想い消しゴムの放課後
放課後の教室には、グラウンドで部活動に励む生徒の声と、私の前でユキちゃんがノートにペンを走らせる音だけが響いていた。
私は、なんとなく英単語帳を開いたり閉じたりしているだけだった。
だから、集中して勉強していたら気にならないような音に、気が削がれてしまったのだ。
――ダメだ、集中し直さないと。
私はそう思って、もう一度英単語帳に目を向ける。
けれども、乱れた集中は空気中に散らばっていて、また私の頭に戻ってきてくれるまで時間がかかるようだった。
十二月の初め、もうすぐ受験ということもあって、ユキちゃんと私は学校に残って、こうして受験勉強をしている。
他のみんなは、もう帰ってしまった。
午後五時にさしかかろうとしている時間帯まで勉強しているのは、いつもユキちゃんと私だけだ。
ただ、先に帰ったみんなが勉強していないというわけではなく、通っている塾や予備校に場所を移しただけなのだ。
ユキちゃんと私は、なんとなくそういうところが性に合わなくて、自分で勉強しているというわけだ。
私は、前の席に座っているユキちゃんの、艶やかな黒髪が流れる背中を眺める。
向かい合って座っているとお喋りをしてしまうので、学校で授業を受けるときのように、私たちは教卓の方を向いて座っているのだ。
――ユキちゃん、がんばってるなぁ。
他人事のように、ペンを動かす微かな動作だけを続けるユキちゃんの背中を見て、私は思った。
私も、受験生のはずなのに。
まあ、仕方がないのかもしれない。
私は、自分が将来に何がしたいのか、どんな職業に就きたいのかもわかっていないし。
大学だって、ユキちゃんが志望しているところだったから、じゃあ私もそこにしようかな、ぐらいの気持ちで選んだし。
ユキちゃんは、わりと余裕らしいのだけれど、私は、今のままでは厳しいと先生に言われている。
それなのに、ユキちゃんは努力を続けて、私はその背中を眺めるだけ。
あーあ……もし、私だけ受験に落ちたらどうしよう。
目標もなく、ユキちゃんのいない大学に、ひとりでだらだらと通うのだろうか。
「カエデちゃん?」
私がネガティブな妄想を繰り広げていると、いつの間にかユキちゃんがこちらを見ていたようだ。
私は慌てて、現実に戻ってきてユキちゃんに相対する。
「ごっ、ごめんね。気にさせちゃったかな」
いくら前を向いているとはいっても、後ろに座る人間が物音ひとつ立てずにいたら、違和感が生じて気になってしまうだろう。
私は両手を合わせて、ユキちゃんに謝った。
「いや、別に気にしてないよ。それより、大丈夫? なにかあった?」
「え? どうして?」
私は、あほ面をかまして、ぼけーっとユキちゃんを見ていたのかもしれない。
そうだったら恥ずかしい、モグラになりたい。
「……真剣な顔で、なにか考え事していたから」
「あぁ、えーと……」
あほ面ではなかったようだから、よかったけれども……どうしよう。
私のネガティブな考えを、がんばっているユキちゃんに話すわけにはいかないし。
「――ナツミ……そう、ナツミと立花くん」
私は、友達のナツミと、その彼氏の名前を生け贄として捧げた。ごめん、ナツミ。
「ナツミちゃんが、どうしたの?」
ユキちゃんは、まだ心配そうな表情で私を見ていた。
その純粋な眼差しが、不純な動機で、友達をうわさ話の種にした私に突き刺さる。
「いやっ……勉強、してるのかなぁって思ってね」
ナツミと立花くんは、それぞれ推薦入試によって大学合格を決めている。
今日も、学校の授業が終わるなり、二人でそそくさと帰っていった。
クラスの四分の一程度がもう進路を決めているのだが、やはり多少のやっかみなんかを感じるのかもしれない。
「ナツミちゃんの家で、二人で勉強しているって言ってたじゃない? ご両親が共働きで、帰ってくるのが遅いからちょうどいいんだって」
うん、私もユキちゃんとその話は聞いていたのだけれど。
だからこそ、勉強しているのだろうか、という発想に至ったわけで。
しかし、ユキちゃんの屈託のないピュアな瞳で言われると、私も二の句を継げなくなってしまう。
「まあ、勉強しているよね。私もやらなきゃ」
あまりユキちゃんの勉強の邪魔をしてはいけない。
そう思った私は、話を切り上げるために、英単語帳に向かう。
ユキちゃんとお喋りしたことによって、迷子だった私の集中も無事に保護されたようだった。
これならいける。私は、こいつらを覚えて覚えて、脳みその糧にしてやるのだ。
「ねえ、カエデちゃん」
私がページのひとつ目の単語、コンセントレートに視線を落とした瞬間に、ユキちゃんが私を呼んだ。
ああ、私の集中が……いや、最初にユキちゃんの邪魔をしたのは、私だ。これでおあいこだ。
次のラウンドで、勝負を決めようじゃないか――なんてね。
「どうしたの?」
私が聞くと、ユキちゃんは顎に手を当てて、なにやら考えているようだった。
あまりお化粧しないユキちゃんは、色つきリップだけを使っている。
それによって、私の視線は、必然的にその赤い果実のような唇に向かう。
「好きな人と二人っきりで、勉強に集中できるのかな?」
いま気付いたんだけど、とでも言うかのような口ぶりに、私はずっこけそうになった。
この子は、実は小学六年生とかなのではないだろうか。
私の苦笑いを見たユキちゃんが、ちょっと不服そうに頬を膨らませる。
「なに、カエデちゃん」
ひまわりの種を頬に含んだまま、ユキちゃんは私を可愛く睨みつける。
「ユキちゃんは可愛いですねー」
私は思ったままを発言したのだけれど、意図せず子どもをあやすかのような口調になってしまった。意図せず。
「なによ、子ども扱いしてっ」
ユキちゃんは怒ってしまい、教室の前を向いてしまった。
でも、私はユキちゃんが本気で怒った姿を見たことがない。これも怒ったフリだろう。
しょうがないなぁ、そう思って、形だけでもユキちゃんに謝ろうと、私が口を開こうとしたとき。
「じゃあさ、私が立花くん役やるからっ。カエデちゃんがナツミちゃん役やって?」
急に機嫌を直したユキちゃんが、元気よく、意味がわからないことを言い出したのだった。
以前から、ユキちゃんには、突拍子もないところが存在していた。
しかし、いまの発言は、その中でもトップクラスに謎めいていた。
「えっと……どういうこと?」
私は戸惑いながらも、ユキちゃんの意図を探ろうとする。
「カエデちゃんは、男の子と女の子の、そういうことをよく知っていらっしゃる大人なんでしょ? お子ちゃまな私のために、一肌脱いでほしいなぁ」
悲しそうな顔をしたユキちゃんが、劇のセリフのように言葉を紡ぐ。
なるほど、からかわれた意趣返しをしようということなのだろう、おそらく。
私だって、好きな人がいたことはあるけど、誰かと付き合ったことはない。
恋愛経験でいえば、皆無であるユキちゃんとそんなに大差はないのだ。
「カエデちゃん、なにか失礼なこと考えてる?」
「ううん、別に」
しかし、それを言ってしまったら、なんだか癪だ。
ここは、ユキちゃんの提案にあえて乗ることにしよう。
「面白そうね、教えてあげようじゃない。男の子と女の子が、どんな風に勉強するのか」
私の返答が意外だったのか、ユキちゃんは少し目を見開いた。ふふん、やっぱりね。
私は調子を取り戻したように、得意げに話を続ける。
「ユキちゃんが立花くん、というか、彼氏役でいいんじゃない?」
実際の人物を模倣して恋人ごっこをするのって、なんか罪悪感とかありそうだし。
「そ、そうね。私が、彼氏……」
ユキちゃんはためらいがちに、自分の役割を確認する。
ふふ、自分が適当に言った突拍子のないことを、本当にやるとは思っていなくて焦っているわね。
「それで、私が、彼女役ね」
まあ、適当にごっこ遊びを楽しんで、気分転換になればいいだろう。
私は、そんな風に思っていた。
「ねえ、カエデちゃん」
ユキちゃんが、不安そうな顔で私の名前を呼んでくる。
やっぱり止めたいとか、そんなところだろうか。
「なんか、男の子のフリするのが恥ずかしいから、目をつぶっていてくれない?」
確かにユキちゃんが、ほにゃららだぜ、とか言っている顔を見たら、私は笑ってしまうかもしれない。
「まあ、いいよ」
私はそう言って、目をぎゅっと閉じた。
真っ暗、ではなくて、まぶたの裏の色が視界いっぱいに広がる。
「絶対、絶対に開けたらダメなんだからね」
念を押すユキちゃんの声が、私の耳に届く。
その必死な声音に、思わず笑みを浮かべそうになってしまう。
「はいはい、いいから早く始めようよ」
私が了承したのを聞いて、ユキちゃんは、わかった、と言葉を発した。
「カエデ、まだそんなところ確認してるのか?」
私が手に持っている英単語帳を見て、ユキちゃんは言っているのだろう。
でも、ユキちゃんの精一杯の男の子演技に、私は笑ってしまう。ああ、我慢できなかった。
「ははは、そうなの、あんまり覚えられていなくて」
「眺めているだけだったら、あんまり意味ないと思うけどな」
私が笑ってしまったことで、ユキちゃんがすねて終了になるかと思った。
しかし、意外にもユキちゃんは、ごっこ遊びを続ける。
「えーと……ユキくんは、どうやって覚えているの?」
私もちょっとだけ、真剣に演技してあげることにした。
「俺は……そうだな、基本的には書いてるけど――」
ユキちゃんが席を立つ音が聞こえた。
「――音で覚えるのも大事だから、読みながら進めるかな」
私の右耳から、ユキちゃんの声が聞こえる。
そして、英単語帳にユキちゃんの手が添えられたのを感じた。
たぶん、座っている私の右隣にユキちゃんはいて、少し屈みながら英単語帳を見ているのだろう。
これ、私の立場が弱すぎじゃないかしら。
今さらになって気付いたが、女の子役で目もつぶっているのだから、私が主導権を握るのは難しいのではないだろうか。
そんな私の後悔は知らずに、ユキちゃんは演技を続ける。
「ほら、俺が読むから、カエデは日本語の意味を言って」
「うん、わかった」
このごっこ遊び、いつまで続けるのだろうか。
ずっと目をつぶっているのって、ちょっと不安になっていくのよね。
「コンセントレート」
英語の先生のような、ユキちゃんの発音のよい英語が右耳の近くから聞こえる。
「えーと、集中」
はじめの方の単語は、何度も見たから覚えている。
「カエデ、品詞を意識して覚えていないといけないよ。これは動詞だから、集中する、だよ」
ユキちゃんが、高い声をなるべく低くするようにがんばった声音で、私は注意された。
だから、本来であれば笑っちゃってしょうがないのだけど、なんだか私は怒られてどきどきしてしまった。
目を閉じていて、不安だからかなぁ。
「……集中する?」
「そう、これはコンセントレート、集中する。じゃあ、これの名詞形は?」
ユキちゃんは演技に熱が入っているのか、さっきより身体を私に寄せてきている気がする。
「ごめんね、ユキくん。私、あんまりそういうの意識して勉強してこなくて……」
どうして私は、真剣に申し訳なくなっているのだろう。
ユキちゃんの熱が、私に移ってしまったのだろうか。
「謝る必要はないよ、名詞形はコンセントレーションだね。単語の後ろの方、接尾辞のションは名詞を作るんだよ」
ふむふむ、なるほど。
ユキちゃんは、教え方が上手だ。
それも、私が演技に引き込まれる一因になっているのかもしれない。
「じゃあ、次にいくよ」
「え……まだやるの?」
演技が楽しくなっているとはいっても、あまり続けるとユキちゃんに悪い。
実際、いまも教えてもらっているわけだし。
「どうした、カエデ?」
まだごっこ遊びを続けようとするユキちゃんの方を向いて、私は遊びの終わりを提案する。
目は開けていない、約束だからね。
「えーと、そろそろ、もういいんじゃないかなぁ……って」
お互いに、自分の勉強に戻るべきだと思う。
私が大学受験に失敗する分にはいいのだけれど、ユキちゃんまでそうさせるわけにはいかない。
私の言葉を聞いて、ユキちゃんが大きくため息をついたのが聞こえて、その温かさを微かに感じた。
「カエデ……一回だけだから、それが終わったら、ちゃんと集中して勉強するんだぞ」
ため息のあと、そんなことをユキちゃんは喋った。
なにかしら、意味がわからないわね。
「一回だけ……? ユキちゃん、なにを言っているの?」
「いいから、カエデ……口を閉じて」
いつの間にかユキちゃんは私に顔を寄せていたようで、声が至近距離から聞こえた。
そして私は、なぜかユキちゃんの言葉どおりに口を閉じてしまった。
まだ、演技の熱が、身体に残っていたのかもしれない。
そして、私の唇に、なにか柔らかいものが当てられる。
シャンプーの香りなのか、柑橘系の匂いが私の鼻に届く。
おそらくだけど、ユキちゃんの髪の毛が、私の頬や首筋をくすぐった。
一秒、三秒……そして、十秒。
「んっ……」
息を止めていた私が、思わず息を漏らしてしまうまで、それは続いた。
私の唇が自由にされてから幾ばくの間、私の思考は、頭の中をメリーゴーラウンド、いや、ジェットコースターのように駆け巡っていた。
え? ユキちゃん、なにをしたの? キス?
なんで、どうして、女の子同士で?
はじめて、柔らかくて、いや、違う違う、なんで?
「ユキ、ちゃん?」
私はその名前を初めて呼んだかのように、たどたどしくなってしまう。
呼びかけにユキちゃんが応じる気配はなく、どこにいるのかも掴めない。
「目、開けるよ、いいよね?」
この呼びかけには、いいよ、とユキちゃんの小さな声が返された。
私がおそるおそる目を開けると、机の横にユキちゃんの姿はなく、ユキちゃんは前の席に座り、教卓の方を向いていた。
「ユキちゃん……いま、私に……」
――キス、したの?
私がその決定的な問いを投げかける前に、ユキちゃんはくるっと振り向いた。
なにもなかったような顔をして手を伸ばして、私の顔、頬の辺りを触ってきた。
「カエデちゃん、こんなところに消しゴムのかすをくっつけて、どうしたの?」
そう言ったユキちゃんの指先には、ひじきのかけらみたいな消しゴムのかすが摘まれていた。
「なっ……じゃあ、さっきのは……!」
私が驚く表情を見たユキちゃんは、かすを摘んでいるのとは反対の手を出してきた。
その手には、カバーが外された消しゴムが握られている。
「カエデちゃん、大人の女性はチュウするときに、まぶたぷるぷるーってさせるんだねっ」
私をからかいながら微笑むユキちゃんは、いつものユキちゃんのはずだ。
しかし、その眼差しや口元に子どもっぽさはなく、なぜだか私は、ユキちゃんの顔を直視することができなかった。
「もう……人を、からかって……」
私は、もっと怒っていいはず。
けれど、私の怒りの熱量は、ユキちゃんによって、別のエネルギーに変換させられてしまうようだ。
「ごめんね、カエデちゃん」
微笑みながら、ユキちゃんは私に謝る。
……まあ、別にいいか。最初にからかったのは私だし。
「もういいから、勉強しよ?」
私の言葉を聞いたユキちゃんは、嬉しそうに頷いた。
「そうだね。絶対に、同じ大学に行こうね」
そう言って、ユキちゃんは前を向いて、また勉強に集中しはじめた。
返事をしなかったけれど、私も同じ気持ちだ。
――よし、がんばろう。
そう思ったときに、口の横がなんとなく、くすぐったくなった。
まだ消しゴムのかすがついているのかも、と思って手で拭ってみたが、リップが手につくだけで、取れたのかどうかはわからなかった。
まあ、いいか。メイク直しも、あとでいい。
いまは、ひたすらに、がむしゃらに、英単語帳に向かうのだ。
私は、ユキちゃんと同じように、受験生なのだから。