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拝啓、廻る季節に君はいない。  作者: 日逢藍花
第一章 春の断章 -Comedy-

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春の断章⑥-3

 「怒られちゃったね」


 日聖がぽつりと言った。


 俺たちは自転車を引きずりながら、とぼとぼとした足取りで帰路の坂道を昇っていた。


 夕暮れの日光が悪あがきと言わんばかりに容赦なく照りつけ、ワイシャツの下は汗でしとどに濡れていた。


 水筒の中のスポーツドリンクは、とっくに尽きてしまっていた。

 

 耐え切れず、道中で見かけた自販機でジュースを買う。


 俺はペットボトルの緑茶を選び、日聖は缶のサイダーを選んだ。


 昔よくやったようにそれを脇の下に挟み込むと、ひんやりと心地いい感覚が脳幹を満たしてくれた。


 千賀氏から情報を聞き出すのは失敗してしまった。


 あんな事件が起きてしまったのだ。


 この先、彼女と接触できる可能性は完全に潰えてしまったと言える。


 どうやら俺は、考えうる限り最悪の結果を引き寄せてしまったらしい。


「永輔くん、大丈夫だよ」


 先に沈黙を破ったのは日聖だった。


「気にしない方がいい。別に彼女は、永輔くんだから怒ったわけじゃない。もし同じ状況で別の人が彼女の家を訪ねていたら、同じような反応をしていた。それだけの話なんだから」


 そうなのだ。


 問題は貴重な情報源を失ってしまっただけではない。


 彼女に正々堂々と怒りを向けられ、拒絶されたこと。


 シンプルな禍根ゆえに根深い痛手だった。


 確かに日聖の言葉は、一面では間違いなく正しいのだろう。


 彼女は福島永輔だから感情を露わにして、自分の家から追い出したわけではない。


 おそらくは。


 だからと言って、それで俺が千賀燎火に真っ向から拒絶されたという事実が消えるわけではない。


「……違うよ。俺が踏み込み過ぎたんだ。気を焦った。だから彼女に嫌われるようなことをした俺が悪いんだ。お前にも気持ち悪い思いをさせてしまって、どうもすまなかった」


 日聖はなおも微妙な顔を浮かべたまま、俺の謝罪に返事をせずにぽつりと言った。


「正直言って、私は千賀さんのことあんまり好きじゃない」


「え?」と、俺は思わず聞き返した。


 面食らってしまった。


 俺の知っている日聖愛海という少女は、わざわざ他人の否定的な評価を口にするような人間ではなかったはずだ。


「……いや、この言い方は少しずるいかな。私は千賀さんのこと、嫌い」


 そして、はっきりと嫌悪を口にした。


 しかし考えてみれば、日聖が千賀燎火に嫌悪を抱くのも分からない話ではない。


 むしろこの世界では、彼女に好意を抱いている人間の方がずっと少数派なのだ。


 陣西中学の学生で彼女に好意を抱いている人物なんて、それこそ俺ぐらいのものだろう。


「ごめん、爽やかな話じゃなかったね」


「気にしないでくれ。それがお前の偽らざる気持ちだったら、それに対してとやかくいう資格は俺にはないんだから」


「むしろ私は永輔くんに訊きたかった。なんで君は彼女のことが好きなの?」

 

 少し悩んだが、正直に答えることにした。


 変に誤魔化さない方が、こういう場合は正しいと思ったからだ。


「彼女は俺を救ってくれた。何も持たない空っぽな俺に、再び生きる意思を与えてくれたんだ」


「生きる意思?」


「ああ、人が人として生きるための必要条件みたいなもんだよ」 


「それって答えになってないよ」


「言葉にできるようなものじゃないし、そもそも言葉にする気がないからな」


 日聖は「なんだよ、それ」と言って、不意に手に持っていたサイダーの缶を首筋に当ててきた。


 冷たい感覚が走って、思わず身体が震えてしまう。


 その反応を見て、彼女は久しぶりに無邪気な笑い声を立てた。


「さっきの言葉は忘れてくれ。でも、これだけは言っておくよ。やっぱり人は心臓が動いてるだけじゃ、生きているとは言えないんだ。だからこそ、人生っていうのは難しいんだよな」


 俺は真面目な顔で向き直って、日聖の澄んだ瞳を探りながら言った。


 説教や啓蒙なんて大層なことをできる立場じゃないのは、重々承知だった。


 それでも俺が彼女たちの幸せを思って捧げられることなんて、敗北を重ねて得てきたわずかな理屈ぐらいしかなかったのだ。


 脈絡なく自転車のチャイムを鳴らして、日聖は噛み締めるように頷いてくれた。


 それから堅苦しくなった場の雰囲気を弛緩させるように、笑って彼女の方から新しい話題を切り出してきた。


「でもさ、意外だったよ。私の知らないうちに、いつの間にか永輔くんと千賀さんがそんな仲になっていたなんて」


「昔にちょっと、な」


 日聖の興味ありげな視線から露骨に目を逸らして、俺はそう誤魔化した。


 稚拙な方便だったが、他に適当な言葉が見つからなかったのだ。


「そっか。でも、やっぱり私は千賀さんのこと、好きになれないな。彼女は甘えてるよ。貴重な他人からのかけ値なしの好意を無碍にして、不幸な自分に酔っている」


「それは仕方がないさ。人は不幸の只中にある時こそ、積極的に自分を呪ってしまう生き物なんだ。そうやって空回りして周りを辟易させても、本人は本人で必死にやってるつもりだし、実際やってるんだろうから始末が悪い」 


 日聖の非難は、骨身に沁みるほどよく理解できた。


 その言葉は千賀燎火を通り越して、俺にもそのまま突き刺さるのだから。


 俺だって本来なら、日聖が見ているほど立派な人間ではない。


 この外観は奇跡によって与えられた仮初の姿で、その中身は日聖が嫌う人間と同類以外の何者でもない。


「なあ、日聖。お前はさ、見かけは同じでも性格や心の変わってしまった奴を、同じ人物だとみなせると思うか?」


 気づけば俺は、日聖にそんなことを尋ねていた。


 それがつまらない問いだということは理解していた。


「もしかして、千賀さんのことで悩んでいるの?」


 勘の良い彼女は、即座に察したらしい。


「そうかもしれないな。人格の同一性。人はどこからどこまでがその人なのか。今の千賀燎火は、果たして本当に俺の知っていた千賀燎火と同一の存在なのか」


「とても難しい問題だね。それこそ現在進行形で、髭っ面のおじさんたちが議論しているような問題だ」


 そんなことは、わざわざ指摘されるまでもなかった。


 哲学の「て」の字も知らないであろう、中学生に問うような問題ではないのかもしれない。


 それでも俺は、他ならぬ日聖愛海の答えが聞きたかったのだ。


 しばらく日聖は、「うーん」と唸るような声を出して悩んでいた。


 炭酸の抜ける音が聞こえた。


 開けたサイダーを一口呷ってから、ようやく彼女は口を開いた。


「そんなこと、最初から問題にしなければいいんじゃない。問題にしちゃうから、悩んでしまう。悩んで、悩んで、その問題を解決しようと必死になる。でもそんな問題、最初から解決のしようがないんだから、建設的じゃないよ」


 俺はその答えを聞いて、思わず吹き出してしまった。


 彼女の答えが稚拙だと思ったからじゃない。


 その返答が、あまりに日聖愛海らしかったからだ。


「ねえ、そんなに変な答えだった?」


 案の定、彼女は眉を吊り上げて非難を向けてきた。


 俺が引きずっていた自転車を器用に片足で蹴り上げる。


 少しよろめきながら、俺は「違うよ」と否定の言葉を繰り返した。


「いかにも日聖が言いそうな枠に囚われない返答だったから、つい面白くなってしまったんだ。決して、馬鹿にしたわけじゃないさ」


「……それって褒めているか貶しているのか、すごく微妙な感想じゃない?」


「褒めてるんだよ。それに昔の天才と言われた哲学者にだって、お前と同じようなことを言った人間はいたんだ。俺はいつだって日聖のこと、すごい奴だと尊敬しているさ」


 その言葉で、日聖はようやく機嫌を直してくれたらしい。


 こちらに向き直って、缶を揺らしながら真面目な顔で言った。


「私が言いたかったのは、そんな髭もじゃおじさんたちの議論なんて、最初から気にするだけ無駄なんじゃないかってことだよ。ねえ、永輔くんは千賀さんが別人になってしまったから、もう好きじゃなくなったの? 人格の同一性が保証されないから、もう彼女のことはどうでもよくなったの?」


 俺は今度こそ、彼女の言葉にはっとした。


 問題は深遠な難問をどう解消するかじゃない。


 建設的かどうかにこそ、問題の核はあったのだ。


 今は目の前の生き生きとした世界に目を向けるべきで、机に置かれた分厚いテキストに目を向けるタイミングではない。


 世の中は時として、精緻で小難しい議論より、粗くて無教養な暴論の方がずっと価値があることもある。


 問題の真髄は、最初から俺の態度にしかなかったのだ。


 そのことを十歳も歳の離れた少女に思い知らされた。


 情けない話だ。


 これでは大人のプライドも何もあったものではない。


「日聖、ありがとう。お前のおかげで、目が覚めた気がするよ」


「それは何よりだ。でも、これは貸しだからね。いつかきっと返してもらうから、心しててね」


 やはり彼女のそういうところは、十年前から何も変わらない。


 俺はようやく前向きな心持ちになって、鼻を鳴らした。


「だったら、すぐに返させてくれ。夕飯、どこかに喰いに行こう。奢るよ」


 日聖は「本当? やった」と小さな歓声をあげると、突然自転車を引きずりながら駆け出した。


 十メートル前方に置かれていたゴミ箱に用があったらしい。


 彼女はサイダーの缶を捨てると、自転車のベルをちゃりんちゃりんと二回鳴らして俺を待った。


 白い歯を覗かせながら笑顔を見せる彼女を眺めて、俺は愛おしく思うと同時に一抹の不安をよぎらせる。


 もしも俺が千賀燎火への愛を選んだら、彼女は再び不条理に奪われてしまうのだろうか?


 ようやく日聖の言葉で、踏ん切りがついたと思った。


 それでも後ろ髪を引かれしまうのは、仕方がない話ではないか。


 誰が聞いたって、きっと責められる話ではないはずだ。

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