三三話
「平蔵!」
千景は叫んでいた。
つい数分前まで自分の前に立っていた青年が崩れ落ちる。
指先や肘、皮膚をどす黒く染めて伏す姿は、かつて棺の中で見た両親を思わせる。
千景が物心ついた瞬間、自意識を芽生えさせた最初の光景が再び目の前にあった。
「平蔵! しっかりしなさい!」
駆け寄り、体を揺する。
冷たい。
さっきまで動いていたとは思えないほど体温が低い。
腕や小さな切り傷からは止めどなく血が流れ、地面に放射状に広がっている。
まるで、青年の命がそのまま流れ出しているかのようで、千景は怖くなった。
「ダメよ! ダメ! 平蔵! 死んでは、ダメ!」
無意識に広がる血を集めようとする。
地面に染み込み、砂と混じる血を、それでもかき集めた。
「また、私を、一人にしないでよ! 平蔵!」
涙が落ちる。
熱を持った涙が、冷え切った青年の肌を打つ。
◇
体に力が入らない。
圧し掛かるような痛みと倦怠感。
体中に鉛を流し込まれたようだ。
虎と戦い、毒を受けた時は熱かったが、今は凍てつくほど冷たく感じる。
――――今度こそダメか?
深い海、底の見えない闇にに引きずりこまれるような感覚が支配する。
なのに、顔だけが熱い。
凍えた体を、心を繋ぎ止めてくれる。
――――誰が?
絶望的な状況で、体を包む存在に気づき、眼を開けた。
「……ちか……げ」
「お願いよ平蔵! 起きて! 死んではダメ!」
彼女の流した涙が口に入る。
ごくり、と喉がなり、染み渡るように体へと消える。
ああ、俺はまだ生きている。
助けを求める人がいる。目を閉じるわけにはいかない。
「ちかげ……さま」
「平蔵! 目を閉じてはダメよ!」
幼女の涙に心が奮える。
終われない。まだ、こんなところでは終われない。
「お、おねがい……が、あります」
一つだけ考えが浮かんだ。
危険な方法だが、どのみちこのままでは千景の命はない。
そして、憂慮すべきはもうひとつある。
いつか、この危険はあのちび殿下にも向けられるかもしれない。
ダメだ。
どちらも容認できない。
―――――ならば
一縷の望みを賭け、願いを口にする。
彼女は驚きつつも頷いてくれた。
あとは自分の体を信じるしかなかった。
◇
「ふん」
男にとって、簡単な仕事だった。
倒れる近衛と、それに縋る幼女。
何度も見てきた光景であり、男は罪悪感すら感じない。
当然だ。
仕事であり、もう何年も続けてきた。慣れてしまったからだ。
あとは残った子供を腕や足に仕込んだ刃で傷つければいい。それですべては終わる。
「ん?」
幼女が自らの手首を切った。
諦めて自殺でもしたのか。稀にこうしたやつがいる。
恐怖と絶望から自ら命を断つのはありえることだ。
「手間が省けたな」
しかし、あろうことか幼女は傷口を近衛の口に押し当て、噴き出す血を飲ませている。
「頭がおかしくなったのか?」
まぁいい。二人とも消せばそれで終わりだ。
「消えろ」
なんの感慨も抱かず近付き、殺そうとした。
なのに、
「む?」
死にかけていたはずの青年の手が伸び、足を掴む。
「……ふん」
最後の悪あがきか。
そう思い、掴まれたままの足を振る。
死にかけで力など入るはずがない。すぐに離れる。
なのに、青年の指先から伝わる力は段々と強くなる。
「ちっ、死にぞこないが」
小刀の埋まっている靴の爪先で蹴り上げた。
顎から頬を切り、血が飛ぶ。
「……目が、覚めた」
「っ!」
今度は男が驚く番だった。
青年の瞳は理性が、意識が戻っている。
敗血症で全身が炎症を起こし、ショックで死にかけていたのに、そこから起き上がっていた。
「ど、どうなっている?」
この方法で夥しい数を殺してきた。
近衛だろうが一般人だろうが区別なくだ。
なのに、この青年は死なない。
「き、貴様、どうして!」
「知……るか!」
足を取られ、バランスを崩したところに引き込まれ、左頬を打ち抜かれた。
久しく忘れていた痛みを男は思い出していた。
◆
「はぁ……はぁ……」
危険な賭けだった。
それでも今、自分は立っている。
「げほっ、がはっ!」
新潟での一件、虎との戦いと同じように喉に溜まった血を吐き出す。
今度は固まっていない。消化器系の出血ではないのか。
「へ、平蔵……」
胸元には千景がいる。
血を分け与えてくれた小さな体が震え、自ら切った手首を押さえている。
早くしないとこの子まで手遅れになってしまうだろう。
「すぐに終わらせます」
「……うん」
安心させるように頭を撫で、シャツを破ってきつく巻き付けた。
力の抜けた小さな体を地面に寝かせ、戦闘に巻き込まれないようにと大きく距離をとる。
「……ってぇ」
刀を握ろうとすると、指先に鋭い痛みがある。
よく見れば感覚が鋭い手のひらがボロボロと崩れて肉がむき出しになり、筋繊維までが見て取れた。
「壊死……」
脳が言葉を元に記憶を引っ張り出す。
自分でも信じられないほどの知識と思考が絡み合い、答えを形成する。
全身が痙攣するのはショック症状の現れに他ならない。
それらの症状を引き起こすものは大きく分けて三つ。
一つは物理的な負傷。
大口径の弾丸などで撃たれると、人間は血液や血管を伝って衝撃が全身に波及してショック死する。
二つ目は心理的なもの。
過剰なストレスにさらされると脳がアドレナリンやドーパミンを過剰放出してしまう。
結果として麻薬のオーバードースに近い症状を引き起こし、ショックを引き起こす。
二つとも肉体の壊死まで至らない。
残る一つ、これには覚えがある。
つい先日、帝都で城山の体で見たもの。
糖尿病や肝硬変で引き起こされる肘や膝の黒化、血行不良による細胞の炎症、壊死を引き起こす。
「はい血……症、しゃけつは正かいだったな……」
「……き、貴様。どうやって」
答えてやる義理はない。
ただ、虎にやられた時を思い出しただけだ。
治療した伊舞はこうはなしていた。瀉血して毒素をなるべく排出した、と。
思いついたのは自らの太ももの内側にある動脈を切っての放血。
失血は生命にとって致命的となる。
しかし、敗血症によって汚染された血液が全身に行き渡るのを防がなければならない。
血を失えば遠からず倒れてしまう。そこで覚めたものの回復力に賭け、千景の血を飲んで水分と塩分、エネルギーの補充を行った。
大雑把な計算ではあるが血液一〇〇㏄に含まれるカロリーは約八〇キロカロリー。
体重から推察できる千景の循環血液量は約二.七リットル。
生命活動を維持するには三分の二が必要となるため、俺が受け取れるのは九〇〇㏄、七二〇キロカロリー。
これでは五分が限界だろう。
それでも、与えられた五分でやるしかない。
「行、くぞ」
「ちぃ」
血を貰っても言葉が震える。体力の消耗が激しい。
それでも ”防人”安吉を持ってなんとか走る。
袈裟懸け、横薙ぎの連撃に男は両腕を使って防御する。
これまでの軽快さはない。
「……お、お前、覚めてる……な?」
「……」
問うても、男は無言。
攻防の中で荒い息をしている男へ、さらに言葉を投げかける。
「お前の、う、腕にあるのは刀だ。腕……と足につい、てるのは……脇差しと小……柄小刀」
推論を並べて、思考を整理する。
そうでもしなければ痛みで発狂してしまいそうだ。
「か……か、隠してい、るのは刀と、判明させないため。導き、だ、出される……答えは、一つしかない」
そう、こいつ自身が覚めているとしたら、固有能力を持っているとしたら、すべてに説明がつく。
いくら格闘技を身に着けていたとしても一般人が俺と張り合えるわけがない。
そしてこの症状。おそらく病原菌か何かを保有し、刃に乗せて切りつけている。
細菌は目に見えない。少しでも触れれば、そこから体内に入り込む。
目立たない小さな切り傷なら警察もわざわざ検死を行わないはずだ。
「西園寺、一族の……不審死、千景様……の両親の事故、どちらも、お前の仕業だ」
「……だとしたら?」
男が口を開く。
パーカーの奥、爛々と光る眼から放たれる殺気は微塵も衰えない。
「て、帝都本部に……突き出、してや……る」
「できるものならな!」
「……言って……ろ!」
男が”防人”安吉を腕で受け、同時にボクシングのワン・ツーの要領で突きを放ってくる。
虎との一件でもそうだったが、こちらには防御手段がまるでない。
一発はどうにか肩で防いでも、左右どちらかはもらってしまう。
「がはっ……」
右を警戒するあまり、左フックを貰い顎が砕けて踏ん張りがきかなくなる。
視界は明滅し、体力の限界が近いことを告げていた。
――――ここで決めなければ
痛む手を伸ばし、指先の感覚にすべてを集中させる。
「つか……まえ、た!」
片手では足りず、自分で刀を太ももに突き刺し、能力を維持しながら両手で男の胸ぐらをつかむ。
そうでもしなければボロボロになった手では逃してしまいそうだった。
「貴様! っ!」
両手を使っているので防御がなく顔や腹が打たれ放題になる。
でも離さない。
「ちっ!」」
舌打ちに焦燥が表れている。
とっさに引かなかったのはフットワークが使えないからだ。
刀の間合いでは戦わせてくれない。かといって打突では圧倒的に不利。
残るは超密着、至近距離での殴り合いしかない。こうなれば躱すことも受けることも不可能。
「っ!」
あとは残る腕力で引き寄せ、頭突きをする。
一回、二回と額に固いものが当たる。
三回、四回と続けるうちに相手の攻撃は止んでいた。
「ひんじゃ……くだ……な」
思った通り、こいつは打たれ弱かった。
暗殺に特化し、相手を一方的に攻撃できたから今まで反撃を食らうこともなかったはずだ。
それゆえに、俺程度の握力でも痛みを引きずり、フットワークを失った。
男が倒れ伏すのを見届けると、手を放して地面に転がす。
力の入らない指先で男の腕や足から刀を引っぺがせば、ギミックがよく分かった。
男が持っていた刀は柄の部分で九〇度曲がるように細工がされている。
これならば腕に添わせるように持て、攻撃にも防御にも使える。なるほど、暗殺向きというわけだ。
また起き上がられても困るので、刀はそのあたりの草むらに投げてから腕と足を縛る。
全身に寒気と倦怠感、象でも乗っているような重みがある。
手のひらも指先からの出血は止まらず、手は筋繊維まで千切られた様になって骨が見えていた。
男を縛り上げると力が抜け、膝から崩れる。
気が付けば地面が目の前にある。
「……俺、こんなん……ばっかりだな」
たった半年の間に何回も死にかけてる。
何のためにしているのか、どうして自分はこうしているのか、もうわからない。
「へ、へいぞう」
千景が呼ぶ声がする。
そうだ。
あの子を連れていかなければ――――。
「ち、かげ様」
声のする方へボロボロになった手で地面を這い、ご主人様の元へ手を伸ばす。
この子を、舞鶴まで連れて行かなければ。
「へいぞう……へいぞう」
「ちかげ、さま、今、参ります……」
「へいぞう……」
「ちか……げ……さ」
指先に温かいものが触れる。
感覚がなくなりつつある手に、温かさを感じた。
「へいぞう」
意識はそこで途切れる。
遠くからサイレンの音が聞こえた。