春の断章②-4
日聖の気遣いを無視して、一瞥することなく俺は教室を出た。
廊下の人気の少ない階段付近でふと立ち止まった。窓を開けて縁に肘をかけ、新鮮な空気を吸い込む。
この位置からは体育場をよく見下ろすことができた。
丁度、朝練を終えた頃なのだろう。
新学期初日から練習とはご苦労なことだ。
サッカー部や陸上部と思しきユニフォームを着た学生たちが、昇降口に向かってとぼとぼと歩いていた。
その様を眺めていても未だに映画でも見せられているような、スクリーンを一つ挟んで自分と彼らが隔たれているような感覚が拭えなかった。
新田と初瀬、そして日聖。
彼らがまだ俺を見捨てていない事実が、この世界では適用されている。
それは明白なのだろう。
「あのことってどんなことですか?」と日聖は言った。
もしもあの事件さえなかったら、三年生に進級した福島永輔はこんな満ち足りた始業式を迎えていたのかもしれない。
それはあまりに都合が良い解釈だ。
胸焼けがするほど甘ったるい妄想や希望を煮詰めた憶測に過ぎない。
そんな絵に描いたような幸福が訪れるはずがないのだから。
その時だった。
三人で歩いていたサッカー部員の一人が、突然こちらに視線を向けた。そのまま彼と目が合った。
今まで出会った誰よりも懐かしい顔だった。
宮内康太というかつての幼馴染がそこにいた。
二十メートル以上隔てているのに、俺の顔にしっかりと気がついたらしい。
彼がこちらに向かって無邪気に手を振るのを確認してから、それを無視して力なく窓を閉めた。
へたり込むように膝を折り、生気が抜けたようにうずくまった。
何もかもが愉快に思えてきて、両手で顔を覆い隠して息を殺しながら笑った。
狂気じみた発作のような笑いだった。
この世界は、俺にとって都合のいい世界である。
その事実をやっと確信したのだ。
今まで見聞きしたどんな笑い話も、これほど俺を愉快にはさせなかった。
人は笑うことで物事を相対化しようと試みる。
だから度を越した幸運、はたまた不運に見舞われた時に、人は笑うことしかできなくなるのだろう。
「ねえ、心配になって来たんだけど、本当に大丈夫?」
ふと我に返った。
いつの間にか、日聖が目の前にいた。
眉を寄せた不安げな表情を浮かべ、彼女は中腰の姿勢で座り込んでいる俺を見下ろしていた。
「春休み中、ずっと熱で休んでいたって新田くんに聞いたよ。保健室にでも行ったのかと思ったらこんなところで座り込んでいるし、やっぱりまだ本調子じゃないんでしょ?」
「ああ、心配しないでくれ。本当に大丈夫なんだ」
そう返して立ち上がったが、日聖はなおも気がかりそうな視線を向けていた。
「ほら、教室行こうぜ」
日聖に声をかけて、一方的に踵を返した。
「永輔くんが、そう言うなら」という声はいかにも不承不承の響きを伴っていたが、素直に俺の後ろについてきた。
日聖愛海という少女はこういう時に強情というか、簡単には引き下がらない性格だった気がする。
それが彼女の美点の一つであると同時に、唯一と言っていいぐらいの微笑ましい欠点でもあった。
教室に戻ると、狙ったかのようにチャイムが鳴った。
「では、私は先に行ってますね」
日聖は再び敬語でそう言うと、自分の友人と合流して教室を出ていった。
舞い上がっていたのだろう。
かつてないほど闊達な声で、新田と羽瀬に「始業式、行こうぜ」と声をかけた。
二人は怪訝な顔をしていたが、「やっぱ今日のお前、変だわ」と顔を見合わせながら笑って、こちらに歩み寄ってきた。
三人で教室を出ようとしていた、矢先だった。
今頃になって登校してきた女子生徒が一人いた。
その顔を見て、俺は今日一番の衝撃を受ける。
出会い頭に脳天を鈍器で殴られたような気分だった。
だがよくよく考えてみれば、これでやっと全てのお膳立てが整ったわけだ。
その女子生徒は、紛れもなく千賀燎火だった。
病衣ではなく制服を着た彼女が、息をして俺の目の前に立っていた。
十年後と身長はほとんど変わらなかったが、顔つきは幾分か幼くなっていて、トレードマークだった紅い椿の髪飾りも身に着けていなかった。
俺と千賀燎火が中学校の教室で顔を合わせるという、このおかしな状況。
だが考えてみれば初めて会った時、彼女は確かに言っていたのだ。
もしも彼女が宿痾を抱えていなかったら、俺たちは同級生として一年を過ごしていたはずだ。
この世界が俺にとって都合の良い世界なのであれば、それはつまり千賀燎火が健常な身体を持って育った世界と等しくなる。
ゆっくりとした足取りで、俺は引き寄せられるように彼女に近づいていった。
この世界の千賀燎火が俺のことなど知っているはずがない。
少し考えれば思い至りそうな、単純明快な不幸さえ眼中になかった。
彼女の目の前で立ち止まる。
再び会えたら伝えたいと思っていたことなどいくらでもあったはずなのに、何も台詞が出てこなかった。
「……燎火さん、ごめん」
やっと吐き出したのは、しけた謝罪の言葉だった。
いつしか目尻からは涙が溢れていた。
か細い身体を抱きしめたい衝動に駆られながら、あの日のようについ手を握りしめてしまう。
その手はとても温くて、確かな生の感触がした。
と、その手が強い力で弾かれた。
「ジャマ」
氷のように冷たい一声だった。
縋るような姿勢で彼女を見上げていた俺を一睨みして、力任せに押しのける。
彼女はそれ以上こちらには目も暮れずに、無機質な足音を残して自分の席まで歩いていった。
膝から崩れ落ちて固まっていた俺のもとに、二人が駆け寄ってくる。
「お前、まじで何やってんだよ?」
「熱で頭イカれちまったのか? あいつ、確か千賀燎火だろ?」
心底呆れたように彼らが言うのを、俺は漂白された頭で聞いていた。
誰だっていきなり同級生に手を握られて泣きつかれたら、似たような反応を示すだろう。
しかし、それだけじゃない。
先ほどの彼女の態度は、俺の知る千賀燎火とはあまりに乖離していた。
浮かれていた気分はすっかり地に落ち、彼女に拒絶されたという事実だけが重く反響した。
ようやく俺は夢から醒めて、地に足の着いた苦々しい現実を認識したのだ。
とんだ笑い話だ。
まさか俺に限って、望んだものが全て用意されている、そんな幸福な世界に迷い込むなんてことがあるはずないじゃないか。