春の断章③-2
自転車を引きずる日聖と、下校路の河川敷近くを歩く。
近況だとか進路だとか、当たり障りのない話題を引き伸ばしながら語った。
たまに訪れる沈黙も、それが彼女と交わされるものであれば苦にはならならなかった。
「桜、綺麗だね」
不意に日聖がぽつりと言った。
「ああ」
気の抜けた声で同意する。
「でも、桜だけじゃないだろ?」
すると日聖は、言葉の意味が分からないという顔を浮かべた。
笑って、俺は補足した。
「綺麗なのは桜だけじゃない。そうだろ?」
満開の桜が立ち並ぶ坂の反対側に目をやれば、河に面する土手に沿ってタンポポやハルジオン、スイセン、サクラソウなど咲き並び、春らしい豊かな色彩を呈していた。
桜の美しさはいささか過剰だ。
夥しい数の花びらが集合して、あの色彩と景観は形作られている。
すこし離れた視点で見てみると、それはグロテスク極まりない。
そして、一ヶ月を待たずにその全てが散り切ってしまう儚さは、否応なく見る者に人生を想起させる。
桜の樹の下には死体が埋まっている。そんな通説が流れるほどだ。
桜ほど、美の本質をよく表したものは他にない。
それに比べて花々は、一本一本は小市民的な美しさしか持ちえない。
だが見る者を圧倒する類の美しさではなくとも、それらは異なる種同士が身を寄せ合って確かな景観を形成しているのだ。
その在り様に、俺はそこはかとない共感を寄せてしてしまう。
「永輔くんの言う通りだ。散るのが早いってだけで、どの花もこの時期にしか見ることができないんだね。なるほど、桜ばかり贔屓するのは可哀想だったかもしれない」
「人はどうしても、目先の大きな幸せに目が行きがちなんだよ。一番悲惨なのは、そうやって見落としていたものが、そいつにとって一番大切なものだったっていうパターンだ。えてして存在するものより、存在しないものの方が存在という点では上なんだ。どうしようもない矛盾だな」
ハイデガーが似たような議論をしていたはずだ。
ハンマーは日常でその存在を顧みられることはない。
ただの道具として日常のコンテキストに組み込まれているからだ。
しかし道具は壊れる。
壊れることによって初めて、本来の存在性を我々に気づかせる。
それはきっと人間だって同じはずだ。
なんにせよ、いくら秀才だからと言ったって相手はほんの中学生だ。
こんな話を大人気なく語ってみせたところで、とても理解できやしないだろう。
「……難しいね」
神妙な顔で、日聖はぽつりと呟いた。
「うん、難しいな」と俺は頷いた。
それが俺にできる精一杯の啓蒙だった。
負け犬が何を語ったところで、それは所詮負け犬の理屈でしかない
「なあ、日聖。千賀燎火っていう生徒、知っているか?」
俺は意を決して、その話題を切り出した。
「千賀さん? ……まあ、噂は耳にしたことがあるけど」
彼女にしては歯切れの悪い返事だった。
露骨に眉を寄せている。
なぜ突然その名前を出すのかという困惑が如実に現れていた。
「俺の記憶だと、彼女って病気持ちだった気がするんだ。それも、入院生活を余儀なくされるほど大きな。まあ、宿痾って奴だな。そういう話、聞いたことないか?」
「特にない。小学校が違うから一概には言えないけど、少なくとも中学に進級してからの二年間、彼女が入院したという話は聞いたことがなかったと思う」
そこまでは予想の範疇だった。
この世界で彼女は心臓病を患ってはおらず、極めて健常な身体を有している。
問題はなぜ彼女があそこまで刺々しく、誰も寄せつけないような雰囲気を放つ人物へと変貌しているのか。
「日聖は人気者だし、二年間も委員長をやっていて顔が広いだろ。昔の千賀燎火はどんな感じの生徒だった?」
すると彼女は、隣から俺の顔を覗き込んで、意地悪そうに口角を上げた。
「ねえ、永輔くん、もしかして彼女のことが気になっているの?」
ストレートに図星を指され、俺は内心で狼狽えた。
くすくすという甲高い笑い声が、隣から聞こえてくる。
「それは世に名高い、乙女の勘って奴か?」
努めて彼女から顔を逸らしながら、吐き捨てるように言った。
「さあね、どうでしょうか。だけど一般論として、男の子に突然他の女子のことを尋ねられたら、気になっているのかなぐらいの予想は誰でもすると思うよ?」
目の前の相手が、なんでも色恋の話に繋げたがる中学生だということを失念していた。
それは日聖愛海とて例外ではなかったらしい。
まあ、こんな駆け引きじみた会話をするのは初めてだったので、墓穴を掘るのも仕方がない。
それにしたって直接的な訊き方だったかもしれないと、内心で反省した。
「ああ、その通り。俺は、千賀燎火に気があるのかもしれない。だから教えて欲しい」
押して駄目なら引いてみろ。
ではないが、こういう時は素直に相手に追従した方が早い。
「随分、はっきりと認めるんだね。と言っても、私も千賀さんと会話したことはないし、彼女については正直よく分からないというのが実情。でも永輔くん、本当にあの噂聞いたことないの?」
「噂? いや、俺は知らない」
「風の噂程度のものだし、あまり人聞きのいい話でもないけど、私が彼女について知っていることなんて、それぐらいだから」
「大丈夫だ、話してくれ」
日聖は一瞬気の毒そうな表情を浮かべた。
躊躇ったのか一瞬間を挟んでから、空を仰いで簡潔に答えた。
「……なんでも彼女、母親から虐待を受けていたらしいんだ」
児童虐待。
ドラマや小説の世界ではこれでもかと耳にする言葉だ。
いっそ部外者には陳腐とさえ思える。少なくとも、これまで自分の周りにそんな話はなかったはずだ。
どれだけ深刻な社会問題と騒がれていても、自分にとっては違う世界のトピックに過ぎない。
「いたということは、それはあくまで過去の話なんだな」
俺は動揺しつつも、冷静を装って尋ねた。
「うん、その通りだと思う。じゃなかったら、普通こんな噂流れないよ」
日聖の意見は正鵠を射ている。
虐待の噂が関係ない生徒たちの間にまで流れている中で、現代社会でそのまま放置が決め込まれているとは考えにくい。
「それからこれも信憑性に欠ける話だから、言っていいかどうか分からないけど言うね。なんでもその虐待をしていた彼女の母親、自殺しちゃったらしいよ。それも千賀さんが保護されてすぐに」
母親からの虐待。その後、母親が自殺。
実に分かりやすい悲劇だなと、その時の俺はどこか冷めた感想を抱いた。
一旦、話を整理してみよう。
おそらく、元の世界の千賀燎火は幼い頃から入院生活を送っていたため、虐待を受けることはなかった。
対して、この世界の彼女は健康な身体を有しているので、普通の子どもと変わらない生活を送っていた。
しかしそのせいで、肉親からの虐待という不幸に見舞われた。
日聖の話を真に受けるならば、この世界の千賀燎火が元の世界の彼女と似ても似つかぬ性格なのは、それが原因なのだろう。
あちらが立てばこちらが立たず。
なんとも歯痒い運命の鎖に、彼女は束縛されていたわけだ。
「……ごめん、やっぱりショックだった?」
俺が黙って思案を巡らせていると、日聖が申し訳なさそうな顔で謝罪してきた。
「大丈夫だ。こちらこそすまない、自分から訊いておいて」
すると日聖は、何かを隠すように俯いて横髪をかき上げた。
後ろを歩いていた女生徒のペアが、俺たちを追い越していく。
彼女たちの背中を見送ると日聖はまるで内緒話でもするみたいに、耳元近くで囁くように言ってきた。
「さっき、宮内くんも言ってたよね。私も今日の永輔くん、なんか少しだけ大人っぽく感じるんだ。不思議だね。たった一週間、会わなかっただけなのに」
心臓が跳ねて、冷や汗が垂れる。
いくら外見が十四歳だとしても、やはり言動の違和感は出てしまうのだろう。
中学生の福島永輔は同世代よりも多少大人びていたとはいえ、やはり二十五歳が十五歳を演じるのは無理がある。
いかんせん俺は、日陰者である自分に馴染みすぎている。
ぬくぬくと日向に当たっていた頃の自分が、どのように振る舞っていたかを忘れてしまっていたのだ。
そんな焦りがつい零れてしまったのだろう。
俺は立ち止まって、日聖に尋ねた。
「なあ、仮にだ。もしも……、もしも俺が見た目は中三のまま、精神だけ二十五歳になっていたとしたらどう思う?」
日聖も俺に釣られて立ち止まり、数歩の距離を隔てたまま不可解そうな声色で尋ねてきた。
「それは一体、どういう意味?」
「仮定の話だ。もし小説や漫画みたいに、俺が見た目は中学三年生のまま、二十五歳の精神を持っていたらどうする? そんなことがもし本当だったら、やっぱり気持ち悪いよな」
すると日聖はこちらを振り向き、一歩前へと駆け出した。
一メートルほど距離を空けて、俺の目の前に立つ。
そして、突然こんなことを語り始めた。
何、あれはな、空に吊した銀紙ぢやよ
かう、ボール紙を剪って、それに銀紙を張る、
それを網か何かで、空に吊し上げる、
するとそれが夜になって、空の奥であのやうに
光るのぢや。分かったか、さもなけれあ空にあんなものはないのぢや
冴え渡るようなアルトでリズムよく、どこか掴みどころのない語り口だった。
紡がれる言葉に沿って、最小限の身体動作で内容を再現する。
すると彼女が語り始めた謎の文字列が、急に鮮明な形を為して去来する。
タイトルは忘れたが、確か中原中也の詩の一節だった気がする。
さながらカーテンコールのように制服のスカートの裾を摘んで、最後に彼女は一礼をしてみせた。
その様に見惚れてしまい、俺は無意識のうちに手を叩いていた。
「……ねえ、永輔くん。私が思うにこの世界は見かけよりずっと入り組んでて、訳が分からないものなの。この詩はね、まさにそんなことを唄っているんだと思う。だからね、永輔くんがそう言うんだったら、もしかしたらそうなのかもね」
「それは、さっきの俺の馬鹿みたいな言葉を信じるってことなのか?」
「別に信じてはいないよ。ただ、否定することはできないってだけの話。それに私の目の前にいるあなたは、紛れもなく私の知っている福島永輔くんなんだから。それ以外に大事なことって何かある?」
ようやく俺は悟った。
委員長として他のクラスメイトに見せる生真面目な態度と、俺の前でだけ見せる奔放な態度のギャップ。
詩や戯曲の言葉を持ち出すセンスといい、往来の真ん中で突然芝居を始める突飛な言動といい、目の前の少女は紛れもなく日聖愛海という少女なのだ。
「そうだな、実にお前の言う通りだ。本当に馬鹿なこと言ってしまった、悪かった」
「じゃあ、行こ」
立ち尽くす俺を急かすように、日聖が言った。
生返事を返して、俺たちは共に歩き出した。
もしも千賀燎火に心を奪われていなければ、俺はこの世界で性懲りもなく彼女にまた恋していたのかもしれない。
だがそんなことは、益体のない想像に過ぎない。
物事は結局、あるようにあり、なるようにしかならないのだから。