夏の断章⑥-2
自転車が置いてある待ち合わせ場所の公民館は、俺たちの進路上に位置していた。
好都合だ。
俺たちはそこに向かう間にも近道の路地裏に入ったり、反対の進路を別のルートから引き返したりしながら、彼らの追跡を撒こうと試みた。
しかし、人数で勝る彼らに大した効果は望めなかった。
ほうほうの体で、なんとか公民館の自転車置き場まで辿り着いた。
その間にも、俺たちを蹂躙しようと口元を吊り上げている不条理は、ほんの数十メートルの距離まで迫ってきていた。
日聖が急いで、自転車のロックに鍵を差し込む。
「誰が漕ぎますか?」
「俺が漕ぐよ。色んな意味で足腰には自信があるからな」
康太が自信満々に言うと、日聖は無言でその頭をぞんざいに叩いた。
康太はやはり「いてぇな」と文句を言って、彼女に突っかかた。
「分かったから、早く乗ろう。今は揉めてる場合じゃない」
呆れながらため息を吐いて、俺はそのやり取りに水を差した。
まるで姉弟のように二人の仲がいいのは結構だが、悠長にしている暇はない。
康太が前方に乗り、身体を浮かせながらペダルを漕ぐ。
俺はサドルに座り、彼の腰を掴んでバランスを取る。
サブキャリアに、日聖が俺の背中を抱いた姿勢で座る。
滅茶苦茶としか言いようのない格好だ。
第三者の視点で眺めたら、その滑稽さに思わず吹き出しているところだろう。
小学生だって、こんなふざけた格好で自転車に乗ったりしない。
本当にこんな無茶な体勢で走れるのか不安だったが、康太が呻き声を上げながらペダルを踏みつけると、ふらふらとよろめきながら自転車は前に進み出した。
「康太、頑張ってくれ。お前だけが頼りなんだ」
「頑張ってください」
俺と日聖は口々に言い合った。
それは傍から見れば、まるで陳腐な青春ドラマの一幕のようだっただろう。
再び康太が苦悶の呻きを上げながら、ペダルを漕ぐスピードを早めた。
緩やかだった自転車の速度が段々と勢いづき始める。
公民館の駐車場から、祭り会場とは反対方向の住宅地側へと出る。
長嶋たちは俺たちを確認し、丁度迫ってくる寸前だった。
ほんの数メートルほどの差しかない。
それでも追いつかれる前に、俺たちはその場から抜け出すことができた。
人間の足と自転車では、前者に勝ち目はない。
このまま進んでしまえば、確実に追跡を振り切れるはずだった。
呆然と俺たちを見送る長嶋たちが、「ふざけんな」とか「ずりぃぞ」とかいう月並みな罵倒を口々に叫ぶ。
俺は「ざまあみろ」と、彼らに向かって口汚く叫ぶ。
すると日聖が追随して、優等生らしからぬ甲高い声で同じ言葉を叫んだ。
俺たちは勝った。
今一度苦難を乗り越えて、不条理を打ち破ったのだ。
夏の夜の吸い込まれそうな暗闇を切り裂きながら、俺たちを乗せた自転車は突き進んでいく。
会場と反対の街路はほとんど通行人がいない。
辺りは祭りの騒がしさを肩代わりするかのような、深い静謐に支配されていた。
彼らをひとまず撒いたとは言え、まだまだ十分な距離を稼いだとは言えない。
安心するには早かったが、そんなことは気にならなかった。
このままどこにだって行ける。
どうだってなる。
熱に浮かされたような全能感が胸を支配していた。
他の二人だって、きっと同じ感覚を抱いているのだろう。
その顔はあれだけの運動をこなした後だというのに、爽やかに澄んでいるように見えた。
空を仰いで見れば、一面の星が俺たちを照らしていた。
いつかあれほど不気味で憎たらしく映った満月が、俺たちを導くようにその光を差し出していた。
覆しようがない悲しい過去も、神さまの手のひらで踊らされているこの今も、この時だけは忘れることができる。
そんなものはくだらないと、心の底から吐き捨てた。
この文章を書いている俺が保証したい。
その時、福島永輔は確かに永遠を垣間見ていた。
この俺とかけがえのない今だけが本物だと、全身全霊で叫んでいた。
「なあ、お前らは祈りと願いの違いって分かるか?」
ふと思いつき、俺は前を向いて大声で彼らに尋ねた。
「はあ? 突然何言っているんだ?」
こちらからは見えなかったが、康太が呆れ顔を浮かべたであろうことは容易に想像できた。
いきなり変な話題を出してしまったかもしれないという自覚はあった。
だが興を削がれることはなく、俺は空気を割く音に負けないように腹の底から声を出した。
「祈りと願い、だよ。二つはどこまでも似ていながら、決定的に違うものだ」
「どういうことですか?」
背後から日聖が、俺の声量に劣らない大声で訊いてきた。
「願いとは、世界の中にある物事をそのまま変えようと縋る意思の力だ。宝くじに当たって欲しいとか、恋人の不治の病を治して欲しいとか、そんな世界の事実への問いかけが、きっと願いって奴なんだ」
俺はそこで一旦区切ってから、深呼吸をして再び話を始めた。
「それに対して、祈りは現実それ自体を変えようとする意志の力だ。始めや終わりの境目なく、それが端的な現実であるますようにという、極めて主体的で傲慢な細やかな意志。だから祈りによって、世界は総体として変容してしまう。人は時に世界を祝福し、あるいは呪う。それらはきっと、祈りの一部に組み込まれている。祈りはその実、もっと大きい。時間や場所、あるいは生者や死者の境さえ飛び越えて、私という世界を丸ごと包み込む」
「善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させる時、変えうるのはただ世界の限界であって事実ではない。永輔くんが言いたいのはつまり、そういうことですよね」
日聖は、流暢に周りくどい文章を諳んじてみせた。
それはある哲学者の本に書かれた有名な一節だったが、彼女の口から語られたことは新鮮な驚きを俺にもたらした。
「その通りだ。祈りはただ、世界の限界を変えうるだけで、世界の中身そのものを変えることはしない。でも意外だな。まさか、日聖にそんな知識の心得まであったなんて」
「たまたまどこかで読んで覚えただけですよ。有名じゃないですか」
さらりと彼女は言った。
俺は「やっぱり日聖は凄いな」と返して、片手を後ろに回して彼女の頭を無遠慮に撫でた。
「さっきからお前ら、何言ってるんだ? 頼むから、誰にでも分かるように話してくれ」
康太が言うのも無理ない。
普通の中学生には、いささか難解過ぎる話だっただろう。
俺は少し考えた後、口を開いた。
「そうだな、正月を思い浮かべてみてくれ。正月が来れば、年末どんな苦境に陥っていても、なんとなく心は晴れやかになる。テレビや町の雰囲気に浮かされて、新しい年が素晴らしいものになって欲しいと思う。それが祈りだ。俺たちは祈ることで世界の全体を、祝福に満ちたものとして創り変えているんだ。世界を祝福という相のもとに捉える。そう言い換えてもいい」
「……でも、そんな浮ついた気分は長続きしない。いつだって、それは変わらないでしょう?」
沈んだトーンで、日聖は噛みしめるように言った。
「三ヶ日が過ぎれば、正月気分もどんどん失せていく。テレビの特番も少なくなって、仕事や学校の始まりが迫ってくる。なんとなく正月の雰囲気に浮かされて、希望に湧いていた自分が滑稽に思えてくる。一時の雰囲気に酔って、世界を祝福していたことが馬鹿らしく感じられてくる。……結局、何も変わりはしないんだ。世界なんてそのままじゃ、当然のように理不尽で不条理なものだって、分かっていたはずじゃないか。そうやって世界を祝福した分だけ、今度は世界を呪ってしまう」
そこで、話を一旦止めた。
夜風と遠くの喧騒の音だけが残響していた。
「でもさ、それだって多分、祈りに違いないんだよ」
天を仰ぎながら、俺はどこまでも続く暗闇に向かって囁いた。
「呪いだって、また祈りだ。盲目的に世界を呪い、そして祝福し続けながら人は生きる。世界よ、現実よ、ただあるがままにあってくれ。祈りとは鏡合わせのように福音であり、呪詛であり、等しく人が幸福を求める態度だ。だから、いかに呪いというものがグロテスクでも、それを否定することはできない。そうやって少しでも俺たちは、自分が幸せになれるように生きている」
不機嫌そうに、鼻を鳴らす音が前方から聞こえてきた。
康太のものだ。
あまりに突拍子もない話だったので、笑われたのかもしれない。
自分の言葉がいかに軽薄なものか、理解していないわけじゃない。
結局こんな言葉は、ただのおためごかしに過ぎないのだ。
目の前を向けばそこにはやはり、いつもと変わらない無味乾燥した世界が広がっている。
当たり前のようにこの世は悲劇に満ち溢れ、いつか人は死ぬ。
どこにも生きる意味など存在しないし、世界に価値などありはしない。
だけど俺はしっかりと目を開きながら、あらゆるものに祈りを見出す。
いかに世界が不条理だろうが、そんなことは関係ない。
なんてことのない千賀燎火の言葉に、俺はいつか救われたのだ。
その言葉が風船のように軽い思想だったとしても、それでほんのわずかでも誰かを救ったのだったら大したものじゃないか。
「かくあれかし」日聖が不意にぽつりと呟くように言った。
「アーメン。キリスト教の祈祷の言葉を和訳すると、そうなります。そのようにあって欲しい。そのようであって欲しいものだ。そんな意味です。永輔くんの話を聞いて、腑に落ちました。祈りとは、つまり、そういうことだったのですね。……ありがとう。あなたの言葉に私は救われた気がします」
言い終わると、彼女は俺の耳元で「それから、先に謝ります」と囁いた。
嗚咽の声が微かに響いた。
俺の背中に顔を埋めながら「ごめんね」と消えそうな声で、日聖は懺悔の言葉を口にした。
唐突に俺の胸を掴んでいた両手を前に突き出して、ゆっくりと指を重ね合わせた。
仄かな温もりが身体を滑るのを感じて、今まで息を潜めていた羞恥が途端に花開く。
そして日聖は、噛み締めるように一字一句はっきりと言った。
「光あれ」
その時だった。
突然、遠くの空に光が走った。
光の柱は見る見るうちに飛翔していき、七色の光になって空に爆ぜた。
無茶な体勢で自転車に三人乗りをしているのも忘れて、ついその光景に視線が釘づけになってしまう。
ようやく、カンナ祭の主要行事である花火大会が始まったのだ。
花火が打ち上がった瞬間、背後からそよぐような微かな風が吹いた。
それは俺の耳をくすぐったく撫でてから、どこかへ消え去っていった。
そんな一瞬の感覚と振動は、耳をつんざくような火薬の炸裂音にすぐ掻き消されてしまう。
「花火、綺麗ですね」
何ごともなかったかのように、日聖は澄ました声で言った。
俺は放心しながら、危険を顧みず後ろを向いた。そして、彼女の顔を探るように見つめ続けた。
「ああ、いつだってやっぱり、花火は綺麗だよ。どんなに満たされていても、どんなに辛くてもそれは変わらないさ。でも、なんだかな、今年は一段と綺麗に見える」
空を仰ぎながら、それまで黙っていた康太が答えた。
「いつになく正直な意見ですね。宮内くんにしては珍しい。もっと素直になって、私たちと見てるから綺麗だって、そう言えばいいのに」
「勘違いすんな。お前らと見てるからってわけじゃない。それに正直な感想を言って、何が悪いっていうんだ」
そう居直って、康太は背後を一瞥した。
日聖はからかう風でもなく、「ふふふ」と余裕ありげに上品な笑い声を漏らしていた。
二人の喧嘩を黙って見守りながら、俺は止めどなく打ち上がる花火の美しさと余韻に浸っていた。
始業式の日。部屋で目覚めた時から数えて、今日この時。
俺は初めて、自分の身に降りかかった奇跡を心から祝福することができた気がした。
この三人で、目の前の不条理に打ち勝った。
誰がなんと言おうが、今この瞬間、俺たちは一つだった。
永遠は目の前にあった。
L・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考 (岩波文庫)』(野矢茂樹訳)より引用




