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拝啓、廻る季節に君はいない。  作者: 日逢藍花
第一章 春の断章 -Comedy-

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春の断章⑦-1

 千賀宅を訪れた、その日の晩。


 俺は自室で、地元の図書館から適当に借りてきた本を読むことに集中していた。


 ショーペンハウアーの『意思と表象としての世界』。


 ようやく、その二巻に差しかかったところだった。


 ひたすらに長くて難解なテキストは、目の前の入り組んだ現実を一時でも忘れさせてくれた。

 

 流石に集中力が切れてしまい、一旦本を机に置いた。


 深く息を吐きながら、鍵のついた机の引き出しを開けて一番奥をまさぐり、一本の煙草とライターを取り出した。


 親父の部屋からくすねてきたものだ。


 怪しまれないように細心の注意を払っているため、一ヶ月間で精々二本しか手に入れられない貴重品だった。


 酒の方も、親父が買ってきたものを時たま頂戴している。


 そちらもボトル入りのワインや日本酒をほんの少し入手するのが関の山だった。

 

 いずれにせよ、貴重品に変わりがない。

 

 部屋に臭いが残ると厄介なので、いつも窓から顔を出して吸うようにしていた。


 衣服に匂いがつかないように注意し、終わった後は部屋中に消臭スプレーを吹きかけて、さらにうがいと歯磨きを念入りにするようにもしている。

 

 そこまで骨を折って俺が煙やアルコールを摂取するのには、単にそれらを摂取したいという欲求以上の目的があった。


 自分が本来はしがないフリーターであるという事実を忘れないために、あの苦渋を舐め続けた十年を無にしないために、それらは必要だった。


 言うなれば、それは一種の儀式のようなものだ。


 実に非生産的ではあるが、俺は一種の強迫観念に駆られて一本の煙草を吸うために四苦八苦していたわけだ。


 これまで何ら怪しまれずに悪事を済ましていたが、その日はどうもタイミングが悪かった。


 いつものように吸っていると、突然部屋の戸を叩く音が聞こえてきたのだ。

 

 俺は急いで吸っていた煙草の火を縁に押しつけて入念に消火すると、残りをティッシュに包んでゴミ箱の奥に突っ込んだ。


 証拠隠滅は不十分だったが、あまり時間をかけても怪しまれるので、腹を括って仕方なく扉を開けた。


 するとそこには、いつになく神妙な顔をした親父が立っていた。


「ちょっと話があるんだ」


 彼はそう言って、俺を呼び寄せるように手招きした。


 心臓が高鳴った。


 まさか喫煙がバレたのではないかと肝を冷やしたが、俺は素直に頷いて親父に着いていった。


 リビングのダイニングテーブルの前では、これまた思い詰めた顔をした母が律儀な姿勢で座っていた。


 親父は母の隣に胡座を掻いて座ると、俺にも座るように促した。


 粛然とした空気に呑まれ、俺は黙って正座で座った。


 その間も面倒なことになったという思いだけが、思考の余白を埋め続けた。


 親父は腹立たしげに頭を掻いて、低い唸り声を出すと重々しく言った。


「……今までお前に黙ってて悪かった。実はな、俺たち、しばらく離れて暮らすことに決めたんだ」


 それは俺が懸念していた詰問とは、まったく異なるものだった。


 考えていたことが強制的に漂白される。


 理解が追いつかず、「は?」と素っ頓狂な声が漏れた。


 母の方を見ると、いつの間にか両の手のひらを目元に埋めて泣いていた。


 父の発言が茶目っ気のある冗談の類ではないことを、その痛ましい姿が鮮明に物語っていた。


「二人で何度も話し合って決めたことなんだ。お前には迷惑をかけるが、どうか理解してくれないか」


 両親たちの仲がこじれて別居する。


 そんな事件が起こるなんて記憶は一切なかった。


 互いに気まずい雰囲気が流れていた時期もあったが、それは俺が人生に挫折してからの話だ。


 それもある時期を過ぎてからは、俺という失敗作を息子に持った哀れな被害者として、互いに同情しあって結束を強めていたような気さえする。



 ふと頭に浮かんだのは、あの日カンナと名乗った女性が最後に残した言葉だった。


「期限の日まで、幸福は起こるように起こり、そして不幸も起こるようにして起こります」


 その意味をようやく理解した。


 それはつまり、俺が千賀燎火に執着すればするだけ、お膳立てられたこの世界の秩序は崩れていくということなのだ。


 彼女からすれば、両親の別居という展開さえほんの軽いジャブ程度のものなのだろう。


 それが嫌だったら、さっさと彼女への想いを捨ててしまえと言いたいわけだ。


 幸福な世界か、千賀燎火か。


 どちらかを選択して、どちらか一方を失うというこのふざけた余興は、やはり俺がこの世界への執着にどこまで反抗できるかを試すものなのだ。


 それを彼女は、ポップコーン片手に特等席で眺めている。


 その様はさぞかし愉快なエンターテイメントとして、彼女の目に映っているのだろう。


 それからも親父と母は必死な顔で滔々と何かを語っていたが、内容は頭に入ってこなかった。

 

 両親の自己憐憫に満ちた顔を眺めながら、俺は心の中で神を呪った。



 何が神さまだ。お前のそれはほとんど悪魔のやり口じゃないか。

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