんですか?」
「もちろんと答えたいけど、口だけではなんとでも言えるからな。もしかしたら耐えられないかもしれないし、死ぬほど後悔するかもしれない。それにやっぱり、あの二人にだって、苦しみを背負わせたくなんかない。それでも彼女がもう一度笑ってくれるなら、俺は他の全てを犠牲にしても構わない」
このままでは埒が開かないと思ったのか、彼女は一旦押し黙った。
なおも俺の目をじっと見つめながら、やがて低い声で尋ねてきた。
「あなたはその愚かな決意を、かつての自分に告げることができるんですか? 失ったものに焦がれながら、泥濘の中で喘ぐ自分がまさに今、目の前で歩いていたとしてみてください。彼を目の前にしてなお、全てを取り戻せるチャンスを不意にできると言えるんですか?」
俺は正直、そこまで彼女に念を押されるとは思っていなかった。
もしかしたら、彼女は露悪的な態度が鼻につくだけで、思っていたよりも良心的な存在なのかもしれない。
自分でも甘いと思うが、薄々はそんな考えさえ湧いてきたところだった。
だが、すぐにそんな浮ついた思考は捨て去る。
今発せられたカンナの問いに、真剣に向き合うことにした。
「そうだな、そのまま絞め殺されたって、文句は言えないだろう」
そんな想定に、意味があるとは思えない。
死人に口が利けないように、過去の自分が口を利くことはできない。
よしんば過去の自分と話せたとして、その時点でそいつは過去の俺じゃない。
それは単純な論理的な矛盾として指摘できる。
しかしながら、くだらないと簡単に切り捨てることは出来ない。
過去の自分に報いてやることはできないが、それは確かに福島永輔が全存在を懸けて答えなくてはいけない、真摯な問いであるからだ。
「……でもさ、気づいたんだよ。十四歳の俺も、二十歳の俺も、二十五歳の俺も、いつだって自分は失意の底で踠いていたと思ってた。だけど、そうじゃない。暗闇の只中にあって、そこにあるのは必死に光を求め続ける俺の姿だった。馬鹿みたいな顔で泣いて、何かを悟った振りして逃げ出してきた、つまらない人生だった。それでも、そこにあるのはひたすら最善を求め続ける俺だった。どれだけ不幸に溺れているように見えても、よく目を凝らして見てみると、そこいるのは幸福な自分の姿だった」
そこで言葉を区切る。
カンナはなおも厳しい顔で、俺を見つめ続けていた。
「狂ってるとしか思えません。だから、あなたは過去の自分は不幸ではなかったと言いたいんですか?」
「そうじゃないよ。でもそれは、俺だけじゃなく、きっと誰にも当てはまることなんだ。いつだって、俺は不幸の只中にいた。ずっと苦しかったし、ずっと寂しかった。自分は無価値な人間だと心から信じて、慟哭し、孤独に彷徨いながら生きてきた。それは間違いようがない事実だ。……けど、不思議なんだ。なんて言うかな、それでも俺は一番幸せになれるように生きてきて、やっぱり俺は幸福じゃなかったけど、振り返ってみればそこには幸福が満ちていた。自分でも何言っているのか分からないけど、それはやっぱり世界への祈りって奴なんだと思うんだ」
三ヶ月間、この世界で生きてきて掴んだ感覚を、俺は必死に形にしようとして言葉を紡いだ。
だけどそれはやはり、どこか要領を得ない言葉の羅列にしかならなかった。
錯乱した人間の譫言のようにさえ聞こえたかもしれない。
自然と溢れ出す情動でぐちゃぐちゃになって、喋っている間も無意識に涙が込み上げてきた。
記憶と言葉が上滑りして、盲目的な世界への祝福をなぞって消えていった。
そんな俺の様子を、カンナは静かに眺めていた。
それから天を仰いで、祈るように手を重ね合わせた。
月光に照らされて、淡く煌めくその様は例えようがないほど美しくて、思わずため息を吐いてしまった。
「……そうですね、あなたの言う通りです。あまねく人は幸福に呪われている」
「ああ、人は幸福に呪われている。でも、同時に人は幸福に祝福されている。それがいくら同語反復だろうが、幸福な人間は幸福だ。俺たちは幸せになるために生き、バイアスに塗れながら、一瞬一瞬の選択を最善と信じて行動する。人は不幸になろうと思って生きることはできない。生きるとは原則として、この今において最善を選び取る運動のことだから。幸福と不幸。喜劇と悲劇。祝福と呪いはどこまでも隣り合わせで、その明滅の美しさを良しとすること。それこそがきっと、素晴らしき人生なんだろう」
「でもそれを感得した上で、きっと人は幸福にはなれない。人が救われるには、現実的な願いの成就と幸福が必要なんですから。呪いが祈りであるように、祈りが呪いたりえることだってありえる。言葉や思想だけで、人が真に救われることはない」
「そうかもな。それだけじゃ、現実に生きる人間は救われない。それでも、これだけは確信を持って言うことができる。仮に人の生に台本が用意されているのだとしたら、そこにはこう書かれてる。……幸福に生きよ! たったそれだけだ。生は祈りと共にあり、祈りは生と共にある。それが、俺たちの生きる世界の実態だ」
だから何も心配することはない。
何も怖がることはない。
俺は瞳を閉じて、この三ヶ月の間に起きたあれこれについて思いを馳せた。
それは随分と短い期間だったが、確かに過ごしたはずの十年よりもずっと長いように感じた。
幸福な世界とは名ばかりで、辛いことや悲しいことも、それなりにあったような気がする。
だとしても、俺は今幸せだった。
気づけば、空中を蛇のような巨大な生き物が飛び回っていた。
それは大きな唸り声を上げながら、蟠を撒くように俺たちの周りを一回転して消えていった。
きっと夢や幻ではない。
それはおそらく、龍と呼ばれる人々の想像の産物だったのだろう。
空の全体が明滅して、瞬きの間に夜が明ける。
しばらくすると青と橙色が混じっていき、再び瞬きをすると群青に染まる夜が訪れた。
バケツをひっくり返したように流星が煌めき、消えていく。
後には、夜空の一面に鮮やかな極光と無数の光の柱が現れて、俺たちを鮮明に照らし出した。
そこはまさに、世界の涯てだった。
目の前で信じられないことが起こっているのに、俺はいささかも驚くこともなく、極めて平静な心持ちでその事象を眺めていた。
世界の中で全てはあるようにあり、全ては起きるように起きる。
端的な奇跡の生起を見届けながら、俺はその言葉を頭の中で反芻させていた。
奇跡を実演させて見せている彼女は、まったく表情を崩さずに艶やかに髪を撫でつけていた。
そして、天を覆う豊かな色彩の織物を背にしながら、悠然と口を開いた。
「……ねえ、永輔さん。私は思うんですよ。『現実』と『神』、そして『幸福』って、実は言葉が違うだけで一緒のものなんじゃないかなって」
少しの間だけ考えてから、俺は言った。
「まるで祝福と呪いが表裏一体のものとして、祈りに総合されるかのように」
「そう。『父たる神』、『母たる精霊』、『子たる救世主』の位格が、一つのものとして捉えられたのと似ています。だから現実という力は神であり、神は幸福に成り代わり、幸福は現実という認識によって満ち足りる。現実と呼ばれる力。それは時間や空間と重なりながら、事象の全てを開け放ち、同時に全てを閉じて収束させる言い得ぬ力のこと。言い換えればそれは全てを許容し、是認する力のことなんです。だから現実は、世界もあらゆる幸福も、あるいは神さえも容易く呑み込んでしまう」
現実は全てを呑み込む。
死んだ人間の意識を過去に甦らせる奇跡なんて屁ではない。この福島永輔が他ならぬ福島永輔として「私」である奇跡のような偶然も、それを確たる現実として浮かび上がらせる。
新しい実在論を擁し、究極のカオスを唱えた哲学者がいた。
彼が夢見るように、不遇の死を遂げた全ての亡霊が生き返るという正義の成就も、神秘として祭り上げられた偶然性のおこぼれ、端的な現実として生起しうるのかもしれない。
「ただ、それは現実がより上位の概念であるということを保証しない。十七世紀の哲学者が説いたように、逆に神が現実を呑み込むこともあれば、素朴な見解として、現実に生きる人の幸福が強い現実や神を追い越すことだってある。強い意味での幸福はあらゆる世俗的な幸福を呑み込んで、神、あるいは現実に比肩しうる事実として、ただそこにありうる」
「だからあくまで、持ちず持たれずなんです。それらは結局、同列にして同一でしかない。荒唐無稽な考えですけど、あなたの話を聞いて、私はそんなことを考えました」
彼女の持論を聞いて、俺は思わず苦笑いしてしまった。
荒唐無稽とか馬鹿らしいとか、そういう感想を抱いたわけではない。
目の前で容易く奇跡を再現する存在が口にするには、随分と謙虚な考えだと思っただけだ。
「お前だって神さまなんだろう? 本人が自分を貶めるような情けないことを言っていたら、普通の人間に示しがつかないじゃないか」
「そうですね。だから結局、私は紛い物なんです。だってそうでしょう? 神は何も語るべきではないし、神について何も語るべきではない。本当の神さまなんていうのは、とびきり無能で、無力なくらいが丁度いいんですから。神を名乗るには、私はいささかお喋りが過ぎました。だからこれからも、性悪な天女の身分に甘んじていることにしましょう」
「語りえぬものについては沈黙するしかない、か」
カンナは「その通りです」と言って、からからと朗らかに笑った。
普段とのギャップが面白くて、俺も釣られて笑ってしまった。
今の彼女は周囲を威圧するような超常的な存在ではなく、まるでどこにもいる少女のように俺の目に映った。
「だからもう、お別れです。あなたの覚悟を聞き入れました。これだけは忘れないでください。あなたが自分の下した選択でどれだけ苦しんでも、その選択で確かに救われた人がいたんですよ」
それから彼女は、どこか寂しそうな顔を虚空に向けて、「……これでもう、さようならです。どうか私のことも、私の言葉も忘れてください」と乞い願うように言った。
悲鳴を上げる間もなく、落下の感覚が全身を支配した。
大気を掴もうと必死に伸ばした手は当然のように空を切った。
非日常で彩られた夜空は、気づけばいつも見上げるものと何も変わりなくなっていた。
頭上に見上げる花火の光彩が俺の身体を穿って、儚くも消えていく。
俺の身体は逆さまのまま、次第に加速を強めながら天から零れ落ちていった。
最後に視界に映ったカンナは綺麗で、どこか懐かしくて。
文字通り急転直下の絶望に襲われながらも、俺は呑気にその横顔について思いを馳せていた。
そしてもう一度、俺は目を閉じた。




