春の断章⑥-1
翌週から、体育祭の準備や練習が本格的に始まるようになった。
二十代も後半を迎えたフリーターからしてみれば、体育祭という響きはどこか異国の行事名のように聞こえるものだ。
そんなものがこの世に存在していたことさえ、久しぶりに思い出した気がする。
中学生たちに混じって応援やら行進やらの練習をするのは、正直に言って死ぬほど恥ずかしかった。
そう簡単に割り切れるものではない。
己の性格を抜きにしても、それが二十五歳の精神にとって耐えがたいという事実は覆らないのだから。
しかし、それぐらい幸福な世界の対価としては安過ぎるぐらいだ。甘んじて受け入れるしかない。
俺はなるべく心を無にすることに努めて、他の学生にとっても意味のなさそうな練習に励んだ。
梅雨を目前に控え、気温と湿度は加速度的に高くなってきている。
少年の身体とはいえ炎天下の中で駆け回るのは、慣れない者にはきついものがある。
練習のたび、直射日光の火照りで頭がやられそうだった。
放課後になると俺は急いで教室に戻って、水筒の中の水を飲み干すのが恒例になっていた。
その日も午後の時間をまるごと使って、予行練習が催された。
いつもと同じように水分を求めて、新田たちと共に急いで教室へ引き戻す。
スポーツドリンクの柔らかい甘みが、多量の水分と共に熱を蓄えた五臓六腑に染み渡った。
大人になってからはめっきりと経験することのなくなった快感に、思わずため息を吐く。
余韻に浸っていると、後からやって来た日聖がそっと声をかけてきた。
「先生に頼まれて、これから千賀さんの家に配布物を届けに行くんです。もし良かったら、一緒に行きませんか?」
体育祭の練習が始まると同時に、千賀燎火は連日学校を休むようになった。
誘いに乗るかどうか考える時間が欲しかったが、日聖が俺のために気を利かせてくれたことを察して咄嗟に答えを出していた。
「ああ、ありがたく同行させてもらうよ」
彼女の実家に赴くことに緊張はあったが、何か情報を手に入れるいい機会だと思った。
それに、彼女の近況も気になるところではあった。
清掃の後、教室で日聖と落ち合って学校を出た。
千賀宅はそれなりに遠いらしく、まず移動手段について話し合った。
冗談なのだろうが、日聖は自分の自転車で二人乗りすればいいと提案してきた。
流石に無理があるだろうと、俺は一蹴した。
違法行為だし、何より誰かに見つかった時にどう言い訳すればいいのか。
すると日聖は、渋々といった顔で妥協案を出してきた。
学校の近隣にある彼女の自宅に一旦立ち寄って、もう一つの自転車を俺が借り受けるというものだった。
幸い、二歳離れた弟の自転車があるらしい。
少し小さいだろうが、俺ぐらいの身長であれば乗れるらしい。
そんな過程を経て、まずは日聖の自宅へ徒歩で向かった。
初めて立ち寄ったが、彼女の家は隣に立ち並ぶ民家よりも明らかに規模が大きかった。
四方を塀に囲まれ、黒く反り立った瓦屋根が張り出した和式住宅。
大型のガレージが隣接していて、壁には一点のくすみも見当たらなかった。
薄々は分かっていたが、日聖はそこそこ良い家の出身らしい。
「遠慮せずにどうぞ」
先に足を踏み入れた日聖に促され、一礼してから恐る恐る門をくぐった。
「午後の練習で、永輔くんも疲れてるでしょ。私の部屋で休憩してお茶飲む?」
「いや、構わなくていいよ。早く役目を果たしてしまおう」
俺が断ると、日聖は「じゃあ、少し待ってて」と言い残して家に入っていった。
それから三分も経たないうちに、これ見よがしにゆらゆらと鍵を揺らしながら戻ってきた。
「使っても大丈夫だって」
「ありがとうな」
そう言って、彼女に微笑みかける。
日聖がガレージの扉を開け、中から紺を基調とした自転車を持ってくる。
全体的に一回り小さくて椅子が窮屈だったが、短時間使用する分には問題ない。
千賀燎火の自宅は、町の中心からは若干離れた山岳側にあるそうだ。
陣西町は田舎町なのであまり入り組んでおらず、直線的な道路が多い。
日聖は担任の教師に渡された地図を数回確認しただけで、目的地まで案内してくれた。
「ねえ、永輔くん。まさかとは思うけど、休む時間も惜しいほど千賀さんに早く会いたかったの?」
信号を待っている間、日聖がそんなことを訊いてきた。
野次馬根性をこれっぽっちも隠すつもりのない、からかうような笑みを浮かべながらだ。
俺は信号から視線を外さず、質問を無視して沈黙を守り続けた。
実際に移動するうちに、緩やかな推測が確信へと変わっていった。
千賀燎火の実家は、あの陣西神社のすぐ近くにあったのだ。
境内の麓にある住宅地の一軒が彼女の家だった。
神社との距離は、ほんの数百メートルあるかないかだろう。
「千賀」と記された掛け札を見つけたので間違いない。
純木造建築の、やや古臭さを感じるこぢんまりとした民家だ。
先ほど日聖宅を見た直後なので、より強くその印象を受けてしまう。
俺が呆けて観察している間に、日聖はそそくさと千賀家の敷地に入ってチャイムを鳴らした。
「燎火さんと同じクラスの日聖という者です。学校で配られたプリント類を持ってきました」
台本を持っているかのように、すらすらとスピーカーに向かって台詞を紡ぐ。
その躊躇いのなさと流暢さに惚れ惚れとしてしまう。
ほどなくして玄関の扉を開けたのは、六十歳後半ほどで白髪交じりの柔和な顔をした女性だった。
俺は記憶のどこかに引っかかりを感じて、失礼を承知で彼女の顔を凝視する。
若干細部は異なるが、見覚えのある顔だった。
「あら、まあ。燎火ちゃんのクラスメイト? わざわざご足労いただいてありがとうね」
彼女は愛想のいい笑みを振り巻きながら、人好きのする落ち着いた声で言った。
この世界の娘とはてんで正反対の態度だった。
その声を聞いて、急速に記憶が蘇ってくる。
いつか千賀燎火の見舞いに行った時に出会った、老夫婦の片割れが彼女だった。
「いえいえ、気にしないでくださいませ」
お得意の上品な笑みを浮かべて、日聖は頭を下げた。
それから、クリアファイルにまとめられたプリントの束を鞄から取り出して、両手で丁寧に渡した。
千賀氏は何かに思い当たったのか、もしかしたらといった響きを持たせて尋ねてきた。
「あなたたち、ひょっとして燎火ちゃんのお友達?」
さしもの日聖も言い淀み、誤魔化すような微妙な笑みを浮かべた。
「ええ、そうです」
彼女に代わって、気づけば直感的にそう答えていた。
そんな事実はどこを探しても見当たらなかったが、彼女の信頼を得られれば好都合だと直感したのだ。
すると、千賀氏の表情がにわかに喜色を湛えた。
「まあ、そうなの、そうなの」噛みしめるように繰り返し頷いて、「もし良かったら、中でお茶でもしていかないかしら?」と明らかに浮かれた様子で誘ってきた。
眉尻を下げた日聖と、目を見合わせた。
そうやって、いかにも悩んでいるような体裁を取り繕った後に、俺はいかにも申し訳なさそうな声色で答えた。
「……では、お言葉に甘えさせていただいても、よろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん。遠慮なく入って頂戴」
そう言って、彼女は玄関へと引っ込んだ。
その背中を見送ると、日聖が横から小突いてきた。
「あんな嘘を吐いて、本当に良かったの?」
「仕方がないだろう。場の雰囲気的にああ答えるしかなかったんだから」
涼しい顔で答えると、日聖は「それはそうだけど」と顔を顰めて俺を睨んだ。
千賀氏が廊下の奥から顔を出す。
立ちすくむ俺たちに気づいたらしく、玄関へと引き戻して手招きをしてきた。
大人しく靴を脱いで、俺たちは彼女の背中に着いていった。
「……もう。私の誘いは断ったのに」
背後からそんな日聖の恨めしげな声が、小さく聞こえた気がした。




