夏の断章⑥-1
それから俺たちは、脇目も振らずにただ逃げ続けた。
汗で額に髪が張りつくのも、道行くの不審な視線も気にせずに、体力の限界を超えてなお走り続けた。
流石にならず者で通っている彼らは一筋縄ではいかず、どこまで逃げても執拗に追いかけてきた。
彼らに捕まったらどんな目に遭うか、頭が冷えて想像が働くようになってきた。
それはせっかく誂えられたこの世界の秩序が、綺麗に崩壊することを意味している。
その結果を引き寄せたのは俺自身だ。
弁解も言い訳もしようがない。
情動に任せて、わざわざ虎の尾を踏みに行った愚かさを悔いるより他なかった。
だが悲しむのは早計だ。
そうならないために、どうしても俺たちは逃げ切らないといけない。
そして再び高い地点から、無様な彼らをもう一度嘲笑ってやるのだ。
それまでは、ただ走り続けるしかない。
「日聖、まだ走れるか?」
その横顔に目をやりながら、俺は尋ねた。
お面から覗く日聖の顔は、目に見えて紅潮していた。
汗でしとどに濡れ、屋台の照明に照らされて眩しく光っている。
三人の中で一番辛いのは、窮屈な浴衣で駆け回らないといけない彼女だ。
日聖は、特別体育が得意な人間ではない。
こんなハードな運動経験は人生で初めてなのだろう。
今彼女を苦しめているのは、他ならない俺自身だ。
彼女の善意に応えるどころか、恩を仇で返してしまった。
その事実を思うと、万力のような無力感で胸が締めつけられた。
「うん、大丈夫。まだまだ、全然、走れるよ」
お面の下で忙しなく荒い息を吐き出しながら、途切れ途切れに答えた。
俺は走りながら、彼女に向かって小さく頭を下げた。
「すまない、俺が余計な真似をしたせいだ」
「いいよ。そもそも、私が浴衣なんて着てこなければ良かったんだから」
お面の切り抜かれた目元から、眉を歪めて微笑みを覗かせる。
「彼らと永輔くんの間に何があったのか知らないけど、いつも冷静な君が取り乱すほどの因縁があったのは、まあ察しがついたから。それに永輔くんの珍しい姿が見れたし、ラッキーだった」
小声でそんなやり取りをしている間にも、背後からは「待ちやがれ」と低い罵り声が聞こえてくる。
このまま単純な体力勝負に持ち込まれれば、浴衣を着ている女子を抱えている俺たちに未来はない。
すでに屋台の連なる区画を抜け出して、辺りを歩いている人影はまばらになっていた。
ここから先は人ごみに紛れることもできない。
しきりに周囲を見回しながら、先頭を走っていた康太が不意に後ろを向いて、日聖に声をかけた。
「なあ、委員長。お前の自転車を使ってもいいか?」
「自転車ですか?」
そう訊き返してから、康太の算段に気づいたようだ。露骨に眉を顰めた。
「まさか、それで逃げようっていうんじゃないでしょうね?」
この後に及んでまだへらへらしながら、康太は「当たり前だろうが」と当然のように言ってのけた。
「そのまさかだよ。このままじゃ、じきに追いついちまう。正面から奴らとやり合って勝つ気がないんだったら、それぐらいしか方法ないだろ」
「無茶ですよ。自転車は一台しかないんです。三人で乗り回すなんて、正気の沙汰じゃありません」
しきりに頭を振って、日聖は反論していた。
彼女の方が常識的であることは認めるが、俺はすかさず康太の意見に賛同した。
「俺も賛成だ。他に方法はないんだ。例え無茶でも、それが逃げ切れる手段なら賭けるしかない」
頭を冷やして考えてみれば、他にいくらでも方法はあったかもしれない。
だが今は、そんな余裕はなかったし、それこそが最善に思えた。
実に中学生らしい短絡的な判断だ。
しかし、それが若気の至りだとして何だと言うのだろう。
祭り会場で蒸し暑い夏の夜を三人で走り回り続ける。
神さまへの反抗。
迫り来る脅威。
かつて失ったかけがえのない幼馴染の少年と初恋の少女。
彼らと今まさに連帯している事実に、自然と胸が高鳴る。
目の前の危機に反して、不思議なほど気分は高揚していた。
「二人がそう言うんだったら、仕方がないから従います。……あの、一応言っておきますけど、絶対に傷つけないで返してくださいよ」
俺と康太にそれぞれ視線を向けると、日聖は半ば諦めたように肩をすくめた。
「ああ、精々努力するよ」
吐き捨てるように放った俺の言葉は、一字一句違わずに康太の言葉と被さって暗闇に響いた。
俺たちは互いに顔を見合わせて、悪ガキのように意地悪く笑った。




