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ヴァンが呆れた息を吐き、弟の1人がギルの背中をぽんぽんと叩く。
「早速上手いこと取り入って来やがったな。その通りだ、兄貴はおだてるとすぐ機嫌よくなるからな」
ヴァンの拳がその弟の頭を襲撃し、声にならない声を上げて悶絶するのを見ながら場に笑いがもたらされた。
和やかな雰囲気が漂う中、マイカだけは相変わらずの仏頂面でヴァンの手元をジッと見つめている。
気持ちがほぐれたのかギルも楽しそうな笑みを浮かべて、ヴァンがトッポを咥えたのに合わせ、懐から煙草を取り出した。
ピクリと、ヴァンの動きが止まり、纏う空気が一変した。
鋭く眇められたヴァンの瞳に気付くことのないギルは煙草を口に咥えて、指先に魔力の火を灯す。火が煙草の先端に近づき――横っ面に拳が叩きつけられた。
激しい音を立ててギルの身体が床を転がり、傷だらけの身体にさらに生傷が追加される。
状況が掴めず目を白黒させるギルと、口を離れて宙を舞った煙草を見て表情を引きつらせる弟たち。
「ウチは全面禁煙だぜ。聞いてなかったのか?」
殴打の勢いに似つかわしくなく、ヴァンの声音は落ち着いている。そのギャップはギルが先日まで居たようなゴロツキ集団とは一線を画する、〝本物〟であることを窺わせた。
「なあ、お前らちゃんと説明してなかったの」
「い、いや、その‥‥おれらにとっちゃ、常識みたいなもんだったから‥‥」
普段はおどけている弟たちも、笑っていないヴァンの瞳に気圧されている。理由は判然としないまま、しかし決して笑えないその空気にギルはその場で痛みに耐えて姿勢を正した。
「てめぇも、ちょっと周り見りゃ誰も吸ってねえの分かんだろ。頭使えよ」
「すぐそこにさー、小さい子がいるんだから当たり前でしょー」
ギルが懐に手を入れたタイミングですでに銃を構えていたリアも、ギルの額に狙いを定めたままギルを叱責する。そのマイカはどことなく硬い表情でココアのマグカップを両手で包み、窺うように横目でその様子を眺めていた。
「す、すんません。その通りッス‥‥」
ギルの言葉を信じるなら、彼は最近まで単なるゴロツキだったのだ。いくら能天気な性質だろうと、本物の恐怖にあてられて普段通り呑気でいることは出来ない。
「‥‥ホント、あり得ないわ。煙草なんて吸ってる人の気が知れないわよ。臭いし気持ち悪いし、何が良いのか分かんない。ちょっとは頭使えばいいのに」
視界の端にギルを捉えつつ、マイカは容赦ない悪態を吐く。張り詰めていた空気はその悪態によって逆に緩み、一家では限りなく少数派の喫煙者がからかわれて苦笑いを浮かべていた。
「こんな簡単なことも分からないバカなんて、とっとと追い出しちゃえば? いっそホントにリアに処分させちゃえばいいのよ。信用できるかどうかも分かんないんだし」
「まあまあ、言ってやんなよ」
やや早口に言い連ねるマイカをなだめるように頭を撫でると、「触んないでよ気持ち悪い」と鬱陶しげに振り払われてしまった。
ヴァンたちの言葉には従順だったギルだったが、マイカの言葉と態度に眉間の皺を深くすると自分の置かれた状況も忘れてマイカの顔を覗き込んだ。
「‥‥なあ、嬢ちゃん。もうちっと口の聞き方には注意したほうがいいんじゃないか?」
「うっさいバカ。あんたに言われたくはないわよ、バカ」
マイカは変わらぬ勢いで言い返し、ギルの瞳に苛立ちの色が灯る。
――が。
「アホ、口に気を付けんのはおめぇのほうだよ」
弟の1人がギルの頭を小突いた。
「マイカちゃんの方がよっぽど古株なんだから、おめぇの先輩だぞ。ちゃんと敬語使え敬語」
「そうそう。お前は新入りなんだからマイカちゃんはお前の姉貴だぞ。ちゃんとお姉ちゃんって呼ばねえと」
「兄貴が頭の上がらない唯一の人物だからな。実質ウチで最強だぞマイカちゃんは」
「マイカちゃんを怒らせたら兄貴がキレんぞ」
次々と頭を叩かれ、ギルは言い返すことなど出来ず「す、すんませんッス‥‥!」と誰に対してか分からない謝罪を述べていた。
マイカは憮然とした表情を浮かべたままちらりとギルの顔を盗み見て、「バカばっかりだわ」とそっぽを向いた。
「‥‥あ、もしかして俺嫌われちゃったッスか?」
「安心しろよ。マイカは素直じゃないだけさ」
「バカじゃないの。でもそうね、あんたよりはコイツのほうがマシかもしれないわ」
「だってさ。やったな、オレより上だなんてむちゃくちゃ好かれてるぜ」
マイカの小さい拳がヴァンの脇腹を叩き、「こら、今はヤメろ」と魔銃の整備に戻っていたヴァンが静かに諭すとマイカは素直に攻撃の手を止めた。
「まあとにかく、ウチには喫煙スペースなんてねえからな。どうしても吸いたかったら外で吸って、吸った後は少なくとも30分は帰ってくんな。それがウチのルールだ。分かったか」
日常的に喫煙していたギルにとってはあまりにも重い条件に、先ほどイジられていた喫煙者の方へと視線を向ける。彼は自虐的な笑みを浮かべて、ひらひらと煙草の箱を振って見せた。
「いいじゃねえか、一緒に吸おうぜ。冬場に外でひとり、やることもなく震えながら吸うのにもいい加減うんざりしてたんだ」
ギルは煙草を咥えて外で震える自分の姿でも想像したのか、引きつった笑みを浮かべた。
不意に、その鼻先に細長いものが突き出される。漂う珈琲の匂いに紛れてほんのりと、甘い匂いがギルの鼻孔をくすぐった。
「口寂しけりゃ、コレ咥えとけ。ウチは禁煙の代わりに食い放題だぜ」
差し出された棒状の菓子、トッポを受け取り、床に転がった煙草の箱を拾い上げる。
ギルは残り半分ほどになっていたそれを眺めつつ、この箱が無くなったら禁煙を始めようと心に決めて、ヴァンの隣に座り直して大人しくトッポを口に咥えるのだった。