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拝啓、廻る季節に君はいない。  作者: 日逢藍花
第一章 春の断章 -Comedy-

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春の断章⑤-3

 その日は、中間テストの最終日だった。 


 最後の科目だったテストの終了を告げるチャイムが鳴り、クラス中に漂っていた緊張の糸が途端に解ける。


「どうだった?」答案用紙を回収している合間、二席前の羽瀬が物憂げな顔を覗かせながら訊いてきた。


「そこそこかな」


 無難な言葉を返す。


 前日に少し勉強する振りをしたぐらいだったが、こっちは過去に大学に受かったことだってあるのだ。


 一般的な中学生のテストぐらい屁でもない。

 

 変に目立つのは嫌なので、高得点になり過ぎないようにある程度間違えて書いた。


 むしろそちらの方にこそ、頭のリソースを使ったように思える。


「……つっても、お前のそこそこは景気がいいんだよな」


 羽瀬が忌々しげに言う。


 テストが終わり、安堵の溜息を吐く生徒もいれば、嘆きの溜息を吐く生徒もいる。


 各々がテスト終わりの余韻を噛み締めていた。


 一つ前の席に座っている日聖に、俺は声をかけた。


「お前はテスト、どうだった?」


「まあまあですね」


 俺の答案を受け取りながら、彼女は涼しい顔でそっけなく答えた。


「と言っても、お前のまあまあは俺よりも景気がいいんだよな」


 俺が皮肉を吐くと、日聖は澄ました顔で答えた。


「そうでもないですよ。成績自体は永輔くんとあまり変わりません」


「さて、どうだかな」


 日聖が、毎回十位以内に入る成績を誇っていたことは覚えている。


 そして、それをまったく鼻にかけようとしないことも。


 俺も勉強はできる方だったが、秀才と言うには少々成績にムラがあった。



 答案が教壇まで行き渡り、教師が枚数を確認してそそくさと教室を出て行く。


 すると、あちこちで力の抜けた声が聞こえてきた。


 テスト期間は随分と長いもので、三日間も続いた。


 初日と二日目は半日で放課となるが、最終日はこのまま授業が続く。


 とりあえず、カンニング防止のために廊下に置いた鞄を取りに行く。


 教室に戻ると、日聖の席に座った羽瀬がけろりとした顔をして、新田と流行りのアイドルの話をしていた。


 俺は二人のやり取りを聞きながら早々に弁当を広げ、急いで食べ終えた。


「あれ、お前なんか用事でもあんの?」


 新田が惣菜パンを頬張りながら尋ねてきた。


「ああ、図書委員の仕事でさ」


 簡潔に答えると、二人は納得したように頷いた。


「……図書委員会? ああ、確か千賀と一緒だったっけ?」


「あいつと二人だけの空間とか、考えたくないな。息が詰まって死んじまいそうだ」


 薄ら笑いを張りつかせて、俺は適当に相槌を打った。


 クラスメイトの千賀燎火への評価はすこぶる悪い。


 彼女の態度を見れば、それは無理からぬ話ではある。


 悲しいが弁護の余地はなかった。


 弁当箱を急いで片づけ、二人に「じゃあ行ってくる」と言い残して教室を出た。


 日聖は級長同士の会議なんてものがあるらしく、すでに教室を出ていた。


 俺が図書委員会なんかに入ったのは、元を正せば彼女の計らいがあったからに他ならない。


 四月初旬に行われた所属する委員会や係を決める場で、彼女は相変わらず満場一致で級長に選ばれた。


 その前の休憩時間に彼女は、「図書委員会に立候補するといいと思いますよ」と説明もなく言ってきた。


 最初はその意図が分からなかったが、実際に彼女の勧めに従ってみてその意図に気がついた。



 図書室の中は、教室の喧騒が嘘のように静寂で満ちていた。


 陣西中学の図書室は公立中学にしてみれば蔵書数が豊富だ。


 しかし、やはり貴重な昼休みに図書室を利用するような物好きは数が限られている。


 放課後は勉強のためのスペースとして利用する生徒を少なからず見かけるが、とても賑ぎわっているとは言えない集客数だった。


 カウンター席には、すでに千賀燎火の姿があった。


 目を伏せながら机に置いた本を読んでいて、俺がやって来たことにさえ気づいていないらしい。


 愛しさと悲しみが綯い混ぜになった感情が湧き上がり、自然と胸が締めつけられる。


「お疲れ様」


 一応声をかけてから席に座ったが、当たり前のように返事は返ってこなかった。


 本の貸出の手続きと、返却された本を元の棚に戻す作業が図書委員の業務だった。


 昼休みと放課後で月ごとに担当が決まっており、一週間に一回ほど昼休みか放課後に担当日が割り振られる。


 部活に入っている生徒は放課後の担当を免除されるらしいので、その分帰宅部の人間はシフトが多くなってしまう。


 とはいえ、昼休みの図書室利用者は十人もいれば多い方で、まともな業務など時間中に五件あれば多い部類に入る。


 仕事は楽だし、その分彼女の隣にいられるチャンスも増えるのだから文句はない。


 暇潰しのため、俺も本を読むことにした。


 日本文学の本棚から、適当に目についた夏目漱石の『草枕』を選んで持ち出してくる。


 ――智に働けば角が立つ。情に(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。


 誰だって冒頭ぐらいは聞いたことがあるだろう。かなり年季が入っている文庫本だった。カバーもなく表紙がよれていて、かなり日焼けしている。


 席に戻ってぱらぱらと読み進めていたが、彼女が隣にいるせいで文章が頭に入ってこなかった。 


「何を読んでいるんだ?」


 性懲りもなく、つい声をかけてしまう。


 あれから何度か彼女に話しかけることがあったが、その度にけんもほろろな態度でまともに相手にされなかった。


 今回もそうなるだろうと後悔が掠めたが、驚いたことに反応らしい反応があった。


 無言のまま、本を閉じて背表紙を見せてきたのだ。


『ゴドーを待ちながら』。


 サミュエル・ベケットの、言わずと知れた不条理演劇の代名詞だった。


 思弁的な側面が強く、二人の老人がいずれやって来るというゴドーという人物を待つだけという内容だ。


 二部とも同じような話が延々と続く。


 読んでいると退屈を通り越して、「なんで自分はこんなものを読まされているんだ」という苛立ちさえ感じてくるような本だ。


「千賀さん、もしかして戯曲にも興味あったのか?」


 俺の知っている千賀燎火は戯曲を読んでいるイメージがなかったので、少しだけ面食らった。


 とはいえ、今の彼女に俺の意図が伝わるわけがない。


 何も答えることなく、先ほどまで読んでいたページを開いた。


「なあ、千賀さん。その演劇がアメリカで初演を迎えた時、どんな売り文句が使われたか知ってるか? パリ直輸入の爆笑コメディだってよ。まったく、笑ってしまうよな」


 反応はなかった。


 閉じていた本を開いて、俺も読書を再開する。


 こんな塵みたいなやり取りでも、彼女と触れ合えたのがよほど嬉しかったのだろう。


 文章を目で追っても、相変わらず内容が散らばってしまい頭に入ってこなかった。


 名実ともに中学生になったみたいだなと、心の中で苦笑する。

 

 その間、三人ほど貸出目的の生徒がやって来た。


 三十ページも読み終わらないまま、午後の授業開始を告げるチャイムが鳴った。


 本棚に本を返しに行くと、戻って来た時にはすでに彼女の姿はなかった。

 

 急いで図書室を出る。彼女は向かいの階段を降りようとしていた。

 

 不条理にも色々な形がある。


 今の俺を取り巻く不条理は神には会えたが、どれだけ待っても千賀燎火に会えないことだった。


 彼女がこの世界で生きている事実だけで、これ以上ないほどの幸福だということは分かっている。


 だが変わってしまった彼女を見るのは、拷問に等しいほど苦しくて悲しかった。

 

 それが俺のせいだと言うのなら、彼女にとっても俺にとっても、あのままトラックに轢かれて死んだままでいた方が良かったのかもしれない。


 そんなつまらないことを考えずにはいられなかった。


 

 これ以上ないほどの喜劇は、これ以上ないほどの悲劇と重なってしまう。

 

 そういうものだ。

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