水月をもちて君観ゆ
彼は、大した力を持たない。
まず、体力がない。権能もまた、知れている。彼といいつつ性別も、単一の名も持たぬ。いつ生まれ、どうしてそこに居るのかもまた、判然とせぬ。
水辺に潜み、基本的には屍肉を捕食する。そういう、弱々しい存在。
彼や、彼の同胞がそうやって『掃除』をすることで、自然の環境は保たれている。彼が『いのち』だったものを分解し、体表から蒸発する水とともに魔素として『いのち』を放出、こうして環境を循環させているのだ。
もっとも、彼らは環境を守りたいという、確固たる意志に突き動かされているわけではない。
ただ、そう在るだけ。
それが彼の人生――いや、スライムという種族の彼に、より正確な表現とするならば、それが彼のスラ生であった。
かといって、彼が何も考えていないかといえば、それもまた違う。
時折彼の体内に飛び込んでくる小魚や羽虫、微生物を生きたまま吸収することで、元の生物の能力や思考を一部得るというささやかな権能が、彼には備わっていた。だから、彼には「水の中が気持ち良いな」と漠然と感じることが出来るくらいの思考力はあるし、体表の一部を若干尖らせることもできた。かなり時間がかかるけど。
そんな彼のもとに現れた『彼女』は、ひどく弱っていた。
人間。人間族の女。
名も無い彼がそれを知ったのは、少しだけあとのこと。具体的には、彼女だったモノが、彼に吸収されたあとの話である。
名も無き彼は、混乱した。生まれてはじめて混乱した。これは混乱するだけの思考力を得たということに他ならない。
だって。彼はその――人間の女だったモノに、襲いかかったわけでもない。
ただ、湖面の、浅瀬のあたりをぷかぷかと。浮いたり、沈んだり。ただ、のんびりと漂っていただけだ。
そこに彼女が倒れこんできたのだ。
少しふらふらとした後、彼の上に倒れた彼女には、その時点ですでに意識がないようであった――というのもまた、思考力を得た今思い返せば、という程度の情報である。
そして名もなきスライムの彼を混乱の渦に叩き込んでいるのは、初めて芽生えた『記憶』という概念。
彼女――ステラという名前らしい、その人間の女の、これまで生きてきた記録だった。
ステラはこの湖の近くに住む猟師の、ひとり娘であったらしい。
数日前に流行病で、唯一の肉親であった父を亡くし、自身も病に侵されて――這うように外へと、湖の側へと出てきたところで、ついに力尽きた。
人間も、猟師も、病も、何もかもがスライムである彼にとっては預かり知らぬ概念。いきなり与えられた記憶。彼の混乱は深い。
彼の中を駆け巡るステラの記憶と感情は、大きな焦りを帯びたものだった。その焦りが伝播して、スライムも焦る。わけもなく焦る。そして駆け巡る、ステラの記憶。
――ステラは、自分がもう長く保たないことを、自分でもわかっていた。手の先から血の気が失せ、冷え切って動かなくなっていく。視界は端からどんどん黒く染まっていく。
怖い。怖い。怖い――!!
ステラの記憶に焼き付いた直前の感情が、彼を焦燥に駆り立てる。
そして最後にたどり着いた、ステラの思い。
『最期にひと目、彼に逢いたい』
その思いに突き動かされて、もううまく動かない手足を気力だけで動かして、ステラは家を這い出た。そして湖で、力尽きた。
彼。人間族の男。
ステラのために、山を超えて薬を取りに戻った男。愛しい、男。自身も病に侵されていたはずなのに、咳込みながらも気丈に微笑んだ、彼。
彼に、逢いたい。
その想いは、病の苦しみに匹敵、否、凌駕する。ステラの最期の望みを名も無きスライムが思い出したとき、彼の全身を衝動が突き抜けた。
――逢いたい。彼に逢いたい。逢いたくてたまらない――!!!
はじめての思考に、はじめての記憶。そしてはじめての感情に振り回されて、名も無きスライムは混乱している。わけもわからず自分を攻撃した。
「痛い!」
痛かった。
声が出た。
スライムには存在しないはずの喉を通って空気を震わせた声が、彼の口から飛び出したのだ。
それは『記憶』にある、ステラの声そのもの。
なにごとか。彼はスラ生はじめての狼狽をして、自らの手足を見下ろした。
肌色。それが肌色だということを、彼は知っている。彼の記憶ではないが、知っている。
それが手足だということを、知っている。
それが年若い女の肢体だということを、知っている。
そして、目の前で湖面を流れていきそうな、服という物体を着ているべきだということもまた、知っていた。
服を湖面から引き上げて、胴体を隠すようにしつつ――なんとなく、そうしたほうがいい気がしたのだ――彼は、ステラの暮らしていた小屋へと辿り着いた。
中にあった鏡とかいう物体を眺めてみると、不思議そうな目で見返してくる女の姿と目があう。
「これが、ステラ」
これが、私。
人懐っこさを感じさせる、大きな翠色の瞳を輝かせ、ぷっくりとした唇が言葉を発する。
一つにまとめられた茶色い髪も、翠の目も、生前のステラが気にしていた若干控えめな胸も、全てスライムボディで再現された、紛い物である。その証拠に、髪もほっぺたも、引っ張れば引っ張っただけ伸びた。手を離すと、バチン! と勢いよく戻る。
「痛い!」
痛かった。
声が出た。
ステラの記憶に従って、服というのを羽織ってみる。
スライムボディに対してむにょんとくっついてしまうので、服というのはあまり好きになれない。
「でも……いまは私がステラなんだから」
せめて彼に逢うまで――彼女の最期の望みを叶えるまで、頑張ろう。
不慮の事故とはいえ、彼女を食べてしまった名も無き彼は、小さく拳を握りしめて決意する。
そうすれば、この控えめな胸の奥の、堪え難い疼きもおさまるものと、そう信じて。
スライムステラは、小屋の中をぺたぺた歩く。
砂や埃を吸収しながら、裸足でぺたぺた歩く。
足取りは軽く、病の痛さ、辛さは微塵も感じない。怖さも、寒さも感じない。それもそのはず、スライムボディで再現された身体は、見た目だけの紛い物。病に罹るような複雑性は、持ち併せていない。
ただ、彼に逢いたい。最期にひと目、彼に逢いたい。
その想いに、突き動かされ。引っ張られ。引き摺られ。スライムステラは足を動かす。
ぺたぺたぺたぺた。
大して広くもない小屋の中をただひたすらに、歩き回る。
逢ってどうするかなど、考えていない。ただ逢いたい。ぺたぺたぺたぺた。
そうして。一日を照らした輝きが山の向こうに沈み、優しい輝きが顔を覗かせて暫くした頃、スライムステラは何かの来訪を察知する。なんだか、懐かしいような。そんな、不思議な感覚。
たまらず小屋を裸足のまま飛び出したスライムステラ。
彼女を正面から見据えるように、湖のほとりに、彼がいた。
何かの小瓶を大事そうに抱えた彼は、走り寄る彼女を見詰めている。
「逢いたかった」
「絶対に、死んでも届けないと」
スライムステラの声への彼の返事は、全く噛み合わないもの。
なんだか、おかしいな? スライムステラは、手に入れたばかりの思考力に従って首を傾げる。
すると、相手も全く同時に、同じく首を傾げているではないか。
湖のほとりで、ヒトガタがふたり。揃って首を傾げるシュールな光景を、月だけが見下ろしている。
やがて、ヒトガタの男が小瓶を見詰めて、ぽつりと言葉を零した。
「そうか。僕が僕である必要は、もう、ないのか」
投げかけられた言葉の意味が、スライムステラにはわからない。
だから、ただ首を傾げる。その首が、人間にはあるまじき角度まで曲がっていることに、スライムステラは気づけない。
人を食ったような態度で男は一笑いすると、湖面を覗き込む。
バシャリ。
とたんに、その身が弾けた。スライムステラの見ている前で、魔素を周囲に放ちながら、服と靴と小瓶をその場に残して。
いくつかに別れた同胞は、湖面をすいーっと泳いで行って。ちゃぷんという、小さな水音ひとつ。
それだけ残して、彼だったものは湖に消えた。割かれた湖面の月が一つに戻った頃、スライムステラは、満足げに頷いて碧の目を細めた。
バシャリ。
私である必要がなくなった名も無き彼もまた、その身を弾けさせ、彼のスラ生においてはじめての達成感に包まれながら。
月の見下ろす湖を、ただ悠々と泳ぐのだった。
スライム限定コンテストという響きに惹かれて、思いつくまま書いたは良いけれど文字数をオーバーした代物を供養のために投稿しました。
「人を食ったような」って言いたかったがための産物です、はい。