某スポーツ誌風
「正直、バット振るだけでも相当苦労していたと思うんです。それが、日本シリーズでのホームランでしょ?」
コーチとして関わっていただけに、Bの言葉には窺い知れない情念が込められていた。
「もう、あんな選手は出てこないでしょうね。後にも先にも。我々も、出さないようにしなければ」
深い皺が刻まれた顔に悔恨が滲むのも、無理はない。あの日無理にリスクを冒さなければ。そして、その後の強行出場がなかったなら。Aの野球人生は今とは違うものに、それもより華やかな陽の当たる場所での物語になっていたのは間違いないのである。
「いや、肩を痛める前から頭打ちな感覚はありましたし、逆に功労者扱いでリハビリ期間を長く取って貰えたからこの年までプレーできたのかも知れない。案外、塞翁が馬かも知れませんよ?」
しかし、そんな言葉をぶつけてみても、Aは莞爾と笑うばかりであった。ユニフォームをシャツに着替えても、未だに体は分厚いままだ。
「トレーニングは継続しているんです。打つだけなら、まだもう少し、やれるんじゃないかって気持ちもあります。ただ、あの試合で、もう僕の未練は成仏しましたから」
Aは○○年に、ドラフト下位でプロ入りを果たした。ベスト八校の四番捕手として甲子園を沸かせ、その前評判を引っ提げて弱肉強食の世界へ足を踏み入れたものの、一年目に早速捕手失格の烙印を押されてしまう。
「プロに入るまで、キャッチャーとしての指導をほとんど受けたことがなかったんです。指導者の方々も、みんな投手や内野、外野手ばかりで。自分なりに本を読んだり、インターネットで調べて練習していたんですけど、他のキャッチャーとは月とすっぽんの差がありました」
おいA、秋季キャンプからは、キャッチャーミットを持って来なくていいぞ。その言葉を聞いたとき、ホッとしてしまったのだと言う。
「こんな責任感のない人間は、やっぱりキャッチャーなんかやっちゃいけなかったんでしょうね」
新たにグラブを用意し、外野手としてノックを受けた。キャッチングの不味さから生かせなかった強肩も、外野からなら存分に真価を発揮できそうだった。
守備面での苦悩から解放されたことに加え、プロの水にも慣れてきたのだろう。スライスする打球を真っ直ぐ追えないなど拙さを露呈したものの、教育リーグで出番を得ると打撃面で好成績を残した。翌年、二軍で優先的に出場機会を与えられるようになると、三年目には主軸を任され好成績を納める。昇格のタイミングが合わず一軍初昇格こそ果たせなかったが、それでも秋春とキャンプで一軍に呼ばれるなど、Aは期待の若手として首脳陣やファンから注目されはじめる。
そして四年目のシーズン。開幕一軍こそ逃したものの、この年プロ初本塁打をマークする。翌年二桁本塁打を放って高いレベルでプレーする確信を得ると、六年目にAは、遂に飛躍を果たす。
レフトの定位置を確保すると、三十本塁打をマーク。翌年やや成績を落としたものの中軸に座り続け、レギュラー三年目には初の三割をマークする。
「とは言え、最後のほうは打席に立っていなかったんですけどね。ヒットも飛んだ場所がよかっただけだったり、スイングが崩されたまま直らなくて。『来季こそは、再びホームランバッターに戻るように』なんて言ってもらえましたけど、もっと深い場所へ落ちていく感覚がありました」
その予想通り、翌年からAの成績は下降しはじめる。逃げる低めのボールを追いかけながら拾ってしまい、凡退することが多くなった。クリーンナップから外れ、下位打線が定位置となり、やがては対左投手専門に。それとて、研究された攻めに対応しきれず、徐々に出番は少なくなっていった。
スタメンを奪回したシーズンもあったものの、A曰く「どうして去年駄目で、今年は良いのか説明できない」状態では、当然活躍も続かない。それでも、経験を積んで巧みになった守備を買われ、試合終盤にはグラウンドに立つことのほうが多かった。そしてその日も、勝ち試合を締めるために、Aはグラウンドへ送り出されたのだった。
「守備固めからの出場だったんですけど、久々に打席が回ってきたんです。そこでヒットが出て、得点にも結びついたものですから、気持ちが乗っていたんですよね。いつも通り飛んだだけだったんですけど」
ゴリッという音が聞こえ、肩にロックが掛かったように動かなくなった。交代し、時間が経つにつれて強まる痛みを感じながら病院へ向かうと、医師からは右亜脱臼という症状を告げられた。選手生命に関わる重症。しかしその割に、Aの復帰はシーズン中であった。
「そのあと、外野手が足りなくなってしまって。急造で何人か守ったんですけど、慣れてないと意外に辛いんですよ。それがバットにも影響したらもして。チームも上位争いの中にいましたし、行けますって」
翌年、Aは開幕を二軍で迎えた。無理を押した結果、右肩が悲鳴を上げたのだ。シーズン中に手術を受けたものの芳しくなく、オフに再びメスを入れた。
「出たことの後悔はないんです。その瞬間瞬間に全てを込めてプレーしてますので。それでも、野球ができないのは堪えました。余計なことばかり考えてしまって」
初めてグラブ買って貰った日から野球漬け。他のことなど、何も知らずにきてしまった男が、人生の大半を捧げてきたものを取り上げられる。その喪失感は、如何ばかりだったか。
「そんなときですよね。コーチのBさんが、左投げの練習をするぞって。最初は冗談かと思ったんですけど」
しかしBは、本気だった。もっとも、守備に就けるようになるとまでは考えていなかったという。
「それはさすがに、無理だろうなと。ただ、左投げの練習自体は、前からやらせてみたかったんです。右投げ左打ちの打者が押し込む感覚を覚えるために左投げでキャッチボールをしたり、左利きの右打者が内角を上手く捌いたりは聞いたことがありますよね?」
実際、オフシーズンの間は、普段と逆の利き腕、打席位置で練習する選手はいる。
「Aは右半身に頼ったスイングをしてきました。一見、軸足に体重を乗せた形のいいスイングに見えるかも知れません。しかし、実態はヘッドが走らない、単なるドアスイングです。ボールにぶつけるようなバットの使い方でも器用さで誤魔化してきましたが、弱点を研究されてからは甘い失投と得意なコース、ボール以外を滅多に打てなくなってしまった。引っ張りしかできないのだから、当然です。そこで、左手の使い方を改善し、代打で生きていけるようになって欲しかったんです」
当初は、リリースポイントすらわからず、ネットスローでケージ部分にぶつけてしまうこともあった。地面へ叩きつける練習では、上手く足元へ投げられず、跳ね返ってきたボールに鼻を折られたこともあったという。
「それでも、少しずつ投げられるようにはなりました。塁間、ホームから二塁、カットマンまで。そして、バックホーム」
勿論、試合に復帰するうえで、距離を投げられるだけというのはなんの参考にもならない。一人のときでも、壁当てをしながら捕球から送球までの足捌きを繰り返した。その効果が、打撃練習で現れる。
「逆方向へ打った打球が、まるで引っ張ったように伸びていくんです。これまで芯で捉えたけど三塁線のファールだった打球も、切れずに長打コースを望めるようになったり。緩急やコーナーの揺さぶりに崩されない、間というものを得られた気がしました」
それは、左手の器用さが増したからですかと尋ねたところ、Aは難しそうに少し唸った。
「というより、右腕と言うか、それが生えてる胴体、でしょうか。投げるとき、グラブで壁を作れって言いますよね? これまで打席に立っているとき、左の壁を何度も意識しようとしたんですけど、そしたらバットが出なくなってしまい、結局開いて振っていたんです。でも、左投げをする際の右手に填めたグラブで胴体の力を使いながら壁を作る動きを覚えて以来、胴体がブレなくなったんです。右肩が動かなければ、自然と左肩も開きませんよね? あとは、軸足で回ってバットを横振りするのではなく、自然にヘッドを落とすだけで勝手にバットが走るようになるんです。体は残ったまま、動きの中で軸ができて、鞭のように腕とバットをボールへ乗せる。初めて打撃というものがわかった気がしました」
ある打撃コーチは、野球のスイングとボクシングのワンツーが似ていると語っていた。ハナから右ストレートを大振りするのではなく、左ジャブを出し、それを引きながらの右ストレート。このコンビネーションというものは、腕の力に頼っていてはなし得ない。あくまで腕の力を抜き、下半身のパワーを体幹(胴体)に伝え、その切れで行うのだと言う。それが、どんな競技にも当てはまる基本と言うものなのかも知れない。
Aの復帰には、否定的なファンも多く存在した。かつての功労者とは言え、あまりにも長い期間一軍から遠ざかってしまったからだ。ピーク時一億円を越えていた年俸も、今では約十分の一。ドラフト下位でも一発サインを続ければフロントからの覚えもめでたくなる。そんな揶揄を耳にしたこともあったと言う。
しかし、結果を残し続けることで、そんな声も小さくなっていった。左投手に対する代打の二、三番手から、右や軟投派も苦にしない代打の切り札に。驚異の代打打率三割を越える成績を残し、Aは遂に復活を果たした。公式戦で守備につく機会こそなかったものの、シートノックで見せる年々滑らかさと力強さを増す外野守備は、初めから左投げだったのだと言われても信じ込んでしまうほどのものであった。
そして、一昨年の日本シリーズでAは、セーブ王を獲得した豪腕クローザーを相手に起死回生のホームランを放つ。この試合の勝利で土俵際踏み留まったチームは、その久々の日本一に輝いた。
「この年はシーズン成績があまりよくなくて。右肩を庇ってしまい、内角以外の速球を打てなくなってしまったのが原因だったんですけど、幸い相手はほぼ真っ直ぐとフォークのピッチャーでしたから。軽いバットで肩を庇わないようにして、フォークを狙い打ちしたんです。それぐらいはできますよ」
そう事も無げに語るものの、その年セーブ成功率百パーセントだった投手が相手となれば、偉業と呼ぶに相応しい。
優秀選手賞も獲得したものの、翌年は二軍暮らしが続いた。右肩が、もう限界だった。
「もう、半分スタッフでしたから。左投げの打撃投手が足りないということで投げたり。守備範囲も、情けないぐらい狭くなっちゃって」
シーズン本拠地最終戦。Aは四番ライトとして先発出場した。ウグイス嬢が全盛期の定位置を読み上げると、敵も味方もなく歓声が沸き上がった。その試合、Aは二安打を放ち、複数回あった守備機会も無難な処理を見せる。
「もっとも、打ち頃の真っ直ぐを打たせてもらった形でした。守備も、あと少しで刺せそうだったんですけど……もう何歳か若かったらなあ」
とは言え、この試合でAの打って守る野球選手としての未練は、先述の通り浄化されたのだった。
「これ以外の形だったら、絶対脱がずに続けていたと思ってます。それも悪くないとは思いますけど……入った球団で辞められるっていうのも、なんだかくすぐったい感じですよ」
今季球場を訪れても、Aのレプリカユニフォームやグッズを身に付けたファンたちが、少なからず球場を訪れる。
悔いは、ありませんか。そんな私の言葉に、彼はもう一度頷いて見せた。
「ありません。これからも、瞬間瞬間を、全力で生きて行こうと思います。ただ、若い子の力にはなってあげたいですね。自分がして貰えたことを、下の世代にもやってあげられたらと」
そう微笑む彼の目尻にも、皺が目立つようになってきた。日本シリーズでの本塁打のレリーフを持ち出すと、それに照れ臭さが加わる。
「勘弁して下さいよ。みんな、実物を見てがっかりしているんだから。けど、そういう痛さも悪くないんだって、そう過去を振り返る余裕も、若い子たちに用意してあげたいです。じゃなきゃ、先へ進めませんから」