夏の断章③-3
それからも俺は、昼休みになれば彼女に弁当を一緒に食べないか尋ね、放課後になれば一緒に帰らないかと訊きに行った。
懲りずに毎日アタックし、そのどれもが失敗に終わった。
三日経って、彼女もいよいよ学んだらしい。
俺や康太の追跡を躱すため、チャイムが鳴るとすぐに教室を抜け出すようになった。
すぐさま彼女の姿を追ったが、間に合わない時の方が圧倒的に多かった。
それでも懲りなかった。
俺たちは全力で、彼女へのストーカー行為に邁進した。
諸々の言い訳は、全て日聖がやってくれた。
クラスの友人である新田や羽瀬は、突然俺が千賀燎火に執着し始めたことに目を丸くしていた。
しかし、日聖が適当な理由を言い添えてくれたことで、周囲から俺の心証が損なわれることはほとんどなかった。
それにしても、日聖は相当突飛な嘘で彼らを懐柔したようだ。
レディースコミックのようなよく分からない設定を、持ち前の信頼と演技力で信じ込ませたと言う。
とにかくここでも、彼女は生まれ持った人の悪さを発揮してくれたらしい。
文句は無数にあるが、この際目を瞑ってあまり追及しないことにしよう。
追撃の手を、俺は緩めなかった。
その週の土曜に、早速陣西神社へと出向いた。
言うまでもなく、神主に千賀燎火の母親について話を訊くためだ。
早起きをして、午前の九時には神社に着くように家を出た。
無論、少しでも印象が良くなるようにという打算によるものだ。
境内に到着して、目的の人物を探した。
すぐに社の後ろで、その人物は見つかった。
掃除をしている最中らしい。
「すみません」
躊躇することなく、俺は彼に声をかけた。
「はい、いかがいたしましたか?」
神主と思しき袴を着た壮年の男性は物腰柔らかな所作で、柔和な微笑を浮かべながら振り返った。
俺と身長は同じぐらいで、年齢は六十前半ぐらいだろうか。
穏やかな顔をしているが、その目にはこちらを見透かすような鋭さが宿っていた。
彼の姿はその妻と一緒に、かつて病院の中で見たことがあった。
記憶よりも頭髪は豊かに黒ずんでいて、より利発そうな顔立ちを保っている。
「千賀さまで、間違いなかったでしょうか。ぼくは燎火さんのクラスメイトなのですが」
「ああ、燎火の……。どうもお世話になっております。私は彼女の祖父ですが、どういったご用件で」
ひとまず、日聖の情報は確かだったらしい。
いきなり本題を持ちかけるのは悪手でしかない。
一旦、五月に彼女の実家を訪れた件を持ち出すことにした。
「実は以前、お宅にお招きいただいたことがあったんです。その節はどうもお世話になりました」
「以前、ウチに?」
千賀氏は不可解な表情を浮かべていたが、突然何かに気づいたように手を打った。
「ああ、妻から聞いたよ。もしかして、燎火がご無礼を働いたというクラスメイトが君なのか?」
「ええ、その通りです。でもあの時は、僕が悪かったんですよ。無意識のうちに彼女の神経を逆撫でしてしまったんです。責められるのは、彼女ではなく僕の方です」
「それは違う。手を出したのは彼女の方だ。燎火が全面的に悪かった。遅くなってすまないが、私の方からどうか謝罪をさせてくれないか」
千賀氏はそう言ってから、箒を地面に打ち捨てて、深く頭を下げてきた。
年齢ゆえの貫禄を感じさせる、堂に入った所作だった。
「顔を上げて下さい。今日は、そんなことを追及しに来たわけではないんです。ただ一点、お尋ねしたいことがあってここまで来ました」
「はて、この私に?」
ゆっくりと頭を上げながら、彼は怪訝な視線を俺に向けた。
「燎火さんについてです。僕は昔から彼女と親交がありましたが、突然彼女は人が変わってしまった。あえてネガティブな言い方をすれば、彼女は人を寄せつけない暗い人間になってしまったんです」
そこで言葉を区切った。
なるべく丁寧に聞こえるように注意を払いながら、改まって台詞を紡ぐ。
「僕はそのことがずっと不可解で、その理由をずっと探していたんです。ご親族であれば詳しいお話をお聞きできるのではないかと思い、お尋ねさせていただいた所存です」
幾度となく脳内で考え続けていた言葉と演技。
完璧だと思った。
数秒、沈黙が訪れる。
彼は納得したように瞼を閉じて、何かを探るように数度首を振った。
それから、さも不思議で堪らない表情を浮かべた。
「で、君はなぜそれを本人から直接訊かないんだ?」
心拍数が急激に上昇するのが分かった。
心の中で舌打ちをする。
冷静に考えてみれば、俺は彼女に直接尋ねるということを今までしていなかった。
あれだけの大見栄を切っておいて、言質を取る手間を省いてしまった。
千賀氏の指摘。
それは予想しなかった場所から飛んできて、俺のアキレス腱を見事に射抜いたらしい。
「尋ねても、教えてくれなかったから。これでは答えになりませんか?」
「彼女が教えなかったのなら、それは彼女の意思だ。尊重される権利がある。それに彼女に隠れて第三者にこっそり尋ねるなんて、フェアじゃない。そうは思わないかな?」
ぐうの音も出ないほど真っ当な意見だ。
素直に頷く。
こちらに反論の余地は何もなかった。
目先の目標に釘つけになって、細部に目を逸らしていた。
短絡的に目先の餌に飛びついた俺の落ち度だった。
改めて他所行きの笑みを浮かべながら、千賀氏は箒を手に取った。
「ご足労いただいてすまないね。でも私だって、可愛い孫に嫌われたくないんだ。もしかしたら聞いたことがあるかもしれないが、彼女はこれまで辛い目に遭ってきた。今は彼女の心が癒えるのを、静かに待ってやるしかない」
「こちらこそ、配慮が足りていませんでした。お時間を取らせてしまって、申し訳ございません」
暗澹とした気分のまま、敗戦を噛み締めて軽く頭を下げた。
すんなりと事が運ぶ期待はしていなかったが、それでも歯痒さを殺し切れずにいた。
そのまま背を向けて帰ろうと思った。
しかしその前に、それを制止するように千賀氏が口を開いた。
「実を言うと君が燎火に、その、つき纏っているということは、本人からすでに聞いていたんだ。忠告も受けていた。彼から接触があっても、決して何も話さないようにとね。彼女が君に何も話していないことも、実は最初から知っていた。……でも、今日直接話してみて分かった。君は真剣に燎火の身を案じていて、その利になりたいと願っている。それだけは確かなのだろうね」
「ありがとうございます。でも僕はまだ何一つとして、彼女のためにできていません。その言葉はもったいないですよ」
「なら、教えて欲しい。君はどうしてそこまで彼女に執着する? 君が知っている燎火と今の彼女は違うんだろ。だったら、潔く諦めてしまった方が賢明じゃないか?」
その質問は何度も訊かれて、その度に答えてきたものだった。
だから今度は、返答の角度を変えてみようと思った。
「以前、僕は彼女に救われたんです。あなたがどれだけ自分の過去を呪っても、そこには最善を祈ってそれを選んだという祝福があったはずだ。……幸福と不幸はその実、同じものに過ぎない。そこにあるのは、ただ見え方の違いだけ。そんな風に彼女は言っていました。単純極まりない話ですが、その言葉に俺は救われたんです。だから僕は、彼女に自分の言葉を思い出してもらいたい。そして彼女自身が責任を持って、その言葉を履行して欲しい」
「彼女がそんなことを?」
狐に摘まれたような顔で、千賀氏は驚いた。
俺は目を伏せて、乱形石で景観良く舗装された地面を見つめた。
「最近、思うんですよ。人の営みの全ては、最終的に祈りの問題へと収斂する。……祈りとは、世界の意義についての思考である。かつてそう書いた哲学者の考えが、今なら少しだけ理解できるような気がするんです」
「……ウィトゲンシュタインか。君は中々、中学生のくせによくものを知っているし、よくものを考えている。年寄りじみたお説教に聞こえるかもしれないが、人は考えることしか能がない生き物だ。だから考えれば考えるだけ、学べば学ぶだけ、人生はより豊かなものになっていく」
「僕は必ずしも、そうとは思いません。人は考えなくても生きていける。そういう人間の方が大体の場合において、人並みの人生を謳歌しているもんなんですから」
「それも一面においては真理かもしれない」
千賀氏は、人が悪そうににやりと口角を上げた。
そして、どこか遠い目をしながら続け様に言った。
「この歳になってもつくづく思うが、人生というのはままならないものだ。政治にイデオロギー、宗教や藝術などというものが、いかに簡単に人を裏切るかを私は知っているし、身を以って体験してきた。言葉や思想だって、それは同じことだ。だが、何せ君たちは若い。孤独の中で考え抜いたことが、光明となって道を照らしてくれることもあるはずだ。その度に希望を持ったり、また絶望したりして歩いていけばいい。ただ一つだけ。例えなにがあっても、考えることを放棄してはならない。私に言えるのは、それだけだ」
「ありがとうございます。とても参考になるお話でした」
そう答えてから再度頭を下げて、今度こそ俺は踵を返した。
「じゃあ、僕はこれで失礼します」
そう言い残して、出口である鳥居の方向へ歩き始めた。
「君の前途に幸があることを、私は祈っているよ」
背後から闊達な千賀氏の声が聞こえてきた。
もう俺は、振り返らなかった。
再び、千賀燎火から呼び出しがあった。
この前と同じ、人気のない廊下の隅の空き教室。
そこで俺は彼女と対峙していた。
俺が千賀氏に接触したことがバレたのだろう。
申し開きの余地はない。
どんな罵倒をされるか戦々恐々だったが、開口一番に彼女が発した言葉は意外なものだった。
「あなたが私と友だちになりたいって言うなら、もういい。その通りにしてあげる」
思わず耳を疑った。
一体どういう風の吹き回しだろう。
最初に抱いた感想は純然たる疑念だった。
「願ってもない申し出だな。でも一応、理由を訊きたい」
「おじいちゃんからあなたと会ったって、話を聞いたの。これ以上、私の周りを嗅ぎ回られるぐらいだったら、あなたの意思に従った方がいいと思った。それだけ」
彼女は無表情のまま、淡々と言った。
まるで本意ではないが、渋々従うより他にない。
そんな被害者としての胸中が、ありありと見て取れた。
「……勝手な真似をして、すまなかった。反省しているよ」
「もういいよ。私も今まで、あなたにきつく当たり過ぎたと思っている。ごめんなさい」
そう言って、彼女はぎこちない所作で頭を下げた。
その様子を眺めて、俺は知らぬうちに目を見開いて息を呑んだ。
てっきり、憎まれ口の一つでも叩かれると思っていたからだ。
いつもの手負いの獣のような刺々しい態度からすれば信じられないほど、今日の彼女は素直で順々だった。
空気を弛緩させようと、俺は無理に頬を緩めた。
「じゃあ、これで俺たちは友人同士ってわけだ。だけどここで一つ、問題がある。情けないことに、俺はずっと一人ぼっちで生きてきた。友だち同士がどうやって交流して親睦を深めていくのか、あまり知らないんだ」
頭を掻きながら告白する。
それは実際、紛れもない本音だった。
「意外だね。傍から見れば、あなたはお友だちに囲まれて幸せそうじゃない」
「ほんの上辺だけそう見えるだけだよ。本当の俺は、君と同じで人を寄せつけない、ただの根暗で陰気な駄目人間だ」
「随分と、はっきりと言ってくれるんだね」
声を出して、俺は笑った。
彼女は笑わなかった。




