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拝啓、廻る季節に君はいない。  作者: 日逢藍花
第二章 夏の断章 -Romance-

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幕間3-②

 高校生活の記憶は、ほとんど残っていない。


 相変わらず孤独な日々を過ごし、貴重な青春の三年間を不意にした。


 幸運にもいじめのようなものを受けることはなかったが、失意の底から抜け出せないまま、友人も恋人もできずに気づけば卒業式の朝を迎えていた。


 当然のように大学受験も失敗し、そのまま浪人生活が始まった。

 

 俺はこの時になって、ようやく自分の現状を改善しようという気になった。


 ある日突然、将来に対する不安が奔流のように押し寄せたのだ。


 挫折による感覚の痙攣が次第に収まり、人生の階段から転げ落ちて行く恐怖を直視できるようになったのだろう。


 その日を境にして、俺は人が変わったように受験勉強に励むようになった。


 寝食を忘れ、ひたすら目の前の参考書に齧りつく毎日を送った。


 果たして、その努力は実った。


 一年後、俺は志望校だった県で一番偏差値の高い公立大学に合格することができた。

 

 親父も母も素直に、俺が大学に合格したことを喜んでくれた。

 

 知らない土地で一人暮らしを初めて、俺はやっと自分が生まれ変わった気になった。


 一から人生をやり直そうと、固く決心した。


 大学生活は、最初こそ順調だった。


 同じクラスになった数人とガイダンスの日から運良く意気投合し、興味のあった幾つかのサークルの新入生歓迎会にも顔を出した。


 悩んだが、サークルは映画研究部に入った。


 授業も欠かさず受講し、昼はクラスの友人と共に食堂で昼食を取る。


 素晴らしいキャンパスライフの口火を切れたと思っていた。



 だが、そんな日々は長続きしなかった。


 何か劇的な理不尽に襲われたわけではない。


 自分でも小首を傾げるような理由で、俺は素晴らしい大学生活を不意にしてしまったのだ。


 大学生としての日々を送る中で、次第に自分は本当にここにいてもいいのかという懐疑心が芽生えていった。


 金をかけて景観良く整備されたキャンパスと、希望に溢れきった顔で行き交う大学生の群れ。


 彼らの姿を目にする度に、自分という存在がことごとく否定されているような気がした。


 俺のような人間が今さらどう足掻いたところで、彼らと同列に並ぶことは不可能なのではないか。


 今にこの安息の日々さえ、不条理に奪われてしまうのではないか。


 そんな悪魔の囁きが、常に耳元で流れているような気がした。


 被害妄想としか言いようのない強迫観念は日に日に強くなっていき、前期の後半にはほとんど授業に出席せずに、自宅のアパートに篭もるようになっていた。

 

 俺は自宅に引き篭もって、ひたすら小難しい哲学書やら思想書やらを紐解くことに集中した。


 小難しいテキストに意識を集中させていなければ、自分という存在がばらばらに霧散してしまいそうだったのだ。


 日中は家を出ることに恐怖を感じるようになり、深夜にイヤホンから流れる音楽で外界を遮断しなければ、外出さえできないようになっていた。


 日用品や食料は全て通販で揃えるようになり、親からの仕送りは無為に消費されていった。


 輝かしいキャンパスライフを送る大学生から一転して、気づけば俺はどこに出しても恥ずかしくない立派な社会不適合者に変貌していた。


 浪人時代にあれほど恐れていた自分が墜落して行く感覚さえ、その時の俺にはどこか心地のいいものに思えた。


 完全に感覚が麻痺してしまっていたのだ。


 結局、前期の成績は凄惨たる結果に終わった。


 それでも後期から心を入れ直して授業に出席すれば、四年生までに十分単位を取り戻せるだけの余裕があったはずだ。


 だが俺には、これ以上は無理だという確信があった。


 もはやこれ以上、自分にわずかながらの自信も持てなかったのだ。


 決断は早ければ早いだけいい。


 俺は潔く、大学を自主退学することに決めた。


 折角できた友人たちも二、三度だけ、心配を寄せるメッセージを送ってくれただけだった。


 心残りは何もなかった。


 ある日、親父に電話で大学を辞めたいと告げた。


 声を荒げて反対されるかと思っていたが、違った。


 極めて冷静な声で理由を尋ねられ、正直に答えた。親父はあっさりと、俺の自主退学を認めてくれた。


 理解ある反応と肯定的に捉えられるかもしれないが、おそらく違うだろう。


 彼は暗に俺を責めていたのだ。


 一時でもお前に期待した俺が馬鹿だった、と。



 異様に長い夏休みが、ようやく終わった。


 後期の授業が始まって間もない十月のある日、俺は風邪を引いているわけでもないのにマスクを着けて、実に数ヶ月ぶりに家を出た。


 玄関の扉を開けた瞬間、差し込んできた夥しい光の束に目が眩んだ。


 気づけば、俺はその場で無様に転んでいた。


 平衡感覚が中々掴めず、起き上がるのには時間がかかった。


 その間、通りかかる通行人に情けない姿を晒してしまった。


 通りかかった学生たちの嘲笑う声が、傷だらけの胸に冷たく残響した。


 アスファルトで手のひらと肘を擦りむいたらしく、血がぽたぽたと流れて地面を赤く染めていた。


 ようやく俺は立ち上がり、大学を目指して歩みを始めた。


 ここで部屋に引き返したら、もう二度と外には出られないと思ったからだ。


 まるでサルトルの『嘔吐』のように、目の前の人々や植物が何か得体の知れないグロテスクなもののように見えた。


 ひっきりなしに襲ってくる吐き気と頭痛、耳鳴りに堪えながらなんとか大学まで辿り着いた。


 久々に足を踏み入れた大学の構内は、相変わらず若者たちの目の前には希望しかないという顔で溢れ返っていた。


 まず俺が足を運んだのは、トイレの個室だった。


 そこで存分に酸っぱいものを吐いてから、学生課まで向かった。


 絶えず吃りながら、受付に事情を話して退学届を発行してもらった。


 担当した職員は絶えず呆れ顔を浮かべながら、実に気怠そうに話を進めていた。


 それもまあ、無理からぬ話ではない。


 それから様々な手続きをこなし、ようやく一ヶ月後に書類と学生証を学校に提出して、俺は晴れて大学を中退した。



 半年も在籍していなかったというのに、帰り道に大学を去る際、もう二度とこの門をくぐることはないのだという哀愁に駆られた。


 敷地を出た途端、目の前の世界が変わって見えたような気がした。


 これでもう俺は、真っ当な人生のレールから完全に外れてしまったのだ。


 この先もう二度と、同じ道に戻ることはできやしないのだろう。


 しみったれた感傷はそれ以上湧いてくることなく、なぜか不思議と爽やかな心持ちだったのを覚えている。


 あれだけ纏わりつくようで気持ち悪かった陽の光が、程良く冷えた秋の澄んだ空気と相まって、とても心地よいものに思えた。


 あれだけ違和感を伴って目に映っていた景色が綺麗だと、素直に感じられた。


 うっすらと紅葉した針葉樹。


 雲一つ見当たらない、抜けるような青空。


 狭い舗装道路を行き交う、通行人や自転車の数々。


 その全てが息づいていた。


 気づけば、それまで感じていた頭痛や吐き気が嘘のように引いていた。


 皮肉な話だ。


 何もかもを失うことで、俺は正常な感覚を取り戻したらしい。


 人並みの人生へ通ずる乗車券と引き換えに、ようやくまともな人間になれたのだ。


 将来の展望などありはしなかったが、目の前の景色はどこまでも続いているように見えた。



 何も持たない者は無敵だ。空手空拳こそ最強だ。

 

 失うということがないから、どこまでも強く生きることができる。

 

 絶望とは無縁の人生を送ることができる。

 

 そう信じていた。

 

 俺はあの時確かに、もう失って困るようなものは求めまいと誓ったのだ。 



 狂乱の季節は移り変わり、やがて彼女と出会う冬がやってくる。

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