夏の断章②-2
試しに車庫の奥にある物置を探ってみる。
隅のコンテナの中に、薄汚れて繊維のほつれたグローブと野球ボールが他のスポーツ用具と混じって収まっているのを発見した。
それらを携えて、学校付近の河川敷まで自転車で移動することにした。
休日だったので川遊びをしに来た子どもやバーベキュー目当ての家族連れで、川辺はそれなりの賑わいを見せていた。
橋の麓付近を選んで、俺たちはキャッチボールを始めた。
小学生の時に使っていたグローブだからきつかったが、なんとか手を入れて動かすことができた。
キャッチボールなんてものをするのは、一体いつ以来だっただろうか。
小学生の頃はよく親父や康太と一緒に、こんな当てもないボールのやり取りに興じたものだ。
相手の投球の仕草や軌跡をよく観察し、追いかけて手を持っていく。
上手くいくと、小気味の良い衝撃が駆け抜ける。
再びこちらから相手の位置をよく見定めて、背中を軸にするイメージで肩から投げる。
メトロノームのように一定のリズムで、ボールの往来が小気味良く続いた。
俺たちは互いに無言のまま、ボール越しのコミュニケーションをひたすら続けた。
薄々気づいていたが、今日の康太はやけに大人しい。
本人は威勢良く振る舞っているつもりだろうが、言動の節々にぎこちなさが見え隠れしている。
大方、昨日の大会の結果を引きずっているのだろう。
俺の家を訪ねてきたのだって、本人は気まぐれと誤魔化していたが、部活を引退して寂しくなったというのが本音なのだろう。
二十年以上生きていれば、そんな心の機微は手に取るように分かる。
それが思春期の男子ともなればなおさらだ。
とはいえ、こんな時に彼が俺を頼ってくれたのは嬉しかった。
そんなことをつらつら考えていたら、手元が狂った。
俺が投げた球はあらぬ方向に飛んでいき、康太がいる位置の数メートル横に着地して、そのまま地面を転がっていった。
「何やってんだよ」
「ごめん」
俺は手を合わせて謝った。
その間にも球はどんどん転がっていき、勾配の下まで転がっていってついに見えなくなった。
「仕方ねぇな」と言って康太が取りに行ったが、しばらく待っても一向に戻ってこなかった。
痺れを切らして様子を見にいくと、彼は河川に近い芝生の真ん中でボールを手に握ったまま寝そべっていた。
「おい、何やってんだ?」
声をかけてみたが、返事はなかった。
なんとなく、康太の隣に同じ姿勢で寝そべってみた。
地面に仰臥の姿勢で寝そべって、空を仰ぎ見るなんて久しぶりの経験だった。
呑み込まれそうな青空の奥に巨大な入道雲がかかっている、そんな夏らしい風景が視界の一面に広がった。
「……なあ、永輔」
康太はどこか遠い目をして、絞り出すようなか細い声で話題を切り出した。
「お前、高校はどうすんだっけ?」
「宮内康太ともあろう男が、部活を引退してナーバスか?」
「そんなわけがあるか。で、どうなんだよ」
俺はちょっと考えてから、正直に答えた。
「沙山南を受けようと思ってるよ」
それは俺がかつて落第した、近隣で一番偏差値の高い高校だった。
康太は、くくっと鼻にかかった笑いを漏らした。
まるで、お前だったらそう答えることが分かっていたとでも言うように。
「お前は昔から頭良かったからな。南高に行くんじゃないかと、薄々は思ってたよ」
「康太だって頭はいい方だから、頑張れば充分目指せるだろ。スポーツも万能でコミュニケーション能力だって、俺なんかとは比べ物にならない。どう逆立ちしたってお前には勝てっこないさ」
「それは、確かに一理あるかもしれない」康太は当然のように言った。
「でもさ、やっぱりお前は俺にないもの持ってんだよ。子どもの頃から、俺はそれに少なからず憧れていた」
流れていく雲の軌跡を追いかけながら、俺は康太の話に耳を傾けた。
昔から俺に憧れていたと、彼は言ってくれた。
十四歳の福島永輔が同じ話を聞いていたら、さぞかし狂喜しただろう。
宮内康太はかつて、福島永輔という少年にとって英雄に等しい存在だった。
彼にとって自分の価値の一つは、宮内康太の幼馴染として生を受けたことだった。
だからこそ康太に裏切られたあの事件は、全身火傷にも等しい痛手として心に刻まれたのだ。
「そう言う康太は、進路どうすんだ?」
「俺は陣高かな。色々考えたけど家から近いし、受験勉強なんてまっぴらだから、スポーツ推薦を狙ってる」
そこで会話は途切れた。
もう二人とも、ボールもグローブも横に放り出してしまった。
俺たちは寝転がって微動だにせず、夏の日差しを浴びながら無為に時を過ごした。
「そういえば、お前んち今どうなってんだ?」
突然、思い出したように康太が尋ねてきた。
「……別に。今時夫婦の別居なんて珍しくない話だ。そのうちに、ふらっとよりを戻す可能性も否めない」
康太は訊くだけ訊いておいて、「そっか」と興味ないように適当な相槌を打った。
それからも俺たちは、時々思い出したかのように短い会話を交わした。
どうやらもう互いに、キャッチボールをする気など完全になくしてしまったらしい。
「なあ、康太」
唐突に口を開いた。
始業式の日からずっと訊きたかったことを、口に出そうと決心したのだ。
「中学一年生の終わり頃、何かあったのか?」
十一年前。
康太が俺を長嶋たちに売ったのが、中学二年生の春だった。
だとすれば、彼が変わってしまった要因は中一の冬、三学期の期間に発生したと考えられる。
この質問を口にすることで、何かが決定的に変わってしまうのではないか、ずっと不安だった。
この世界にかけられた魔法が解けてしまうのではないか。
そんな思い込みさえ抱いていたのだ。
だが俺の不安とは裏腹に、康太はあっさりと答えを提示した。
「……いとこの姉ちゃんが死んだ。それだけの話だ」
「いとこの姉?」
「ああ、父親の姉の子どもだった。五年も年上でガキの頃から面識のあった、当時の俺にとってはべらぼうに年上の姉ちゃんだった。いつも笑っていて、時々間抜けなところがある女性だったな。……実を言えば、俺は彼女とつき合っていたんだ。恋の酸いも甘いも、全部彼女から教わった」
その事実を、俺は初めて知った。
そんな関係があったことを、当時の彼は教えてくれなかったし、おくびにも態度に出さなかったからだ。
俺の意外そうな顔に気がついたらしい。
続けて、康太は言った。
「そりゃあ、そうだろ。歳の差だってあったし、何よりいとこ同士だ。そんな奴らがつき合っているなんて知ったら、気持ち悪がる奴らの方が多い。俺たちはなるべく、周囲に関係が悟られないように振る舞った。それでも俺たちの間には、確かな愛情があった。やっぱり俺はまだガキだけど、今も昔も、そうだったと信じているよ」
彼は語り終えて、普段は見せないような自虐的な顔を浮かべた。
「どうして、彼女は亡くなったんだ?」
「交通事故だった。学校の帰りに信号無視の車に撥ねられて、そのまま救急車の中で息を引き取った」
因果な話だ。
俺も、彼の想い人も、そして本人さえ、交通事故という要因で短い人生を終えてしまったのだから。
「口にすればするだけ陳腐だけどさ、マジで簡単に人って死んじまうんだよな。そこに感動的なドラマなんて残すことなく、あっさりと人は死ぬ。そう思ったらほんの一時だけど、何もかもがどうでもよく思えてきた時期があった」
「この世界に、果たして価値などあるのだろうか」
「こんなクソみたいな世界、わざわざ必死な顔して生きてやる義理があるのか」
俺たちは重なるように言い合って、そして二人で笑い合った。
「実に中学生らしい悩みじゃないか。青春そのものだ」
俺の小言を無視して肩を小突くと、康太は再び語り始めた。
「学校も、サッカーも、仲のいい友達も、言い寄ってくる女たちも、何もかもが色のくすんだ無価値なものに見えた。馬鹿みたいな顔をしながら、当たり前のように生きている奴らが許せなかった。そんなものは全て投げ捨てて、身軽になって生きた方が楽なんじゃないかって、何遍も、何遍も自問自答した」
おそらくそれが答えなのだ。
本来の世界で彼は悩みに悩み抜いた末に、身の回りのものを全て投げ出すという選択を実際に下してしまった。
価値の転倒。
彼は生ける不条理として、その先の人生を生きることに決めた。
長嶋たちに取り入って、幼馴染である俺を彼らに売った原因も、元を正せばそこにあるのだろう。
まるでペストのように、なるべく多くの人間に不条理をばらまくことが、宮内康太の生きる目的となったのだ。
そして最終的に、彼は自分さえ殺してしまった。
享年十七歳。
それは奇しくも、若くして亡くなった彼の恋人と同じ年齢だった。
本来の世界で、宮内康太は深夜の山道でバイク事故を起こし、運悪く地表まで数百メートルある崖から落下して死亡した。
岩肌や木々にぶつかりながら地面に叩きつけられ、その遺体は原型をほとんど留めないほど損傷していたと聞く。
中学を卒業してから、彼がどのような人生を送っていたのか俺は知らない。
きっと多くの人に憎まれてきた人生だったのだろう。
たまに母親経由で話が入ってきたような気がするが、彼の現状など聞きたくなかったし、その訃報を聞いた時はざまあみろとさえ思った。
青臭い高校生に、自分の全てを奪った人間を許す度量などあるはずがなかった。
彼の葬式に参加することもなく、俺は大人になるまでひたすら彼を憎み続けた。
ただ一つだけ。
彼が死んだ日の夜は、とてつもなく綺麗な満月が浮かんでいたのを覚えている。
ああ、きっと康太はこの月が欲しかったのだなと、ふと思った。
どこまでも届かないそれをバイクで追いかけて、気づけば空を舞って煌々と青白く輝く星を掴もうとしたのだ。
そんな取り止めもない空想だけが、かつて心の底から憧れた幼馴染に俺が唯一捧げた追悼だった。
「だけど、お前は踏みとどまった。境界線を彷徨いながら、それでもこっちに戻ってきた」
「情けない話だ。結局、俺は何食わぬ顔で、あれだけ嫌悪していた日常に舞い戻った。彼女の死に、何一つ報いることができなかったんだ。今すぐ消えたくなるほど、惨めな気分だったよ」
康太は吐き捨てるように言うと、再び気力をなくしたように大の字で寝転がった。
形にならない複雑な思いに駆られながら、俺はその横顔を眺めていた。
「でも、お前は一人で頑張ったよ。……この世界はそれ自体として、人間の理性を超えている。昔のノーベル賞作家はよく言ったものだ。考えるだけ無駄なことなのに、生きる以上それについて考えなくちゃならない。忌々しいことに、そんな矛盾でこの世界は溢れ返っているんだ」
「意味の分かんねぇこと言ってんなよ。哲学者気取りか?」
「そんなんじゃない。でもきっと、大事なことなんだ」
今は理解できなくてもいいし、しなくてもいい。
だって君の人生は、まだまだこれからなのだから。
考える時間も自由もこの先いくらでもある。
心の中でそっと彼に語りかけた。
康太は「そっか」と気のない返事をしてから、全ての興味を失ったように目を閉じた。
俺も彼に倣って、ゆっくりと目を閉じた。
眩しい日光が視界に入らなくなると、途端に川を流れる涼しげな水のせせらぎが聞こえてきた。
そこに爽やかな風が髪を攫って吹き抜けていく。
次第に緩やかな眠気が意識を包んでいった。
「――この世界は、そのままでは耐えられない代物だ。だから俺には月がいる、あるいは幸福、あるいは不死、常軌を逸しているかもしれないが、この世のものではない、何かが必要なんだ」
不意に頭上から、どこか芝居じみた、よく響く台詞が聞こえてきた。
そうだ。
ローマ帝国の狂った皇帝が発した、不条理に対する反抗宣言だった。
まるで歌うように発せられた、男性のような低さで発せられた脳が蕩けるテノールボイス。
怒りに任せて吠え立てるような荒々しさの中に、抑えきれない切実さが隠されているように感じた。
その声を聞いて、俺の意識は一気に覚醒した。
反射的に顔を上げると、青空を背景として目の前にこちらを覗き込む少女の顔があった。
「あなたたち、何やってるんですか?」
その顔の近さに驚いて、俺は急いで起き上がった。
「……なんだよ、日聖か。あんまり驚かせないでくれ」
「永輔の彼女か。こんなところで奇遇だな」
康太はとっくに彼女の存在に気づいていたらしく、顔色一つ変えずに俺たちのやり取りを眺めていた。
「たまたま近くを歩いていたら見かけたので、声をかけたんです。ずっと前から側にいたんですが、何やら込み入った話をしている様子だったので、今まで機会を待っていたんですよ」
これっぽっちも申し訳なさそうな態度を見せず、日聖は真顔で言った。
その言葉を聞いて、俺は反射的に顔を熱くする。
これまでのやり取りは、ずっと彼女に見られていたわけだ。
基本的には品行方正で優等生を気取っているが、こういう時に生来の人の悪さが顔を覗かせるのが日聖愛海という少女だった。
当然ながら、彼女は私服姿だった。
無地の白いTシャツにデニム生地のショートパンツ、それにリボンつきの白いキャプリーヌを被っていた。
そういえば彼女の私服を見るのは、これが初めてかもしれない。
俺が日聖を見つめていると、嫌らしい笑みを浮かべて康太が横から小突いてきた。
「やっぱお前の彼女、面白い奴だな。ぴったりの女じゃないか」
「日聖は彼女じゃないよ」
「彼女じゃありません」
俺たちが同時に否定の言葉を口にしても、彼は意に介した様子もなくけらけらと笑っていた。
「一応挨拶しておきますが、永輔くんのクラスメイトの日聖愛海です。よろしくお願いします、宮内さん」
日聖はやや事務的な声色で、康太に名乗った。
「ああ、宮内康太。永輔の幼馴染だ。よろしくな」
「それで、あなたたちはここで何してたんですか?」
「特に何をしてたってわけでもない。二人でキャッチボールをやっていたけど、飽きてしまった。今はこうして寝転んで、適当に休んでいる」
「なんですか、それ。青春ですねぇ」
日聖が呆れて言うのも無理はない。
傍から見れば、俺たちはなんて馬鹿らしい青春を演じているのだろうか。
改めて自分たちを客観視してみると、途端に小っ恥ずかしさが込み上げてきた。
「隣、いいですか?」
彼女はそう声をかけてから、俺たちと同じように芝生の上に寝そべった。
「服、汚れないか?」
「ちょっとぐらい、構いません」
何でもないように答えて、日聖は四肢を大きく広げた。
こうやって同級生の中学生同士、川辺で寝そべりながら午後の一時が緩やかに流れていく。
自分たちの行動に恥ずかしさがないかと聞かれれば嘘になるが、それよりも心地良さが勝った。
こちらを盗み見てくる人々の視線も、今だけは気にならなかった。
日聖が『スタンド・バイ・ミー』を口ずさみ始める。
その綺麗な音色に導かれて、再び瞼が重くなってくる。
一度死んだ人間が言うのもおかしいが、長い人生からしてみればこんな時間などたった一瞬に過ぎないのだろう。
だとしても俺はこの風景と感覚を、例え二十五歳になったとしても、それこそ死ぬ直前まで昨日のように思い出すことができる。
それは予感じゃなくて、確かな輪郭を持った確信だった。
永遠はこの一瞬の中にある。
その言葉の意味を、ふと実感として掴めたような気がした。
こんな時間が永久に続けばいいと、心の底から思った。
しかし、もうこの安寧に安住し続けることはできない。
愛する人だけのヒーローに康太はなろうとした。
そのために全てを投げ打って、不条理に命を奪われた彼女に尽くそうと短い人生を祈りで捧げた。
ならば俺だって、千賀燎火だけのヒーローになってみたいと思った。
ひたすらがむしゃらに、恋する彼女のために全てを捧げたいと思った。
覚悟なんて、たったそれだけで良かった。
俺は自分の浅はかさを今一度嘲笑って、それから口を開いた。
「なあ、日聖は知ってるかもしれないけど、俺には好きな女の子がいるんだ。千賀燎火って名前の子だ」
はっきりと顔を上げて、大空に向かって宣言するように俺は言った。
「好きな女? 千賀燎火って、どこかで聞いたことがある名前だな」
「例の噂がある女の子ですよ」
「ああ、母親から虐待を受けてたらしいっていう噂だ」
俺はあえて濁さず、ストレートな言い方をした。
「今でこそ他人を寄せつけない言動を続けているが、以前はそんな性格じゃなかった。彼女が変わってしまったのは、虐待をしていた母親が自殺してしまってからだ。だから俺は、彼女の心を助けたいと思っている」
「で、それを俺たちに告白して、お前はどうしたいんだよ」
「変な頼みだということは承知しているけど、お前たちにもそれを手伝って欲しいと思っている。これはさ、俺なりの『反抗』なんだよ。何を言っているか分からないだろうが、俺は神さまの悪趣味な余興につき合わされているんだ。だから俺は、そいつに目にもの見せてやって、悔しさに染まった無様な顔を眺めて存分に笑ってやりたい」
「ものの例えだけどね」と、最後につけ足す。
随分とおかしなことを口走っている自覚はあった。
恐る恐る、二人の顔色を伺った。
「お前、やっぱり変わったな」
心配は杞憂で、気づけば康太は堰を切ったように笑い出していた。
「サッカー引退して、丁度暇してたんだ。なんか知らないけど、手伝うよ」
「私は永輔くんの頼みだったら、何だってつき合いますよ」
日聖もそっけない顔をして、そう言ってくれた。
「ありがとう、二人とも」
感謝の言葉を繰り返す。
もう腹は括った。二人を巻き込んだ以上、後戻りはできない。
神さまへの反抗なんて、中学生冥利に尽きるじゃないか。
十年越しにようやく俺が手にした青春は、随分とパンキッシュで刺激的なものになりそうだった。
二度と忘れることのできない夏が、始まろうとしている。
それは実際、一生忘れられないロマンスの夏になったわけだ。
A・カミュ『アルベール・カミュ (1) カリギュラ (ハヤカワ演劇文庫 18)』(石切正一郎訳)より引用




